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短大が消える日本、社会に開かれるアメリカの大学──エベレットのコミュニティカレッジで見た教育

短期大学の淘汰が加速している

文部科学省によれば、1996年度に全国598校あった短期大学は、2025年度には292校まで減少した。三十年足らずで半数以下になったことになる。さらに、このうち49校が2025〜27年度入試で募集停止を公表しており、2027年度までに閉校する見通しだという。

つまり、日本の短期大学という制度そのものが、いま急速に姿を消しつつある。

最近では、上智大学短期大学部が募集停止を決めたことも話題になった。日本を代表する大学の一つである上智学院ですら、短大という制度を維持することが難しくなったのである。

私が編入し、卒業したシアトル大学は、上智大学と姉妹校提携をしていた。夏になると上智大学の学生がキャンパスを訪れ、サマープログラムに参加していた。私は当時、日本から来た留学生のサポートをする活動にも関わっており、大学案内などを通じて彼らと交流する機会があった。

その記憶を思い出すと、このニュースにはどこか寂しさを感じてしまう。

しかし同時に、私は別の記憶も思い出す。
アメリカで見た、もう一つの二年制教育の風景である。

コミュニティカレッジだ。


エベレットという街

私が住んでいたのは、ワシントン州エベレットという港町だった。シアトルから車で一時間ほど北にある地方都市である。

当時のエベレットのダウンタウンは、どこか静かな街だった。店の数はそれほど多くなく、中心部には少し寂れたような空気もあった。大きなショッピングモールは街の外側にあり、人の流れはむしろそちらに向かっていた。

エベレットはもともと林業で栄えた街だと聞いた。港にはヨットハーバーがあり、湾岸にはティッシュペーパー「スコッティ」で知られる製紙工場もあった。そして何より、航空機メーカー・ボーイングの巨大な工場は、この街の象徴のような存在だった。

街の周囲には自然が広がっていた。大学の裏手にはゴルフコースがあり、大きな自然公園もあった。緑の多い、落ち着いた街だった。

ダウンタウンには十九世紀から残る古い建物も多かった。私が住んでいたアパートもかなり年季の入った建物で、政府住宅(ガバメントハウジング)も多く残っていた。街に暮らす人々は、長く同じ場所で働き続けているような、どこか安定した生活の雰囲気を持っていた。

そんな静かな街の中で、ひときわ活気のある場所があった。

コミュニティカレッジである。


高台にあった小さなキャンパス

その大学は街の高台にあった。キャンパスは決して大きくはなかったが、整った建物が並び、中央にはカフェテリアと図書館があった。

授業の合間になると、多くの学生がカフェテリアに集まり、コーヒーを飲みながら話をしていた。私が友人を作ったのも、教室よりむしろこのカフェテリアだった。

そこには本当にさまざまな人がいた。

若い学生だけではない。社会人も多く、年齢も背景も異なる人たちが自然に同じテーブルを囲んでいた。

学生たちはよく勉強していた。授業が終わると図書館やカフェテリアでそのまま勉強を続ける。図書館の自習席は決して多くなかったため、空席がある方が珍しいほどだった。

キャンパスには語学学校も併設されていた。多くの外国人留学生が英語を学んでいた。

さらに印象的だったのが「ライティングセンター」である。ここでは学生がレポートを書くと、専門スタッフが文章を読み、構成や論理について助言してくれる。必要であれば書き直しのサポートもしてくれる。

