閑話2 「三大ギタリストとフランス現代思想家の対応関係」
いままでで最もテキトーで最もくだらない記事です。
本当は明日提出の「一般意志と自由」というありふれたテーマのルソーエッセイを書かないといけない。だから一瞬で終わります。
三大〇〇という呼称がある。大体はその産業が盛り上がることで利を得るメディアが言いはじめる。三つそれぞれにキャラクターが与えられる。何の根拠があって言っているのかはわからない。だけど、言われてみると腑に落ちないこともないし、とりあえず便利だからじぶんも使ってみる。気づけば、まさにメディアの要請通りに僕たちは消費を促されている。大体みんなそんな感じだと思う。大した根拠がないにもかかわらず、この三大〇〇という呼称が生み出す力は意外にも大きい。
今回話題にする三大〇〇のひとつめ、三大ギタリストは(Wikipedia によると)ワーナー・ミュージック・ジャパンが使いはじめたという。言わずもがな、エリック・クラプトン ・ ジェフ・ベック ・ ジミー・ペイジ の三者だ。当然同世代で活躍したギタリストはほかにも数多いるが、ヤードバーズという共通の出発点を持つこと、その後の活動が三者三様の活躍ぶりだったことからこの三人が選ばれたのだろう。それなりに納得がいく。

対するもう一方は、フーコー・ドゥルーズ・デリダだ。この三人をまとめた三大〇〇と名指す言い方には馴染みがないが、なんとなくフランス現代思想という枠組みでこの三人はセットで扱われている印象はある。蓮實重彦に『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』という著作があるが、必ずしもそれのみの影響でもないように思う。同世代で活躍した哲学者・思想家はほかにもいるはずだが、「フランス」というパッケージと彼らのしごとを鑑みるに、やはりこちらもそれなりにうなずける。

ところで、今日この二つの三大〇〇を考えていたときにふと、その対応関係が思い浮かんだ。そして多少ロックが好き、且つ人文学をかじっていれば、その対応関係は絶対にそれ以外あり得ないと思えるような気がした。
一旦、スクロールする前に、三大ギタリスト=クラプトン・ベック・ペイジと三大フランス現代思想家?=フーコー・ドゥルーズ・デリダを思い浮かべて、結びつけてみてほしい。間違いなく、僕がいまから書くのと同じになるはずだ。
では、いきます。
クラプトン === デリダ
ジェフ・ベック === ドゥルーズ
ジミー・ペイジ === フーコー
これです。間違いなすぎませんか。
これ以外ありえないっしょ。
特に、ジェフ・ベックのドゥルーズ感が僕はいちばんすごいと思いました。そもそもさっきジェフ・ベックの動画見てて、こいつドゥルーズじゃね、と思ったのがこのネタを思いつくきっかけでもあったし。
無理やりキャラクターやしごとを思い返してこじつければ、クラプトンはブルースという伝統、デリダは西洋哲学という伝統をある種とても重要視しながら、そこからの発展を考えた感、いろいろ批判されるけど結局影響力絶大感。ジェフ・ベックとドゥルーズはなんかわかんないけど気難しそう感、指弾きになったベック、ガタリと組み始めたドゥルーズのコレキタ感、なんかわかんないけど引き篭もってそう感。ジミー・ペイジとフーコーはいま挙げた人たちとは少しずれている感、ペイジはギタリストでありながらかなりプロデューサー気質が強くて、フーコーはそのアプローチや扱った題材から哲学以外の領域にも広がりがある感。
まあ大体こんなところでしょうか。
ほんと驚くほどテキトーなわけですが、これ以外の対応関係は考えられません。
すると、三大ギタリストとは別に殿堂入り枠として、ジミヘンがいたよな。フーコー・ドゥルーズ・デリダにとってのジミヘンは誰だろうか。これハイデッガー以外ないっしょ、ジミヘンのハイデッガー感は結構すごい、やっぱジミヘン国歌とか弾いちゃうし、みたいな。もういい加減にします。当然、哲学者もギタリストもキャラクター消費なんてしょうもないことしてないで、読むべし・聴くべしです。ルソーのレポートを書いてきます。また今度。
