お和尚様と、道草 - 第1話 学校の近くの子
九月の終わり。
朝は少し肌寒くなってきたのに、昼間の陽射しには、まだ夏の名残が残っていた。
武並小学校の下校のチャイムが鳴ると、子どもたちは一斉に教室を飛び出していった。
廊下に上履きの音が響く。
昇降口では、誰かが笑い、誰かが忘れ物を取りに教室へ戻り、誰かが先生に呼び止められていた。
アンズも靴を履き替え、ランドセルを背負った。
今日は国語と算数の教科書に加えて、図工で使った絵の具セットもある。
肩にかかる重さが、いつもより少しだけ増していた。
「アンズちゃん、また明日ね」
亜由美ちゃんが、小さく手を振った。
ゆるく波打った髪が、夕方の光を受けてふわりと揺れた。
「うん。また明日」
アンズも手を振り返す。
亜由美ちゃんは、校門を出るとすぐ、学校の近くにある家の方へ曲がっていった。
少し歩けば、もう家に着く。
ランドセルを置いて、冷たい麦茶を飲んで、宿題をする前に少し遊ぶ時間もあるのだろう。
アンズは、亜由美ちゃんの後ろ姿を見送った。
それから、自分の帰る方向へ歩き始めた。
宿地区までは、まだ遠い。
さやかちゃんと純子ちゃんは藤の方へ帰るため、途中から道が分かれる。
衛くんは放課後のサッカーがあるらしく、ボールを抱えて校庭へ戻っていった。
しばらくすると、アンズは1人になった。
それ自体は、嫌いではなかった。
1人で歩いていると、誰かに合わせなくてもよい。
急に立ち止まってもいいし、気になるものがあれば、じっと眺めてもいい。
けれど、その日はランドセルがいつもより重かった。
肩だけではなく、心の中まで少し重いような気がした。
学校を出てしばらくすると、道は田んぼの間を通る。
風が吹くたび、稲穂が一斉に傾いた。
まだ青さの残る田んぼもあれば、もうすっかり黄金色になった田んぼもある。
同じ秋の中にあるのに、田んぼごとに時間の進み方が違って見えた。
アンズは道ばたへ目を向けた。
少し先に、季節を間違えたように花が残っていた。
春にはもっとたくさん咲いていた花だ。
花を取って、その根元にそっと口を近づけ、少しだけ吸ってみる。
ほんのり甘い。
「今日は、ちょっとだけ甘い」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
さらに歩くと、見慣れた葉っぱがあった。
一枚ちぎって、口に入れる。
少し変わった味がする。
「マヨネーズ」
もちろん、本物のマヨネーズと同じ味ではない。
でもアンズには、なぜかそう思えた。
少し離れたところには、噛むとレモンのような酸っぱさを感じる葉っぱもある。
大人に言っても、
「そんな味するわけないやろ」
と笑われるだけなので、最近はあまり話さない。
自分だけが知っている、通学路の味だった。
それでも、その日はあまり楽しい気分にはならなかった。
亜由美ちゃんの家のことが、頭から離れなかった。
学校の近くに住んでいれば、朝はもっと遅くまで寝ていられる。
忘れ物をしても、すぐに家へ取りに戻れる。
帰り道も短い。
雨の日も、風の日も、長い道を歩かなくていい。
それに亜由美ちゃんのお母さんは、たまに学校の近くまで来ることがある。
体育の授業を少し見ていったこともあった。
アンズのお母さんは、参観日や運動会のような日でなければ、学校へ来ることはほとんどない。
「いいなぁ」
小さく声が漏れた。
「学校の近くの子は、ずるいな」
口に出したあとで、胸の奥が少しちくりとした。
亜由美ちゃんが悪いわけではない。
自慢されたわけでもない。
家が近いというだけだ。
それなのに、ずるいと思ってしまった。
そんな自分のことも、少し嫌だった。
田んぼの景色が途切れ、道の両側に木が増えてきた。
陽射しが葉の間で細かく砕け、道の上にまだらな影を落としている。
木の葉が擦れる音。
鳥の声。
遠くから聞こえる農機具のエンジン音。
その先に、瑞源寺があった。
開けた田んぼの道から少し入っただけなのに、お寺の周りには別の時間が流れているようだった。
木々に囲まれた境内は、外より少し涼しい。
夏休みには、ここで座禅をした。
畳の匂い。
線香の煙。
しびれて感覚がなくなった足。
目を閉じても、頭の中にはいろいろな考えが浮かんできた。
