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傷のない天使たち - 第1話 今日、救える命

その朝、日本では熊が出たらしかった。

御子柴栄一は、ひびの入ったタブレットを指先で支えながら、途切れ途切れに流れるニュースを見ていた。

住宅地に熊が現れ、小学校では集団下校が行われた。市は住民に対し、不要不急の外出を控えるよう呼びかけているという。

映像には、黄色い帽子をかぶった子どもたちが映っていた。教師に付き添われ、二列になって歩いている。何人かはカメラに気づいて、楽しそうに手を振っていた。

熊が出れば、学校を休ませてもらえる。
大人が迎えに来る。
近づかないように、逃げるようにと教えてもらえる。
それでも事故は起きる。避けようとしても、避けられないことはある。

日本の不幸が軽いわけではない。失われる命の重さに、国境などない。

ただ――。

「逃げる場所があるんだな」

呟いた声は、発電機の低い唸りに消された。

ここには、熊はいない。
しかし、どこへ逃げればよいのか、誰も教えてはくれなかった。

砲撃が始まれば、人々は建物の陰へ走る。だが、その建物が安全だとは限らない。道路には地雷があり、郊外へ逃げれば水がない。避難民キャンプまで辿り着いても、食べ物があるとは限らなかった。

逃げても不運が待っている。
留まっても不運が来る。

この土地では、不運の方が人間よりも足が速かった。

「ミコ」

診療所の入口から声がした。
現地看護師のサミーラが、布のカーテンをわずかに持ち上げていた。

「そろそろ始めます」

「ああ。今行く」

栄一はニュースを閉じた。

画面が暗くなる直前、黄色い帽子の子どもがもう一度こちらへ手を振った。

 

診療所と呼ばれてはいたが、もとは小さな学校だった。

教室の壁には、アラビア文字の読み書きを教えるための絵が残っている。果物、動物、家族。子どもたちが学んでいた机を並べ、その上に薄いマットを敷いて診察台にしていた。

黒板の隅には、誰かが描いた太陽が消されずに残っていた。

毎朝、診療所の前には長い列ができる。

熱のある者。
咳が止まらない者。
傷口が膿んでいる者。
腹を押さえてうずくまる者。

そして、その多くは子どもだった。

「ミコ先生」

列の中から呼びかけられる。

「ミコ」

「ドクター・ミコ」

御子柴という姓を、最初から正しく発音できた者はいなかった。

英国にいたころ、同僚が彼をマイケルと呼び始めた。御子柴の「ミコ」から取った、半分冗談のような呼び名だった。それがこの土地では、いつの間にか正式な名前のように定着していた。

