モフモフと器の話
最近、出勤前に缶コーヒーを買って飲むことが増えた。
これまでは、そのまま缶に口をつけて飲んでいたのだけれど、今朝はふと思い立って、職場に着いてからお気に入りのマグカップに注いでみた。

静かに注いで、ゆっくりと口をつける。
すると、不思議なことに、同じコーヒーのはずなのに、味わいが少し違って感じる。口当たりがやわらかくなり、香りも広がる。
何より、「ちゃんと味わっている」という感覚が増した。
それは単なる気のせいではなく、器を変えることで、「コーヒーを飲む」という体験そのものが変わったのだと思う。
この感覚は、コーヒーに限ったことではない。
缶ビールをグラスに注ぐと美味しく感じられることや、ワインがその形状に適したグラスで供される理由も、同じ文脈で理解できる。
器は、単に中身を入れるものではない。
そのものの持つ良さを引き出し、味わい方を変え、時には意味まで加える存在なのだと思う。
温かいものは温かい器で、冷たいものは冷たい器で。
そうした小さな工夫や配慮が、中身の魅力をそっと引き上げてくれる。
そんなことを考えながらコーヒーを味わっていると、ふと自分の仕事のこととも繋がった。
(その発想の繋がりを忘れたくなくて、朝礼のはじめに2分だけ時間をもらい、目を輝かせながら同僚たちに語ってしまった。いつも私の脈絡のない話を聴いてくれる同僚には、感謝しかない)
さて、私は日頃、対人支援の仕事をしている。
日々、人の話を聴き、感情や言葉を受け止め、ときに整理をしたり、選択肢を示してメリットやデメリットを伝えながら、相談者が自己決定できるようサポートしている。
その営みは、ある意味で私が「器になること」なのではないか。
人は、自分の内側にあるものを、そのまま抱え続けるのではなく、誰かや居場所という“器”にそっと置くことで、その意味や重さが変わることがある。
言葉や、想いも、どこに置かれるかによって、受け止められるかによって、その印象はやわらかくもなれば、鋭くもなる。
安心できる器に注がれたとき、人の気持ちはきっと少しほどける。
居心地の良い場所に移されたとき、それまでとは違う見え方をする。
器は、中身そのものを変えなくても、捉え方や体験を変える力を持っている。
さらに考えてみると、器にはいくつかの性質があるとも思う。
たとえば頑丈で、多少の衝撃ではびくともしない器。
それは、安心して中身を預けられる「守る器」だ。
一方で、薄くて繊細で、扱いには注意が必要だけれど、だからこそ中身の良さを際立たせる「引き出す器」もある。
そのどちらが良いという話ではなく、その時々に応じて、どんな器が適しているのかが変わるのだと思う。
“温度感”だってそうだ。
霜がつくほど冷えたグラスに熱湯を注げば割れてしまうように、中身をちょうどよく受け止めるための温度というものがある。
それはきっと、人と関わるときも同じで、
守ることが求められるときもあれば、引き出すことが大切なときもある。
熱を冷ますように静かに待つこともあれば、鼓舞して熱量を高めることもある。自身の力で温度を保てるようにと“お守り”を手渡すことも。
そしてもう一つ。大事なことに気づいた。
それは、私たち自身もまた「器」であるということだ。
我慢をし続けたり、傷つく出来事が重なったりすると、器にはヒビが入ることがある。
ときには、粉々に砕けてしまうことだってある。
だからこそ、私は日頃から「モフモフ」を大切にしている。
それは、自分の中身を守るためのやわらかな緩衝材のようなものでもあるし、モフモフは他者を包むものでもありたい。
(職場でも、私に求められているのは支援者としての専門性などではなく、この「モフモフ感」なのかもしれないと、最近真剣に思っている)
そして、もしヒビが入ったときには、きちんと手を当てて、修復する時間を持つことも大切だと感じている。
割れないことを目指すのではなく、割れたときにどう扱うか。
金継ぎのように、修復の痕も含めて、使い続けてできた擦れや疵ごと、自身の器を愛していきたい。
それもまた、私の在りたい器の姿なのだと思う。
あなたは、どんな器で在りたいですか。