そのたびに和尚様は、
「考えるなとは言わん。追いかけんことや」
と静かに言った。
それからアンズは、学校帰りに寺の前を通るたび、時々足を止めるようになった。
その日も、境内の前で少しだけ立ち止まった。
帰るべきか。
寄っていくべきか。
迷っていると、竹ぼうきを持った和尚様が山門の向こうから顔を出した。
「おう、アンズ。そこで何しとる」
「別に、何もしてません」
「何もしとらん人は、そんな顔で立っとらん」
アンズは黙った。
和尚様は、それ以上問い詰めなかった。
竹ぼうきで落ち葉を集めながら、境内の奥を顎で示した。
「まあ、入ってきな」
本堂の縁側に腰掛けると、木の板がひんやりしていた。
和尚様は少し離れたところに座った。
風が吹くたび、軒先の風鈴が小さく鳴る。
遠くで中央本線の列車が走っている音がした。
木々に囲まれていて姿は見えない。
けれど、音だけは山の間を抜けて届いてきた。
和尚様は何も聞かなかった。
アンズも、すぐには話さなかった。
境内の隅では、蟻が小さな何かを運んでいた。
一匹では持ち上げられないものを、何匹も集まって少しずつ動かしている。
しばらくして、和尚様が口を開いた。
「今日は、えらい重そうなランドセルやな」
「絵の具セットがあります」
「そうか」
「でも、重いのはそれだけじゃなさそうやな」
アンズは膝の上で指を組んだ。
「和尚様」
「なんや」
「学校の近くに住んでる子って、いいですよね」
和尚様は、すぐには答えなかった。
「どうしてそう思う」
「だって、朝も遅くまで寝ていられるし、帰りもすぐだし」
アンズは、ひとつずつ数えるように話した。
「忘れ物しても、すぐ取りに帰れるし」
「雨の日も、あんまり歩かなくていいし」
「お母さんも学校に来やすいし」
話しているうちに、羨ましいことがどんどん増えていった。
和尚様は、途中で口を挟まずに聞いていた。
全部話し終わると、落ちていた葉を一枚拾った。
「それで」
「はい」
「亜由美ちゃんは幸せなんか」
アンズは少し驚いた。
「幸せだと思います」
「本人に聞いたんか」
「聞いてません」
「なら、それはアンズがそう見とるだけやな」
「でも、家は本当に近いです」
「そうやな。それは事実や」
和尚様は拾った葉を指先でくるりと回した。
「家が学校に近い。これは事実」
「朝、アンズより遅く家を出られるかもしれん。これも、たぶん事実や」
「けど、それで幸せかどうかは、また別の話やら」
アンズは黙って、和尚様の手の中の葉を見た。
「近い方が楽なのは本当ですよね」
「楽なことはあるやろうな」
「じゃあ、やっぱりいいじゃないですか」
「いいことはある」
和尚様は、あっさりうなずいた。
「近い者には、近い者のいいところがある」
「じゃが、遠い者には遠い者のいいところがあるかもしれん」
「遠い方のいいところなんて、ありますか」
「知らん」
「えっ」
「わしが毎日、お前さんの通学路を歩いとるわけじゃないでな」
和尚様は少しだけ口元を緩めた。
「それを知っとるのは、アンズやろ」
風が吹き、木の葉が一枚、二人の間に落ちた。
和尚様は寺の外へ続く道を見た。
「今朝、学校へ行く途中、何を見た」
「何をって……」
「何でもええ」
アンズは朝のことを思い出した。
「田んぼ」
「それは毎日あるな」
「朝露」
「ほかには」
「蜘蛛の巣」
朝の光が当たって、蜘蛛の巣に細かな水滴がついていた。
透明な糸に、いくつもの小さな玉が並んでキラキラ光っていてきれいだった。
「赤とんぼもいました」
「ほかには」
「葉っぱ」
「どんな葉っぱや」
「レモンみたいな味がする葉っぱ」
和尚様の眉が少し動いた。
「また食べたんか」
「ちょっとだけです」
「何でも口へ入れたらあかんぞ」
「いつも食べてるやつです」
「いつも食べとるから安全とは限らん」
和尚様はそこだけは、はっきりと言った。
「知らん草は食べんこと。これは考え方やなくて、体を守るための話や」
「はい」
アンズは少し肩をすぼめた。
和尚様は話を戻した。
「学校の近くに住んどる子は、その朝露を見られるか」
「分かりません」
「蜘蛛の巣は」
「分かりません」
「赤とんぼは」
「飛んでるかもしれません」
