おいしさは、どこにあるのか──飽食時代の味覚と自己感覚
「うまいものが食べたい」──そう思ったとき、私たちはどこを見るだろうか?
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最近では「おいしいもの」そのものよりも、「おいしいと言われているもの」を探しに行く人のほうが多いように思う。
けれど、私は思うのだ。
おいしいものは、本当に外にあるのだろうか?
サバ缶の味噌漬けに宿った「うまさ」
私にとっての「ご馳走」は、少年時代に食べたサバ缶の味噌漬けだ。
ボーイスカウトで山を歩いた夏のある日、汗まみれでたどり着いた野営地。疲れきった身体でテントを張り、ようやく手にした一缶の味噌漬けのサバ。それは、特別なものではなかった。
けれど、あの時の味は、いまだに身体に残っている。
赤味噌の甘辛さと鯖の脂が疲れ切った体に染み込み、言葉にならない「満たされた感覚」をもたらした。
それは、「何を食べたか」ではなく、「どんな状態で、どんな気持ちで、どんな身体で」食べたか。
うまさとは、そうした文脈と分かちがたく結びついているものだ。
外にばかり求める「うまさ」の過剰
もちろん、世の中には魅力的な料理が溢れている。
凝った演出、目を引くビジュアル、話題性。
例えば最近では、チャーシューで丼が覆い尽くされたラーメンや、何層にもわたるトッピングで“視覚的インパクト”を競うような一杯もある。
私はそれを全否定するつもりはない。
ただ、どこかでふと、「これは本当に“おいしさ”を追求した結果なのか?」と首をかしげたくなることがある。
演出が派手になるほど、感覚は麻痺していく。
そして、自分の「おいしい」という実感よりも、「誰かに伝えるための映え」が優先されていく。
味覚の半分は、自分の中にある
「うまさ」とは、料理の質や技術で決まるものではない。
それを受け取る側の身体や心の状態が整っていなければ、どんな料理も“うまい”とは感じられない。
お腹が空いていること。
疲れていること。
五感が開かれていること。
これらが整って初めて、「味覚」は自分のものになる。
だから私は、「おいしいものを食べたい」と思ったとき、まずは自分の内側を整えたくなる。
それでも、現代の私たちはすぐに外を探してしまう。
誰かが評価した“正解”に飛びつき、「自分で感じる」という営みを置き去りにする。
誰の「うまさ」に生きるのか
あの日のサバ缶の味噌漬け。
それは、決して高価でも有名でもなかったけれど、私にとって唯一の「ご馳走」だった。
「おいしいもの」は確かに外にある。
だが、「おいしいと感じること」は、いつも自分の中にある。
あなたが求めている“うまさ”は、誰の感覚に支えられていますか?
本当に、あなたの舌で感じたものですか?