外国人学生でも社会人でも、学び直すことができる仕組みが整えられていた。


教室にいたボーイングのワーカー

コミュニティカレッジには、若者だけでなく社会人も多く通っていた。

特に印象に残っているのは、航空機メーカー・ボーイングのワーカーたちだった。

当時、航空産業は景気の波の影響を受け、多くの技術者や作業員が職を失っていた。彼らは新しい技能を身につけるため、コミュニティカレッジに通っていたのである。

教室にはそうした社会人が数多くいた。

家庭を持つ人、移民として新しい生活を始めた人、昼は働き夜に授業を受ける人。年齢も職業もさまざまだった。

コミュニティカレッジは単なる学校ではない。
地域社会の中にある教育機関だった。

若者だけが通う場所ではなく、人生の途中で何度でも戻ってくることができる場所だったのである。


日本の短大はなぜ同じ役割を持たなかったのか

日本にも二年制の高等教育機関として短期大学がある。しかし、その多くはコミュニティカレッジとはまったく異なる役割を持っていた。

戦後、日本の短大は主に女子教育の拡張として発展した。家政、英語、教養などの分野が中心で、地域の産業や職業教育と結びついた制度ではなかった。

つまり、日本の短大は地域社会の教育拠点というより、「女子の高等教育機関」として制度化されたのである。

その後、女性の四年制大学進学が一般化すると、この役割は急速に縮小していった。

制度の役割そのものが失われたのである。


日本にコミュニティカレッジが生まれなかった理由

日本の教育制度を考えるとき、もう一つ興味深い歴史がある。
なぜ日本にはアメリカのようなコミュニティカレッジが発達しなかったのか、という問題である。

戦後、日本の教育制度はGHQの主導によって大きく改革された。旧制高校や専門学校は廃止され、新制大学が作られた。現在の四年制大学の制度は、この時期に整えられたものである。

しかし、日本に生まれた制度は、アメリカのコミュニティカレッジとはかなり異なるものになった。

理由の一つは、日本の大学がもともと「エリート教育機関」として発展してきたことにある。

戦前の大学は帝国大学を中心とした国家エリート養成機関だった。大学は社会の中でも特別な場所であり、誰もが通う教育機関ではなかった。戦後、大学進学者は増えたが、この文化は完全には消えなかった。

その結果、日本では大学が「社会人が学び直す場所」ではなく、「若者が一度だけ通う場所」として制度化されていったのである。


なぜ日本では学び直しが広がらないのか

ここで、もう一つの問題が見えてくる。

なぜ日本では、人生の途中で大学に戻る「学び直し」が広がらないのだろうか。

その理由の一つは、日本では長いあいだ企業が人材育成を担ってきたことにある。

高度経済成長期以降、日本の企業は新卒一括採用を基本とし、社員を社内で育成する仕組みを作ってきた。大学は基礎的な教養を与え、専門的な技能は企業の中で学ぶ。そうした分業が長く続いてきたのである。

この構造の中では、社会人が大学に戻る必要はそれほど大きくなかった。

しかし近年、この仕組みは大きく変わりつつある。終身雇用は揺らぎ、転職は珍しいことではなくなった。技術の変化も早くなり、一つの技能で一生働き続けることが難しくなっている。

それでも、日本の大学は依然として十八歳から二十二歳の学生を中心とした制度のままである。

つまり、日本社会は「学び直しが必要な時代」に入りながら、そのための教育制度はまだ十分に整っていないのである。


教育は一度きりでなくてもいい

コミュニティカレッジのカフェテリアには、本当にさまざまな人がいた。

高校を出たばかりの若者。家庭を持つ大人。失業した技術者。移民として新しい生活を始めた学生。

彼らは特別な存在ではなかった。
人生の途中で学び直すことは、ごく普通のことだったのである。

教育は若者だけのものではない。
人生の途中で何度でも戻ってくることができる。

そして、この問題は単に大学制度だけの話でもない。

学校に適応できずに苦しむ子どもたち、不登校の増加、そしてフリースクールの広がりもまた、日本の教育が「一度きりの通路」として設計されてきたことと無関係ではないだろう。

人生の途中で学び直すことができる社会と、教育の通路が一度しか用意されていない社会では、人の生き方の自由度は大きく違ってくる。

短期大学が消えていく日本の教育制度を見ていると、私はときどきエベレットのあのカフェテリアの風景を思い出す。

大学とはいったい誰のための場所なのだろうか。

若者だけのための場所なのか。
それとも社会全体に開かれた学びの場なのか。

エベレットの小さなコミュニティカレッジで見た風景は、その問いを静かに私の中に残している。

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