「そうやな。飛んどるかもしれん」
和尚様はうなずいた。
「同じものを見とるかもしれんし、違うものを見とるかもしれん」
「じゃが、アンズが今朝見た景色は、アンズが歩いたから見えたもんや」
「でも、やっぱり遠いのは大変です」
「そうやな」
和尚様は否定しなかった。
「大変なものは、大変や」
「遠い道を、無理にありがたがる必要もない」
アンズは和尚様の顔を見た。
もっと早く起きられることは良いことだ。
長く歩けば体が丈夫になる。
自然を見られるのだから幸せだ。
そんなふうに言われると思っていた。
けれど和尚様は、そうは言わなかった。
「羨ましいと思ったら、いかんですか」
「思うだけなら、いかんことはない」
「人のものが良く見えることはある」
「和尚様もありますか」
「あるぞ」
「和尚様でも?」
「坊主になったら、羨ましさが消えると思っとったんか」
アンズは、少しだけ笑った。
「ちょっと思ってました」
「そんな便利なもんやない」
和尚様も、少し笑った。
それから、落ち着いた声で続けた。
「ただな」
「人の持っとるもんばかり見とると、自分の持っとるもんが見えんようになる」
「人の道ばかり眺めとると、自分が今、どこを歩いとるか分からんようになる」
アンズは、自分の靴を見た。
土が少しついていた。
「どうしたらいいんですか」
和尚様はすぐには答えず、境内の外を指した。
「今日は、帰り道をよう見て帰りな」
「いつも見てます」
「見とるようで、見とらんこともある」
「何を見ればいいですか」
「それも自分で決めな」
「分かりません」
「なら、分からんまま歩けばええ」
和尚様は立ち上がり、膝についた葉を払った。
「答えを見つけようとして歩く必要もない」
「ただ、自分の道に何があるか、少し見てみな」
瑞源寺を出ると、木々の間から夕方の光が差していた。
田んぼの方へ戻るにつれて、空が少しずつ広くなる。
アンズは、いつもよりゆっくり歩いた。
道ばたに、小さな白い花が咲いていた。
毎日通っているはずなのに、今まで気づかなかった。
しゃがみ込んで見てみる。
花びらは五枚。
中心だけが、ほんの少し黄色い。
名前は分からない。
でも、名前が分からなくても、咲いていることは分かる。
少し先では、用水路の水が夕日を細かく反射していた。
稲穂の間から、虫の声が聞こえる。
風が通るたび、田んぼ全体がゆっくり揺れた。
遠くで列車の音がした。
やがて白い車体が、山と田んぼの間を横切っていった。
アンズは足を止めた。
亜由美ちゃんの家が近いことは、変わらない。
自分の家が遠いことも、変わらない。
明日から急に道が短くなるわけでもない。
朝、もっと寝ていたいと思う気持ちも、たぶん消えない。
それでも。
この白い花は、学校を出てすぐ家へ帰っていたら見つけられなかったかもしれない。
朝露のついた蜘蛛の巣も。
赤とんぼも。
マヨネーズみたいな葉っぱも。
レモンみたいな葉っぱも。
全部、長い帰り道の途中にあった。
「遠い方が幸せってことでもないよね」
アンズは小さくつぶやいた。
近い方には、近い方のいいところがある。
遠い方には、遠い方の景色がある。
どちらが幸せなのかは、和尚様にも決められない。
亜由美ちゃんにも、アンズの幸せは決められない。
アンズもまた、亜由美ちゃんが幸せかどうかを、家の近さだけでは決められない。
橋まで来ると、川の上を風が通り抜けていた。
アンズは欄干から下をのぞいた。
水は、石にぶつかりながら流れている。
曲がり、よどみ、また流れていく。
まっすぐではない。
それでも、少しずつ先へ進んでいる。
「私の道は、こっちなんだ」
声に出すと、少しだけ恥ずかしくなった。
まだ、この長い道が好きだとは言えない。
雨の日には嫌になるだろう。
冬の朝には、学校の近くへ引っ越したいと思うかもしれない。
それでも今日は、この道にあるものを、昨日より少しだけ知ることができた。
それで十分な気がした。
家へ向かって、また歩き出す。
ランドセルの重さは変わらない。
けれど、家までの道は、来たときより少しだけ短く感じられた。
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