子どもたちは彼を見ると笑う。
手を振る。
近づいて、白衣の裾を引く。

その白衣はもう白くなかった。洗っても落ちない赤黒い染みが袖口に残っている。
それでも彼らにとって、その姿は特別なものらしかった。

「今日は誰からだ」

栄一が尋ねると、サミーラは患者の記録を書いた紙束を差し出した。

「夜から待っている子が三人。あとは発熱が十六人、下痢が九人、古い外傷が七人です」

「薬は」

「解熱剤は残り少し。抗菌薬は――」

サミーラは言葉を止めた。
聞くまでもなかった。

「重い者から診よう」

最初の患者は、六歳の少女だった。
母親に抱かれ、力なく目を閉じている。額に触れると熱い。呼吸は浅く速かった。

栄一は胸の音を聞き、口の中を確かめた。

「肺炎ですか」

サミーラが尋ねる。

「おそらく」

抗菌薬が必要だった。
しかし、手元にある量では足りない。

栄一は少女の手を握った。細い指だった。握り返す力はなかった。

「今日、補給は来るか」

「午後の予定です」

「予定か」

「予定です」

この土地で予定とは、願いに少しだけ日付を与えた言葉だった。

「酸素を。少量でいい。水分も慎重に入れる」

「はい」

「抗菌薬は補給が来たら最優先で」

そう指示した、そのときだった。
遠くで、腹の底を叩くような音がした。
窓ガラスの代わりに張られた透明なシートが震えた。

少し遅れて、もう一度。
誰も悲鳴を上げなかった。

列に並ぶ者たちは、わずかに顔を伏せただけだった。
この土地では、爆発音に驚き続けるには、人生は長すぎた。

栄一は音の方向を確かめた。

「近いな」

サミーラが頷いた。

「市場の方です」

三度目の音はなかった。

代わりに、数分後、車のエンジン音が近づいてきた。
古い四輪駆動車が土煙を巻き上げ、診療所の前で急停止した。

後部の扉が開く。

「ドクター!」

男たちが叫んでいた。

毛布に包まれた何かを、二人がかりで運んでくる。
毛布の端から、小さな裸足が見えた。

栄一は走った。

「手術台を空けろ」

「ミコ、診察中の患者は」

「壁側へ移動。歩ける者は外へ。サミーラ、輸液。ハリド、器具を煮沸から上げろ」

運び込まれたのは、十歳ほどの少年だった。
腹部に血が広がっている。服は裂け、皮膚には細かな砂と金属片が食い込んでいた。

呼吸は速い。
脈は弱い。

「何分前だ」

「二十分、いや、三十分」

「何があった」

「市場の近くで爆発が――」

「付き添いは」

答えはなかった。
少年を運んできた男たちは、家族ではないらしい。

栄一は腹部の傷を確認した。右脇腹から出血している。表面の傷は小さい。だが腹は硬く膨らみ始めていた。

中で出血している。

「名前は」

少年は目を閉じたままだった。
運んできた男の一人が答えた。

「ナジール。市場で水を売っている子です」

「家族は」

「分かりません」

栄一は少年の頬を軽く叩いた。

「ナジール。聞こえるか」

まぶたがわずかに動いた。

「痛いか」

少年の唇が動いた。
声にはならなかった。

「大丈夫だ。眠っていい。ただし、戻ってこい」

栄一は立ち上がった。

「開腹する」

ハリドが息を呑んだ。

「ここで、ですか」

「ここ以外にどこがある」

「麻酔が足りません」

「分かっている」

「輸血も――」

「分かっている」

栄一は声を荒らげなかった。
ただ、ハリドの目をまっすぐ見た。

「何もしなければ、十分も持たない」

部屋の空気が静まった。

「できることをする」

サミーラが短く頷いた。

「はい」

 

手術室には扉がなかった。

布のカーテンを二重に吊り、患者の家族や待っている人々から中が見えないようにした。

無菌室ではない。

壁には砂埃がつき、天井の隅には小さな虫が這っている。使用する器具だけを煮沸し、限られた消毒液で手と術野を拭いた。

発電機がいつ止まるか分からないため、充電式の照明も用意した。

麻酔薬は、十分とは言えなかった。
手術をするには少なすぎる。
でも、命を救うために前に進む。

「始める」

栄一はメスを入れた。
切開と同時に、暗い血が溢れ出した。

「吸引」

「動きません」

「ガーゼ」

サミーラが次々とガーゼを押し当てる。

血で視野が埋まる。

栄一は指を入れ、出血源を探った。

肝臓ではない。
腸管に損傷。
さらに奥。

「光を右へ」

ハリドが照明を動かす。

「もっと」

少年の血圧が下がる。
脈拍が細くなる。

「ミコ」

「分かっている」

出血点を見つけた。
腸間膜の血管だった。

鉗子で挟む。
出血が弱まった。

「糸」

サミーラが針付縫合糸を渡した。

栄一は血管を結紮した。
一本。
もう一本。

震えてはいけない。
焦ってはいけない。

今日までに何度繰り返したか分からない動作だった。
英国の清潔な手術室でも、日本の大学病院でも、今この瞬間でも、糸の結び方は変わらない。

命は国籍によって縫い方を変えない。

腸に二か所の穿孔があった。
一つずつ塞ぐ。

切除してつなぎ直す方が理想的だった。しかし時間も、道具も、少年の体力も足りない。

今できる最善は、理想とは違う。
それでも、最善だった。

「電圧が落ちています」

ハリドが言った。

照明が明滅した。

「充電灯に切り替えろ」

白い光が消え、黄色がかった弱い光に変わる。
傷口が深い影に沈んだ。

「見えますか」

「見える」

本当は、十分には見えていなかった。
だが、手は場所を覚えていた。

針を通す。
引く。
結ぶ。

一本の糸が、裂けた組織を寄せ合わせる。
切れていたものが、再びつながる。

栄一はそのたびに思った。

この先もつながっているのか。

傷を塞いだ先に、食べ物はあるのか。
帰る家はあるのか。
家族はいるのか。
明日はあるのか。

だが、手術中に考えることではなかった。

まず、今日をつなぐ。

その先は、生きた者だけが考えられる。

「腹腔内を洗う」

「生理食塩水は残り二本です」

「一本使う」

「午後の患者の分が」

「この子に使う」

選ぶことは、いつも誰かから奪うことだった。

それでも選ばなければならない。

栄一は洗浄し、残った血液と砂をできる限り取り除いた。

感染の可能性は高い。
抗菌薬も十分ではない。
術後を乗り越えられる保証はない。

だが、腹の穴を塞がなければ、その可能性すら残らない。

「閉じる」

最後の縫合糸を結んだとき、栄一はようやく息を吐いた。

「血圧は」

「低いですが、戻っています」

「脈は」

「触れます」

少年の胸が上下していた。
弱く、浅く、それでも確かに。

「生きているな」

誰に言うでもなく、栄一は呟いた。

 

