「多様性を認めないことも多様性?」という問いの前で、揺れながら立ち止まる
今日、職場で、昨日最終回を迎えたテレビ番組をきっかけに同僚と話をする機会があった。
『虹クロ』である(2021年11月の開始から今までありがとう)。
最終回、番組内で後半で取り上げられていたのは、「多様性を認めないことも一つの多様性だと思います」という意見だった。その意見にメンターたちが自身の考えを話していた。
その言葉を耳にした瞬間、私は少しだけ息が詰まるような感覚を覚えた。
私はこれまで、多からず学校の授業や市民向け講座などで、多様性について人前で話す機会をいただいてきた。
その中で、質疑応答やアンケートなどに、似たような問いを投げかけられたことが何度かある。
「受け入れがたい存在もありますよね」
「多様性を認めない、という考えもあっていいのではないですか」
そのたびに、私は即座に毅然とした答えを返すことができなかった。
そのことが、ずっと心のどこかに引っかかっていた。
本当は、はっきりと言い切るべきなのではないか。 曖昧にしてはいけないのではないか。
講師という立場に立つ以上、軸をより明確に示す責任があるのではないか。
そう思いながらも、私は言葉を選びあぐねてきた。
落ち着いて考えてみると、「多様性を認めないことも多様性」という言葉は、一見すると公平で、何かを広く受け止めようとする姿勢のようにも見える。
けれど、本当にそうだろうか。
多様性という言葉が本来守ろうとしているのは、単なる好みや思想の違いではなく、人の尊厳や権利であるはずだ。
もし「認めない」という態度が、誰かの存在そのものを否定したり、社会的な権利を狭めたりする方向へ向かうのだとしたら、それは単なる“多様な意見”として同列に扱ってよいものなのだろうか。
私は、その問いに対して簡単に「それは違います」と切り捨てることもできる。
けれど、そう言い切ることにためらいもある。
なぜなら、その言葉の背景には、きっと何かしらの不安や恐れがあるのではないかと思うからだ。
それは、時代や社会の変化に対する戸惑いかもしれない。
自分の価値観が否定されるのではないかという不安かもしれない。
自分の安心や居場所が揺らぐような感覚かもしれない。
本来は、そこを丁寧に問い直したい。
「なぜ、そう思うのですか?」
「どんな体験や感情が、その問いにつながっているのですか?」と。
けれど現実の場面では、十分な前提を擦り合わせることが難しいことが多い。
10分程度の質疑応答。
相手の顔も名前も見えにくいSNS。
文脈も関係性も共有されていない空間は、議論にも対話にも、本来はあまり向いていない。
そもそも、意見を交わすとき、双方に「水平に対話をしよう」という意思があるのだろうか。
このやり取りは、双方の理解を深めたいのか。
自分の立場を明確にしたいのか。
ただ論破したいのか。 怒りをぶつけたいのか。
仲間内で拍手を得たいのか。
目的や意図が違えば、同じ言葉を使っていても、やっていることはまったく別の営みになる。
私は、水平な対話をしたい。
けれど、対話には前提として双方の合意と、ある程度の信頼と安心が必要だ。
どちらか一方が戦闘モードであれば、それは対話ではなく、削り合いになる。
この世界には、年齢や役職、性別や立場、学歴や能力など、さまざまな差異と格差がある。
完全にフラットな関係など、ほとんど存在しない。
それでも私は、ごく限定的な瞬間であれば、互いが「水平でありたい」と願いながら言葉を交わす時間をつくることはできるのではないかと思っている。
違いをなくすのではなく。
違いを見ないふりをするのでもなく。
違いを認識したうえで、その時間だけは、尊厳の重さが同じであると扱い合う。
ねぎらい合い、少しずつ手繰り寄せ合う。
そんな時間が、ほんのわずかでも増えていけばいい。それは、ものすごく難しいことなんだけど。
あのとき即答できなかった自分を、悔やみはすれど、責めないでいようと思う。
相手の言葉や思いを軽く扱いたくなかったからこそ、簡単に言い切れなかった。
けれど真意を理解するには時間が足りなかったし、私自身にも余裕がなかった。
「私は、人の尊厳や権利が守られることを前提に、多様性を考えています。」
落ち着いた今の私に言えるのは、その立ち位置だ。
無論、すべての人と対話ができるとは思っていない。 話せば分かり合えるとも思っていない。
それでも、対話の意思がある人とは、揺れながらでも言葉を重ねていきたい。
対話は万能ではない。
けれど、捨てるには惜しい。
違いが溢れるこの世界で、理想と現実のあいだで揺れながらも、 私は今日も、水平な対話が成り立つ場の可能性を探している。
