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俳句という私の居場所。

ある日職場で、ふうとため息をついた瞬間に「俳句は私の居場所だな」と思った。

もちろんそこには句友の存在もあるが、句友がいるから居場所であるという訳ではない。
実際、現在の私はnote以外のSNSを消したので句友との接点はほぼない状態だ。

それでも「私の居場所」だと思う。

すごく簡単に言うと、下手の横好きなりに「自分の伝えたいこと」と「字面」の距離が徐々に縮まってきて、より言葉に自由を感じられるようになってきたからだと思う。

評価されているからではないのかと思う人もいるかもしれないが、評価は気にしていない。
もし私が評価を気にする人間だったらSNSをやめずにいいね数で一喜一憂しているはずだとは思わないか。

何処かで誰かが一人読んでくれていれば良い。
投句先は私にとって評価を得るための場ではなく、選者に読んでもらうための機会だ。

話を戻そう。

俳句を始めた頃の私は、その時から比較的自由ではあったが俳句の基礎など基本的なことにも気を付けていた。

現在まったく気を付けていないというわけではないが、破調も作れるようになったし、入れたい言葉を入れられるようになったし、句を並べる楽しさも知った。

それは基礎を疎かにしているというのではなく、ある程度の基礎を覚えたから出来るようになってきたのだと思う。
数学の応用問題が解ける喜びに似ている。

もちろん失敗することもあるが、失敗とは挑戦の勲章だ。

そしてまだまだ途上の部分はおおいにあるが、それは未来の可能性だ。
まだ伸び代があると思うと楽しい。

またそれに加えて仕事や俳句以外のことで落ち込んでも「私には俳句がある」と思って強くいられるようになれた。

新卒の頃はほとんど仕事しかしていなかったので、ある日の休日「私の人生はこの日々の繰り返しで終わるのか」と気付いてしまい、鬱が始まってしまったのを覚えている。

今は、仮にこの毎日が繰り返しで終わるとしても俳句を作り続けることで自分を見失わずに済む確信がある。

毎月作って、投句して、読んでもらう。
時には投句せずに温めておく。

まるで日々増えていく宝物みたいだ。

悲しいこと、楽しいことも俳句として取っておける。
人間の記憶は薄れてしまうが、俳句にすることでその時の感覚を残しておける。
細かな気付きを忘れずにいられる。

何でもない日々の中に詩を見つけながら生きるのが楽しい。

またそれはすぐ形にならなくても良い。
いつか言葉になるまで取っておくのも宝物だ。

それは自分がいま作る俳句だけではない。

過去に作った自分の句に「この時はこんな事を考えていたんだな」と励まされる時もあれば、他の人の句を読んで「悲しいけど、優しいな」と思う時もある。

短いのでスッと心に入ってくる。

そして、今まで意味のわからなかった句がわかるようになる喜びもある。成長だ。

楽しいだけが俳句ではないが、苦しいだけが俳句でもない。

正直やめたいと思う時もあるが、私が人であるために必要なのが俳句だ。

過去に、私は絵を描くのをやめた。
絵を描かない方が体調が安定すると気付いたのが大きいが理由はもうひとつある。

年齢の近い画家が「私は絵を描いていないと生きていけない」とSNSに投稿しているのを見て「私は描かなくても生きていける」と気付いてしまったからだ。

私はもう、俳句がないと生きていけない。

健やかでありたい。



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