手術を終えた栄一が外へ出ると、日が傾き始めていた。
診療所の前には、朝よりも多くの人がいた。

ナジールを運んできた男たち。
患者の家族。
診察を待つ者たち。

そして、いつの間に来たのか、十数人の子どもたちが入口を囲んでいた。

「ミコ」

一人が呼んだ。

「ナジールは?」

栄一は少し間を置いた。

「手術は終わった」

「助かった?」

「今は生きている」

子どもたちの顔が明るくなった。

歓声が上がる。
大人たちは空に向かって祈りの言葉を口にした。

年老いた男が栄一の手を取り、額へ押し当てた。

「奇跡だ」

「違います」

栄一は手を引こうとした。

「あなたは神が遣わした希望だ」

「違う」

今度は、少し強く言った。

周囲が静かになる。

栄一は、自分の言葉が彼らの喜びに水を差したことに気づいた。

俺は希望ではない。
奇跡でもない。
腹を開き、出血を止め、穴を縫っただけだ。
使える道具を使い、知っていることをしただけだ。

明日、感染症になるかもしれない。
夜のうちに容体が急変するかもしれない。
救えたとは、まだ言えなかった。

それでも、人々は彼を見ていた。
彼の次の言葉を待っていた。

この場所では、医者の顔に浮かぶわずかな表情すら、人々にとっては天気予報のようなものだった。

栄一は唇を結び、それから静かに言い直した。

「まだ、奇跡には早い」

男が彼を見る。

「でも、今夜を越えるための時間はつくれた」

人々はまた祈り始めた。

それでいい、と栄一は思った。

自分が希望かどうかは、自分が決めることではない。
だが、希望ではないと証明する必要もなかった。

 

夜。
ナジールの意識が戻った。

栄一は簡易ベッドの横に腰を下ろした。

「分かるか」

少年はゆっくり目を開けた。

「……ミコ?」

「そうだ」

「お腹……」

「縫った」

「全部?」

「たぶんな」

「たぶん?」

「医者は、分からないことを分かったふりしてはいけない」

ナジールは、ほんの少し笑った。
唇が乾いてひび割れていた。

「水」

「少しだけだ」

栄一は布を水で湿らせ、少年の口元に当てた。

「母さんは?」

「今、探してもらっている」

「弟は?」

「弟もか」

少年は目を閉じた。

「市場にいた」

栄一は答えなかった。

市場から運ばれた者は、ナジール一人ではなかった。
診療所へ来る途中で亡くなった者もいた。
別の場所へ運ばれた者もいる。

「先生」

「何だ」

「明日も来る?」

栄一は少年の顔を見た。

明日、母親が見つかるかは分からない。
弟が生きているかも分からない。
補給物資が届くかも分からない。

この診療所が明日もここにあるかすら、誰にも分からなかった。

それでも栄一は答えた。

「来る」

「本当?」

「ああ」

「じゃあ、僕もいる」

少年はそう言って、再び眠りに落ちた。

 

栄一は診療所の外へ出た。

夜空には星が出ていた。

発電機の音は止まり、遠くから犬の鳴き声が聞こえる。
テントの間では、小さな明かりがいくつも揺れていた。

彼は鞄から防水ケースを取り出した。

中に、一枚の絵が入っている。
色あせたクレヨンで描かれた、白衣姿の男。

大きすぎる手。

顔の横には、ひらがなで「ぱぱ」と書かれていた。
紙の端は擦れ、何度も開いた跡がある。

栄一はしばらくそれを見つめた。

そしてケースを閉じた。

あの子には、明日が来なかった。
何度考えても、変わらない。
何度悔やんでも、戻らない。

だから別の子どもを救えば帳消しになるなどと、考えたことはなかった。

命は数ではない。
一つを失った穴を、別の一つで埋めることはできない。
それでも今日、一本の糸をつないだ。

その糸の先に何があるかは分からない。

母親かもしれない。
弟かもしれない。
もう一度開かれる市場かもしれない。
学校かもしれない。

あるいは、何もないかもしれない。

医者がつなげられるのは、そこへ届く手前までだった。

栄一は暗い診療所を振り返った。

布の向こうで、ナジールが眠っている。
胸は、まだ上下している。

今日は救えた。

少なくとも、今日という一日から、少年がこぼれ落ちるのを止めることはできた。

それだけでよかった。

明日のことは、明日考える。
ただし、明日になってから始めるのでは遅い。

栄一は再び発電機を動かし、残っている薬と器具の一覧を机に広げた。

ナジールが朝を迎えたとき、今日できなかったことを一つでもできるようにするために。

夜は、まだ長かった。

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