『ONE PIECE』連載開始からまもなく30年。この大作が社会に与えた影響とは?【エンタメは、願望を描くのだとすると…】
『ONE PIECE』(ジャンプ・コミックス)は、『週刊少年ジャンプ』で1997年から連載されている漫画史に刻まれる大作です。
熊本県出身の尾田栄一郎さんは、この作品のみで漫画家のキャリアを終えそうな勢いですので、その点でも前人未到のクリエイターと言えるのではと思います。
私にとって、この『ONE PIECE』、忘れられない衝撃的な作品でもありました。
それは、主人公・ルフィーが「ゴムゴムの実(当時の設定?)を食べて能力を獲得した」という設定への強烈な違和感です。
当時は、中学生向けの塾で働いていたので、中学生に「あの設定はありなのか」と聞くと、「全然あり」という。この認識のズレは、世代の違いを実感したものです。
あだち充さんの『タッチ』は、高校3年生になると、監督が替わり猛練習の結果、甲子園で優勝します。そこには、当時の読者のリアリティへの厳しい目があったのではと思います。
伝説となっている水島新司さんの『ドカベン』31巻でも、里中智が変化球の取得に血のにじむ努力をしたことが描かれ、リアリティが追求されています。
ちばあきおさんの『キャプテン』や『プレーボール』は、努力が報われない現実も描かれており、いろいろ考えさせられた程です。
そんなエンタメで育った私には、このルフィーの設定の違和感は、ぬぐい難いものとして、今もなお残っています。
しかし、『ONE PIECE』の設定が社会に受け入れられるにつれて、ある価値観が育っていったと感じます。
それが、チート能力大歓迎という風潮です。
確かにそのような風潮の胎動は見られていました。
1981年から連載が始まった、一条ゆかりさんの『有閑俱楽部』(りぼんマスコットコミックス)は、超大金持ちの学園物語ですが、これはリアリティもへったくりもない、ぶっ飛んだ「壮大なほら話」を楽しむ作品でしたが、
1992年から連載が始まった神尾葉子さんの『花より男子』(マーガレットコミックス)は、お金持ちのリアリティが上がり、このような設定が「ありえるかもね」という感じで受け取られ、「やっぱり、お金持ちの家に生まれたらいいよね」という文脈で社会に受け入れられたように感じています。
(大)金持ちは、チートではないという「寛容さ」が読者のベースを支えたのでしょう。
エンタメは願望を描く一面があるので、「なにもしなくても異性にモテモテ」「大して努力せずに甲子園で優勝」「大金持ちの家に生まれてラクラク人生」のような設定は、異世界モノというジャンルの成長ともに、チート能力とセットで描かれ、市場として育っていった。
こうなると、リアルの世界に「チート」を探す人たちが出てくるのは自然な流れといえるのでしょう。
その一つの流れが「総合型選抜入試」や「学校推薦」の仕組みが、一般入試ほどの努力をせずに結果が得られる「チート入試」として見えてしまうという現象ではと思います。
私は、学歴はあった方がいいとは思うものの、実力(実体)を伴わない学歴は、自己認識という点において、害の方が大きいと思っています。
総合型選抜入試への過度な評価は、一般入試に比べると「幻想多め」の評価であり、実際に一定の知識を得たり、努力ができることを裏書きした一般入試に比べてその差は厳然として存在するだろうと思っています。
私が高校生なら、「指定校推薦」や「総合型選抜入試」は、未来が怖くて選択できないだろうと思います。
なぜなら、「指定校推薦」や「総合型選抜入試」で入学しても、何も得ていない「何者でもない自分」と向き合わざるを得ないからからです。
そのようなリスクを見えなくしたのが、チート能力歓迎の社会風土なのかもしれません。
チート能力歓迎という風土は、『ONE PIECE』が生み出したというより、それよりも早く醸成していた社会の風土に作品が合流したというイメージだったと理解していますが、大作の「副作用」として、作者の意図とは離れて、チートへの願望が育ったのではと思っています。
