【老子とともに生きる】 第6回
第6章|谷神不死、是謂玄牝|静かに在り続けるものの強さ
燃え尽きる、という感覚がある。
頑張り続けた末に、ある日ふと気づく。なんか、もう何も出てこない。アイデアも、やる気も、言葉さえも。空っぽになった、という感じ。
そういう経験を持つ人は、おそらく少なくないと思う。仕事でも、子育てでも、何かに全力を注ぎ続けた末に「もう出てこない」という地点にたどり着く。乾いた雑巾をさらに絞ろうとしているような、あの感じ。
そのとき不思議なのは、「空っぽになった」と感じているのに、もっとやらなきゃという焦りだけが消えない。空なのに、重い。軽くなるはずの「空っぽ」が、こんなに苦しいのはなぜなのだろう。
老子はこの第6章で、まったく逆のことを言っている。
空っぽだからこそ、枯れない。
原文
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。
(書き下し文)
谷神は死せず。これを玄牝(げんぴん)という。玄牝の門、これを天地の根という。緜緜(めんめん)として存するが若く、これを用いても勤(つ)きず。
谷は、何も主張しない
谷というのは、空っぽだ。山と山のあいだにある、何もない場所。主張しない。誇らない。何かを蓄えようともしない。ただ、そこにある。
でも谷に向かって声を出せば、音が返ってくる。雨が降れば水が集まり、川になる。動物たちが集まり、植物が育ち、命が宿る。谷自身は何も「しよう」としていないのに、気づけば豊かさの源になっている。
それを老子は「谷神は死なない」と言う。主張しないから、消えない。奪われるものを持っていないから、枯れない。
前章のふいごの例と、まったく同じ話だ。「空であること」の豊かさというテーマが、第4章あたりからずっと続いている。老子はこのテーマを、少しずつ角度を変えながら繰り返している。しつこいくらいに。それだけ大事なことだ、と思っているのだろう。現代人に一番届きにくい話だから、良いことかもしれないが。
「玄牝」という言葉も面白い。「玄」は深くて暗くて、簡単には見えない何か。「牝」は雌、生み出す側、受け取る側のことだ。老子は道の本質を「母性的なもの」として描いている。積極的に何かを獲得しようとするのではなく、受け取り、受け止め、そこから静かに何かを生み出していく。そういうイメージだ。力、競争、功績を重んじる時代に、老子は「受け取る力」の話をしていた。
「細々と、しかし尽きない」
「緜緜として存するが若く、これを用いても尽きず」
緜緜(めんめん)というのは、細く、かすかに、というイメージだ。細い糸がずっと続いているような様子。あるんだかないんだかわからないくらい、ひっそりしている。でも使っても尽きない。
声が大きくて存在感がある人ほど、消耗が早い気がする。常に「見られること」「評価されること」を意識していると、それ自体がエネルギーを食う。疲れるということ。自分の存在を主張し続けるのは、思ったより重労働だ。
学校でも職場でも、いちばん目立っていた人が数年後には消えていて、目立たなかった人がなんとなく残っている、という場面に、生きているとちょくちょく出くわす。緜緜として——細くかすかに、でも尽きない。そういう在り方に、羨ましさを感じる自分がいる。
路地の古くから続く店がある。看板も古くて、インスタ映えとは無縁で、公式サイトもたぶんない。グルメサイトにも載っていないか、載っていても口コミが数件しかない。大きく宣伝しているわけでも、話題になっているわけでもない。でも気づくと、ずっとそこにある。
常連らしき人が入っていく。近所のおじさんが立ち寄って、二言三言しゃべって出ていく。それだけだ。店も特に何も主張していない。「ウチはこういう店です」と声高に言わない。ただ、毎日開いている。
一方で、鳴り物入りでオープンして、SNSでバズって、行列ができて——という店が、気づいたら閉まっていることがある。あれだけ騒がれていたのに、ある日シャッターが下りていて、貼り紙一枚。
この差は何なのだろう、と、ときどき思う。
「緜緜として存するが若く」。細くかすかに、でも尽きない。あの路地の店のことを思うと、この言葉がすっと入ってくる気がする。
「減らすこと」がわからない
現代は、増やすことの哲学が強い。知識を増やせ。スキルを増やせ。人脈を広げろ。昨日の自分より成長しろ。増やすことへの圧力は、あちこちにある。
そしてその圧力に乗っかって増やし続けた結果、「もう入らない」という状態になる。器がパンパンになって、それでもまだ詰め込もうとしている。それが燃え尽きの正体ではないかと思っている。
谷は何も詰め込もうとしていない。空であることを守っている。だからこそ、水が集まり、命が宿り、音が響く。
「何を手放すか」を考えることは、実は「何を大事にするか」を考えることと同じじゃないか、と最近ぼんやり思っている。捨てるのは物だけじゃなくて、「こうでなければならない」という思いや、「こう見られたい」という欲も、同じように詰まっている。そっちのほうが、片付けるのははるかに難しい。でも、そこを片付けないことには、器は永遠に満杯のままだ。
SNSで誰かの充実した投稿を見てざわつくのは、心が満杯になっているサインだと思う。そういうとき、この章のようなことを思い出す。音が響くのは、谷が空いているからだ。何かが入ってくるのも、スペースがあるからだ。詰め込まれた状態では、新しいものが入ってくる隙間がない。第3章で「心を虚しくして、腹を満たせ」と老子は言っていた。この章もまた、同じことを別の言葉で語っているのだと思う。
燃え尽きるのは、たぶん何かを必死に絞り出そうとしているからだ。谷は絞り出していない。ただ、空いているだけだ。主張しなくても消えない。むしろ主張しないからこそ、消えない。そういう在り方を「用之不勤」——使っても尽きない——と老子は呼んでいる。
「用之不勤」——使っても尽きない。それは、何かを絞り出そうとしていないからだと思う。ただ空いていれば、自然に何かが流れ込んでくる。そういうことなのだろう。
次の第7章は「天長地久(天地は長久なり)」という話になる。なぜ天地が長く続くのか。老子の答えは、天地が「自分のために生きていないから」だ。自分を前に出さないことが、かえって永続することになる——そのテーマは、この第6章とまっすぐつながっている。
