いまさら映画感想(76)『マッドマックス』が描いたもの──無秩序との戦いと、社会が個人へ責任を委ねる瞬間
暴走族との戦いではなく、「秩序」の物語
1979年公開の『マッドマックス』は、カーアクション映画の金字塔として知られている。しかし、本作を単なる復讐劇やアクション映画として捉えるのは、その本質を見落としてしまうだろう。この作品が描いているのは、暴走族と警察の対立ではない。もっと根源的な、「秩序とは何か」という問いである。
物語の舞台では、警察組織は存在しているものの、司法は十分に機能せず、犯罪者は逮捕されてもすぐに社会へ戻る。法は存在しても、その実効性は失われつつあり、国家による統治能力は確実に低下している。つまり、この世界は文明が崩壊した社会ではなく、「崩壊が始まった社会」なのである。この曖昧な境界線こそが、本作に独特の緊張感を与えている。
人は無秩序では生きられない
一見すると、暴走族は無秩序の象徴に見える。しかし、実際には彼らにもリーダーがおり、仲間内のルールが存在する。完全な無秩序は長く続かない。人間は集団を形成すれば、必ず何らかの秩序を生み出すからだ。
問題は、その秩序が「法」に基づくものなのか、それとも「暴力」に基づくものなのかという違いである。
国家が十分に機能している社会では、秩序は法律や司法制度によって維持される。しかし、それらが弱体化すると、人々は別の秩序を求め始める。その空白を埋めるのは、必ずしも国家とは限らない。暴力団であったり、武装組織であったり、地域の有力者であったりする。戦後日本の闇市、イタリア南部のマフィア、禁酒法時代のアメリカのギャングなど、歴史は同じ構造を何度も繰り返してきた。
『マッドマックス』もまた、この「秩序の空白」を描いた作品なのである。
公権力は、なぜ暴力へと変質するのか
主人公マックスは警察官である。つまり、本来は法を執行する側の人間だ。しかし、家族を失った瞬間から彼は警察官ではなく、一人の復讐者へと変わる。
ここで重要なのは、マックスが突然悪人になったわけではないという点である。社会が法によって個人を守れなくなったとき、人は自らの力で家族や財産を守ろうとする。その結果、公権力を担っていた人物でさえ、法ではなく暴力によって問題を解決しようとする。
政治哲学者のマックス・ウェーバーは、国家を「正当な暴力を独占する存在」と定義した。しかし、その暴力が「正当」であるためには、社会全体が国家を信頼していることが前提となる。その信頼が失われれば、公権力は単なる暴力装置へと変質し、警察と暴走族の違いは徐々に曖昧になっていく。
本作で描かれる悲劇は、まさにそこにある。
「自己責任」という思想の原型
本作を現代社会に重ねると、さらに興味深い構図が見えてくる。
近年、「自己責任」という言葉は様々な場面で用いられる。教育、雇用、老後、医療、子育てなど、本来であれば社会全体で支えるべき課題までが、個人の努力や選択の問題として語られる場面は少なくない。
『マッドマックス』でも同じことが起こっている。国家は家族を守れず、司法は犯罪者を裁けない。その結果、責任はすべてマックス一人の肩へとのしかかる。
もちろん、映画はその選択を肯定してはいない。復讐を遂げても家族は戻らず、彼自身も元の人生を取り戻すことはできない。問題は解決したのではなく、社会が果たすべき責任が個人へ転嫁された結果、さらに悲劇が深まっただけなのである。
戦後日本との共通点
この作品を見ていると、日本の戦後復興期を思い出さずにはいられない。
例えば、兵庫県尼崎市の三和商店街は戦後の闇市を起源としている。当時は公権力が十分に機能せず、治安維持や商売のルールづくりを暴力団などの非公式な組織が担う場面もあったとされる。もちろん、それは法治国家として望ましい姿ではない。しかし、国家の統治能力が低下すると、社会は「秩序そのもの」を失うのではなく、「別の秩序」を生み出してしまうのである。
これは世界各地でも繰り返されてきた歴史であり、『マッドマックス』はその構造を極端な形で映像化した作品とも言える。
現代への警鐘
本作が公開されたのは約半世紀前である。しかし、そのテーマは今なお古びていない。
社会は突然崩壊するわけではない。司法への不信、行政への不満、経済格差、共同体の希薄化など、小さな綻びが積み重なることで、法よりも力が優先される場面が少しずつ増えていく。その変化は劇的ではなく、日常の延長線上で静かに進行する。
だからこそ『マッドマックス』の世界は現実味を帯びている。描かれているのは「終末世界」ではなく、「終末へ向かう社会」だからだ。
本当に戦っていた相手
結局のところ、マックスが戦っていたのは暴走族ではない。暴走族もまた、自分たちなりの秩序を維持しようとしていた集団だった。
双方が戦っていた相手は、「無秩序」である。
しかし、その無秩序に対抗する方法として、片方は法を掲げ、もう片方は暴力を掲げた。そして皮肉なことに、法が十分に機能しなくなった瞬間、両者は同じ暴力の論理へと引き寄せられていく。
映画のラストでマックスは勝利したように見える。しかし彼が取り戻したものは何一つない。守るべき家族も、警察官としての使命も、法への信頼も失い、残ったのは荒野を走り去る一人の男だけだった。
『マッドマックス』はカーアクション映画の名作である以前に、「社会の秩序とは誰が支え、誰がその代償を負うのか」という普遍的な問いを投げかけた作品である。そして、その問いは半世紀近く経った現在でも、私たちの社会に静かに突きつけられている。
