【音楽エッセイ】シューマンからゲーゼへ、幻想曲の拡張という試み
シューマンからゲーゼに向けられた感情を示唆できる記述はいくつか見受けられるが、その逆はなかなか見つからない。ただ文献が無いだけなのか、それともゲーゼからしたらシューマンとの付き合いはきわめてドライなものであったのか。それを音楽の中から探っていきたいと思う。結論からいうと、ゲーゼの幻想曲はシューマンのそれを骨格として内在し、さらに拡張を試みたものに感じられる。シューマンの幻想小曲集からゲーゼの幻想曲までに十五年の隔たりがある。ゲーゼにとって、シューマンはきっと乗り越えるべき山であったのだろう。
幻想曲とは、自由な形式で書かれた小品といった意味合いをもつ。シューマンにとっての大きな山はベートーヴェンであった。ベートーヴェンがソナタ形式を極限まで深掘ったあとの時代の作曲家にとって、ソナタ形式の枠組みを取り払ったところで勝負するしかなかったのである。この時代の作曲家は少なからず同じ試練に見舞われたに違いない。パガニーニの奇想曲、リストの狂詩曲、ショパンのスケルツォ、ブラームスの間奏曲、然り。どれも自由な形式で書かれた小品の類である。シューマンは幻想曲というカタチを選んだ。そして、ゲーゼもそれを追ったのである。
ゲーゼの幻想曲は入れ子状になっている。シューマンが3構成であるのに対して、ゲーゼは4構成になっている。その構成の中で、I/II/Ⅳは速度表記だけで、ⅢだけがBalladと曲名が付いており、これだけが異質なのである。これを取り除くと、シューマンの骨格が見えてくる。メランコリックなドイツリートのような冒頭に始まり、まるで拍遊びのような軽快な曲を挟み、情熱的で技巧的な終曲で冒頭と対比する。Ⅳでは、シューマンが印象的に使用したcon fuoco(炎のように)という表記も表れている。そして、差し込まれたBalladはゲーゼの故郷である北欧の民族的神話的な情景が描かれている。のちのグリーグやシベリウスに見られる民族主義的なものを先取った形であろう。また、その主題もIとⅣを縮小したかのようなリート的なものと技巧的なものとの対比的なふたつの旋律から構成されている。さらにⅣは、Iとの単純な対比ではなく、全曲を統合したようなボリュームのあるキャラクターを包括していて、交響曲さえ思わせるところがある。
入れ子状に拡張された幻想曲、これが演奏してみて感じたことである。だから、ゲーゼにとってシューマンはひとつの目標であり、それを形にしたのがこの幻想曲なのであろう。手紙ではなく、これが音楽家同士の会話なのかも知れないと思うと、ちょっと浪漫を感じる。
