【小説:天国地獄】7.小さな声が、破片になる前に(叫喚地獄)
夏休みの朝は、音が多い。
蝉の声、ラジオ体操の音楽、誰かの笑い声、ペットボトルのふたが開く音、砂利を踏む音。
でも、音が多い日は、聞こえない音も増える。
小さな音。
言いかけて飲み込んだ音。
助けを呼ぶ前に、引っ込んだ音。
花の天国のあと、胸の中には色が戻っていた。赤も青も白も、ちゃんとそこにある。だから、前より少しだけ、自分の気持ちがわかる。
わかるから、言えないこともわかる。
体操が始まる前、わたしは水筒を持って列に並んだ。
前のほうで、昨日の男の子が、友だちと話していた。声が少し大きい。元気そうだ。わたしはそれを見て、少しだけ安心した。
その横で、別の子が、靴ひもを結び直していた。
小さい子だ。低学年くらい。
靴ひもがほどけて、何度も結び直している。指がもたついて、なかなかできない。
周りの子は気づいているのに、気づいていないふりをしていた。
(……わたしも、気づいてる)
氷地獄の冷たさが、少しだけ胸に戻る。
“声をかけるのは勇気”。
和尚様の言葉が、胸の奥で光る。
でも、わたしは動けない。
声をかけたら、何かが起きる気がする。何かが起きたら、面倒になる気がする。面倒を嫌がる気持ちが、氷みたいに薄く広がる。
そのとき。
小さい子が、うまく結べないまま立ち上がって、列に入ろうとした。
ほどけたままの靴ひもが、地面を引きずる。
誰かが、笑った。
「ほどけとるやん」
笑いは大きくない。悪意も大きくない。だからこそ、止めるのが難しい。
小さい子は顔を赤くして、ひもを握りしめた。
でも、体操が始まってしまう。
音楽が鳴る。
腕を上げる。
小さい子は、ひもを握ったまま、ぎこちなく腕を回した。
そのうち、ほどけたひもを踏んで、足がもつれた。
転びそうになって、手をばたつかせる。
——誰も動かない。
わたしも、動けない。
動けないのに、胸の奥が痛い。
痛いのに、声が出ない。
小さい子が、なんとか立ち直って、でも、目が潤んでいる。
泣きそうなのに、泣かない。
泣くとまた笑われる気がするから。
わたしは、そこを見てしまった。
見てしまって、何もできなかった。
体操が終わって、みんなが散っていくとき、小さい子は列の端で立ち尽くしていた。
靴ひもを握ったまま。
結べないまま。
わたしは一歩近づきかけた。
でも、近づけなかった。
近づけないまま、祖父の声がした。
「アンズ、行くぞ」
わたしは、うなずいて歩き出した。
背中に、見えない声が刺さっている気がした。
瑞源寺の門をくぐると、空気が静かになる。
畳に座り、正座をする。
木魚が鳴り、心経が始まる。
「——摩訶般若波羅蜜多心経」
声が重なっていくと、胸の奥のざわざわが少しずつ整う。けれど、今日は整いきらない。花の天国の色が残っているぶんだけ、痛みがはっきりしている。
心経が終わり、舎利礼文。
短いお経は、声が出しやすい。声を出すと、胸の奥の詰まりが少し動く。でも、詰まりはまだ残る。
お経が終わると、和尚様が静かに手を膝に置いた。
「今日は、叫喚地獄のお話をしましょう」
“叫喚”。
言葉だけで、胸の奥がきゅっとなる。
「叫喚地獄は、叫び声で満ちた地獄です」
「苦しさで叫ぶ声」
「助けを求める声」
「後悔で叫ぶ声」
和尚様は、標準語のまま、ゆっくり続ける。
「けれど、叫喚地獄の怖さは、叫び声だけではありません」
少し間。
「叫べなかった声も、そこにあります」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
「本当は言いたかったのに、言えなかった」
「本当は助けたかったのに、助けられなかった」
「本当は止めたかったのに、止めなかった」
和尚様は責める声ではない。
逃げない声だ。
「出せなかった声は、心の中に残ります」
「残った声は、やがて——」
一呼吸置いて、和尚様は言った。
「叫びになります」
畳の上の空気が、少しだけ重くなる。
「さて」
いつもの入口。
「もし、そんな場所が本当にあったとしたら」
「君たちは、どんな景色を思い浮かべますか」
——頭の中に、景色が開いた。
暗い。
でも、氷地獄の暗さとは違う。冷たい暗さではない。
熱い暗さだ。
空気が重くて、息がしづらい。遠くから、声が聞こえる。最初は遠い。次第に近くなる。近くなるほど、声の形が見える気がする。
「たすけて」
「やめて」
「ごめん」
「いやだ」
声が、空を飛んでいる。鳥みたいに飛んでいるのに、羽がない。羽がないから、落ちる。
落ちた声は、地面にぶつかって、割れる。
割れた声は、破片になる。
破片は小さくて、刺さる。
針地獄の針より、もっと薄い破片。
薄いのに、抜けない。
わたしはそこに立っていた。
足元には、声の破片が散らばっている。
一歩動くと、ぱきっと踏む音がする。
踏んだ破片が、叫び声になる。
叫び声は、空へ上がっていく。
上がっていくのに、逃げない。
上がっていくほど、また降ってくる。
