古賀紗理那選手、バレーボールが大好きでした‼️
ソース: スポーツ報知
「パリ・オリンピック」の実況やインタビューで、「東京オリンピック」から3年、「それぞれの競技の選手」に何の興味も無かったのに、「メダルを取る」「メダルを取らない」や「勝敗」だけで、「新聞の見出し的」に「出場選手」を扱う「マスコミ」。
おかしくは無いか❓
どの選手も「オリンピック」を、そして「メダル」を目指して、幼い頃から頑張って来たのに。
「テレビのコメンテーター」が「選手たち」に関して、発言するのは「越権行為」に見えて来て、気持ち良いものでは無い。
「ファシズム」や「軍国主義」では無いが、「日本国」を勝手に背負わせている。
血の滲む努力を続けて来た選手たち。

その結果なのだから、今回からリポーターをしている「石川佳純さん」が「競技が終わった選手」にコメントをもらう前に、「お疲れ様でした!」と労を労うのが「本当の人間の姿」だと思う。

女子バレーボールチームのキャプテン・古賀紗理那さんが「最後の試合」の後で言った一言は、僕の心にすごく印象に残った。
「今日のケニア戦は『バレーボールが大好きだった古賀紗理那』として、プレー出来ました」
そして、大粒の涙をこぼし続けた。
古賀紗理那選手の28年の人生を知らなくて、「コメント」するのは「不遜」だとしか言いようがない。

オリンピック・リポーターの「松岡修造さん」。
僕は、彼が柔道の阿部一二三選手が「金メダル」を取った時、大騒ぎして、興奮し続けてインタビュー。

これだけでも、プロのリポーターのやり方とは思えない。

彼は、最後に阿部一二三さんに妹「阿部詩選手」の敗退に関してどう思うかと訊いた。
こんな無神経な質問があるだろうか❓
「阿部詩選手」も聞いているかも知れないのに。
あり得ない‼️

ここ数日、世間を賑わせている「やす子さん」に対する「フワちゃん」の「インターネットへの書き込み炎上」の問題。

「フワちゃん」がちゃんと「謝罪」して、その後も「やす子さん」と誠実に話す姿勢を見せているのに、「世間」は「フワちゃん」を「芸能界」から無き者にしようとしている。
「インターネット」が発達して、「日本人」と「インターネット」の「親和性」が強すぎて、何でも「肯定」か「否定」の「デジタル的な思考」で「デジタル的に迅速にコンピューターの様に処理」しようとする。
でも、「物事」を「肯定」と「否定」の2つに分けてもいいのだろうか❓

昨日の新聞で、「注意欠陥・多動性障害」(ADHD)を公表している作家・柴崎友香さんがインタビューに答えている。
「文学」とは、「本を読むという事」とは、「肯定50%」「否定50%」を新たに生み出し続ける事だと。
僕もその意見には「全面的に賛成」で、「行間」を「それぞれの読者」が「自分の解釈」で読むのが、「読書」の面白さなのだ。
これは「音楽」にも当てはまる。
「文化」というものはそうやって発展して来た。
「インターネット」は全ての事柄を「肯定」「否定」に区別して、「否定的な部分」を「社会」から消し去ろうとする。
一見、「とってもクリアーで綺麗な世界」が「日本」という「国」に広がっている様に見えるが、「物事」は「見る人」「感じる人」によって、「多面的」に見て感じれば良い。
そんな「全てが、全ての人から見て、クリアーな国」なんて、成立しないのである。
だから、「グレーゾーン」「陰の部分」が「社会」には常に付き纏い、それが必ず必要で、それが「文化」を生み出していくと僕は考える。
一時期、「芸人」と「反社」の付き合いが厳しく問題視されたが、「反社」に属している人の中にも、「恵まれない貧乏な家で産まれて、親が離婚して、『反社』にしか、自分をなれなかった人」もいる事だと思う。
要は「想像力」の問題なのだ。
「インターネット」が「女性」のメディアだと、僕は以前書いた。
「PTA」に代表される「女性団体」は昔から、テレビの低俗番組を批判し続けて来た。


例えば、あれだけ高視聴率を取った「8時だヨ!全員集合」は「彼女たち」にとって、「抗議の格好の対象」だった。
しかしである。
僕はあの番組は「昭和という時代の文化」を作った大切な要素の1つだと思っている。


深夜の低俗番組と言われた「11PM」の最終回で、司会の藤本義一さんはそう言われた。
「11PM」とは「社会」の「排泄物」であると。
それこそが「文化」の源なのでは無いか❓
「女性」という「性」は「子供を守るという本能」がある。
だから、「インターネット」という「個人で発信出来て、匿名性を持てるメディア」で、「肯定」「否定」の発言をして、自分の子供」の為に、「綺麗な世界」を作ろうとすると、「男」の僕は想像する。
しかし、「綺麗な世界」から「文化」は生み出されないのだ。

脚本家・山田太一さんの事が大好きだ。
彼のシナリオは「物事」を断定しない。「社会の勝者」ではなく、「敗者」に光を当てる。
そして、「社会の陰の部分」が必要だとエッセイでも述べられている。
「人間」は「尊大な生き物」では無い。
「欠点」の無い人などいない。
それがとてもとても良い事のだ。
