【小説:ショート読み切り】:台北、スパイスの入口
桃園空港の到着ロビーは、明るいのに、少しだけ湿っている。天井の高い白さと、人の流れの熱。さっきまで機内で薄く乾いていた喉が、ここで急に「現実」に引き戻された。
「アンズ、こっち」
Sunnyは、わたしのパスポートと搭乗券の入ったクリアファイルを指差して、落とさないようにって顔をした。迎えに来てくれたことが嬉しい反面、まだ胸の奥のどこかが、空港の広さにどきどきしている。
「……Sunny? え、なんでここにいるの!?」
「心配。アンズ、ひとり。大丈夫って言うけど……心配」
“心配”の言い方から、本当に心配してくれていたのが伝わってくる。
「心配しすぎ。……でも、安心した」
Sunnyは満足そうに頷いて、次の目的地を口にした。
「まず、MRTで台北。早いよ。空港から、すぐ」
空港MRTのホームは、空港の匂い(消毒と金属と、ほんの少しの香水)をそのまま運んでいた。ドアのガラスに映る自分の顔が、思ったより緊張して見える。
列車が滑り込んでくる。静かな音。ドアが開く音。座ると、冷房の風が腕に当たって、旅の体温が少し整う。Sunnyがスマホで路線図を出しながら言う。
「直達車、台北車站まで、だいたい35分くらい」
35分。数字にすると短いのに、“外国での35分”は、いつもの何倍も長く感じる。わたしは窓の外を見ながら、頭の中で何度も確認する。
(ここからは、わたしの旅だ。ちゃんと、ついていく)
車内アナウンスの中国語が、波みたいに流れる。Sunnyはそれを半分だけ聞いて、残りはわたしの表情を見ている。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ。……たぶん」
「たぶん、好き」
そう言ってSunnyが笑うから、わたしも笑うしかない。列車が走り出し、やがて地下から地上へ移り、窓の景色がふっと都市の輪郭を増していく。
台北車站に着くころには、足の裏の緊張が少し薄れていた。人の多さは相変わらずだけど、Sunnyがいると、迷路にもちゃんと出口がある気がする。
「お昼、なに食べる?」
Sunnyが悪戯っぽく聞いてくる。空港で聞いたあの“選択肢”がまた来る予感がして、わたしは少し身構えた。
「……また臭豆腐って言うでしょ」
「言わない。今日は、もっとローカル」
そう言ってSunnyが連れていってくれたのは、台北車站から歩いて行ける、小さな牛肉麺のお店だった。派手な看板じゃない。だけど、入った瞬間、湯気と八角と、スープの匂いが“台湾の昼”を作る。
「ここ、好き。あとね、なんかガイドにも載ったらしいよ」
Sunnyはそう言って、さらっと笑った。
わたしは牛肉麺を一口すすって、すぐ分かった。
(……あ、これ、優しいのに強い)
スープは濃いのに重くない。麺がきちんと口の中でほどける。Sunnyは、テーブルの端の唐辛子を迷いなく追加して、目を輝かせた。
「辛くすると、もっと太陽」
「太陽って、スパイスのこと?」
「うん。スパイスの太陽」
独特な表現で、Sunnyはさらっと言う。わたしは笑って、少しだけ唐辛子をもらった。舌の上が熱くなって、同時に気持ちがほどける。
食べ終わる頃、二人とも無言になっていた。満腹の無言。街の音が遠くなる感じ。
「このあと、動けるかな……」
「動く。なぜなら、台北101行くから」
Sunnyが言い切る。その勢いに押されて、わたしも頷いた。
台北101は、近づくほど、建物というより“意志”みたいに見えた。空の中に、まっすぐ刺さる線。展望台は89階まで上がれるという。
エレベーターに乗った瞬間、耳が少しだけ詰まった。数字が一気に増える。身体が追いつかない速度。Sunnyは平気そうに、わたしの横で手すりに触れている。
「こわい?」
「こわいっていうか……現実じゃないみたい」
「現実だよ。ほら、着く」
ドアが開いた瞬間、景色が広がる。街が、模型みたいに小さくなる。川も道路も、全部が線になって、そこに人の生活だけが小さく流れている。
わたしは、ふっと息を吐いた。
(こんなところまで来たんだ)
Sunnyはガラスに額を近づけて、ちょっとだけ眩しそうに笑った。太陽の近くにいるみたいな顔。
「アンズ、台北、どう?」
「……まだ、飲み込めてない。でも、好き」
「よし。じゃあ夜は、夜市で飲み込む」
夕方の風に当たりながら、二人で夜市へ向かった。Sunnyが選んだのは、食べもの中心で歩きやすい夜市。提灯の光が低く連なっていて、匂いと音が近い。
——寧夏夜市。
提灯の光。油の匂い。甘い匂い。揚げる音。焼く音。人の笑い声。言葉が飛び交う速度。
「ここ、好き。食べる、遊ぶ、迷う、全部できる」
Sunnyが言いながら、わたしの手を引く。屋台の前で止まるたびに、Sunnyの目が小さく弾ける。
「小籠包?魯肉飯?牛肉麺?それとも臭豆腐?」
ほら来た。わたしは顔をしかめたふりをして、笑ってしまう。
「臭豆腐だけは、最後にして」
「最後ね。約束ね」
“約束”が、ここでも出てくるのが可笑しい。二人でいろいろ少しずつ買って、分け合って、気づいたらお腹がまた重くなっていた。
「……午後の授業、無理だね」
「今日は夏休み。心配、いらない」
Sunnyは、そう言って胸を張る。たしかに、今は“夏休みの台湾”の中にいる。
夜、ホテルの部屋に戻ると、足がじんわり痛くて、でも心は明るかった。シャワーのあと、ベッドに沈むと、台北の音が急に遠くなる。
「明日、早いよ。新幹線で高雄」
Sunnyが言う。高雄はSunnyの実家がある場所。わたしは、まだ見ぬ“南の太陽”を想像する。
台北から高雄までは、思っているよりずっと早いらしい。
“最速”じゃなくてもいい。ちゃんと辿り着ければ、それでいい。
「ねえ、アンズ」
眠りに落ちる直前、Sunnyが小さく言った。
「今日、がんばった。空港も、MRTも、台北も」
「……がんばったのは、Sunnyもでしょ。迎えに来たり」
「迎えに来るの、がんばじゃない。好き、だよ」
好き。Sunnyはそれを、いつも軽く言う。でも、その軽さが、わたしを助ける。
わたしは枕に顔を埋めて、少しだけ笑った。
(明日は、高雄。Sunnyがずっとみてきた太陽がある場所)
台北の夜が、ゆっくり静かになっていく。
スパイスの熱だけが、まだ舌の奥で、あたたかく残っていた。
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