叫喚地獄は、声が循環している。
叫ぶ声が、破片になって、破片が、また叫ぶ。
前のほうに、ひとりの小さい影が見えた。
低学年くらいの背丈。
靴ひもを握っている。
結べないまま、握っている。
影は、こちらを見て、口を開いた。
でも、声が出ない。
口は動くのに、音が出ない。
その代わり、胸のあたりが光って、そこから声が漏れる。
漏れた声は、空へ飛び立つ前に、途中で止まって、落ちる。
落ちた声は割れて、破片になる。
破片が、影の足元に刺さる。
影は小さく震えた。
そのとき、わたしの胸の中に、同じものがあった。
言えなかった声。
声をかけたかったのに、かけなかった声。
助けたかったのに、動けなかった声。
それが、胸の奥で光っている。
光っているのに、喉が固い。
(……叫喚地獄って、こういうことなんだ)
叫ぶ場所じゃない。
叫べなかった声が、勝手に叫び始める場所。
わたしは、小さい影に近づこうとした。
一歩動くたび、足元で声の破片が割れる。
「たすけて」
「やめて」
「ごめん」
声が飛び交う。
音が痛い。
耳が痛い。
胸が痛い。
わたしは、思わず耳をふさぎたくなる。
でも、耳をふさいだら、もっと怖い。
小さい影は、もう一度口を動かした。
「……」
音にならない。
音にならないまま、胸が光って、また声が漏れる。
漏れた声は、途中で落ちて、破片になって、足元に刺さる。
見ていられなくて、わたしは叫びそうになった。
やめて、って。
だいじょうぶ、って。
ごめん、って。
でも、それも叫びになる気がした。
叫びになると、また破片になる気がした。
そのとき。
遠くで、ちりん、と音がした。
風鈴の音。
やさしい天国の音。
花の天国の音。
その音は、叫びの中でも消えなかった。
音が聞こえると、胸の奥の糸が触れられる。
燃えない糸。
切れない糸。
(戻れる場所がある)
わたしは、息を吸った。
重い空気が入る。
胸いっぱいまで息を吸い込み、そして、息を吐いた。
ふう。
吐いた息が、声の破片を少しだけ押しのけた気がした。
ほんの少し、道ができる。
わたしは、その道を使って、小さい影の横にしゃがんだ。
そして、声を大きくしないように、言った。
「……いっしょに、結ぼうか」
その言葉は、叫びにならなかった。
破片にもならなかった。
言葉は、ふわっと落ちて、地面に刺さらず、影の足元に置かれた。
小さい影が、こちらを見た。
目が潤んでいる。
でも、泣かない。
泣かないまま、こくん、と小さくうなずいた。
わたしは、影の手元を見た。
靴ひもが、ほどけている。
わたしは手を伸ばした。
伸ばした瞬間、周りの叫び声が少しだけ小さくなる。
わたしは、ひもを結び直した。
蝶々結び。
結べた。
結べた瞬間、空から落ちていた声の破片が、ひとつだけ、音を立てずに消えた。
(……消えるんだ)
叫びは全部消えない。
でも、ひとつだけなら消える。
ひとつだけでいい。
わたしは、もう一度息を吐いた。
ふう。
その息が、叫喚地獄の空気を、ほんの少しだけ軽くした。
「アンズ」
名前を呼ばれて、景色がふっとほどける。
畳の匂いが戻る。木魚の音が遠い。
わたしは、息を吐いた。
和尚様が、続けて言う。
「叫喚地獄は、叫ぶ人の地獄ではありません」
「叫べなかった人の地獄です」
胸の奥がきゅっとなる。
「言えなかった一言は、心の中に残ります」
「残った一言は、夜に大きくなります」
「大きくなって、あなたを責めます」
和尚様は、静かに続ける。
「だから、完璧な言葉はいりません」
「大きな声もいりません」
「小さくていい」
「“大丈夫?”でもいい」
「“一緒にやろう”でもいい」
「声を出すだけで、地獄は少しだけ割れます」
氷地獄のときと似た言い方だった。
でも、今日は違う。
今日は、氷じゃなくて、声の破片が割れる。
「声を出しなさい」
和尚様は、少しだけ優しく言った。
「あなたの中の声が、叫びになる前に」
説法はそこで終わった。
縁側へ出ると、蝉の声が戻る。夏の匂いが戻る。風鈴が鳴る。
ちりん。
靴を履いていると、和尚様が近づいてきた。
「アンズ、今日は喉、かたかったなぁ」
わたしは、びくっとした。気づかれている。
でも、責められていない。
和尚様は続けた。
「言えん日もあるわ」
少しだけ間。
「せやけどな」
「小さい声でも、ええ」
「小さい声は、残るで」
祖父が門のところで手招きした。
「帰るぞ、アンズ」
わたしは立ち上がって、境内を振り返った。
空は夏の青だった。
でも今日は、その青の奥に、見えない声が、少しだけ軽くなって浮いている気がした。
夏の朝は、今日もまだ始まったばかりだった。
※本作品はフィクションです。実在の団体様、場所などとは関係ございませんので、あらかじめご了承お願いいたします。
物語の背景にしている仏教における天国・地獄についてまとめています。
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