『鳳雛竜胆の花が咲く時』第7章 若君の急病
第7章
「1」未知の症状
昨夜、将軍の御子息が突然、泡を吹いて倒れた。 侍医たちは駆けつけたものの、原因は分からず、打つ手がなかった。
侍医は将軍家や高位武家を診るゆえ、扱う症例は限られる。 町方の多様な病に触れる機会が少ないため、未知の症状には脆かった。
一方、萬安堂には独自の資料室―― 知薬庵(ちらくあん) がある。
本草学の専門書
町医者から集めた膨大な診療記録
薬草園・薬獣園の日誌
江戸でも稀な“実地の知”が蓄積されていた。
その知見が、ついに幕府から求められたのである。
弥太郎はすぐに弥助へ指示した。
「必要なものをすべて揃えよ。急げ」
弥助は迷わず知薬庵へ向かい、薬種文庫頭・文香(ふみか)に声をかけた。
文香は記録を繰り、類似症例を探す。 やがて、一つの記録が見つかった。
完全一致ではない
だが似た症状
薬剤投与で快癒した
ただし患者は三歳の女児
今回は二十歳の若君
そして何より―― その時は、お蓮がいた。
症状の差異を見抜き、薬草の性質を嗅ぎ分け、 最適な処方を導き出したのは、あの異能の娘だった。
だが今、お蓮は牢にいる。
萬安堂の者たちは、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じていた。
「2」紫竜胆と伏龍百合
文香が静かに言った。
「紫竜胆(むらさきりんどう)と伏龍百合(ふくりゅうゆり)の事例がございます。 ただ、最後は……お蓮さんの鼻で決めてもらうしかありません」
弥助は深くうなずいた。
「承知しました。お城で、すりつぶして待ちましょう。お蓮さんが来るのを」
その頃、お蓮は牢で本草学の書を読みふけっていた。 外で何が起きているのか、知る由もないまま。
江戸城奥では、沈痛な面持ちの人々が集まっていた。 弥太郎、弥助、文香、長兵衛――萬安堂の面々もいた。
長兵衛は震えていた。
「お蓮が間に合わなければ、自分の鼻で決めるしかない……」
だが、あの異能の娘の代わりなど務まらない。 弥太郎と弥助が両脇から支えていた。
そこへ、お蓮が案内されてきた。
弥太郎が真っ先に言った。
「若君が急病だ。侍医も手が出ぬ。 お蓮さん……お前さんしかいない」
弥助も続けた。
「伏龍百合が良いのか確証が持てぬ。 お蓮さん、そなたの鼻で決めてくれ」
頼れるのは―― お蓮の嗅覚だけだった。
「3」鼻腔をくすぐる仄かに甘い香り
お蓮は蒼白になった。 将軍の御子息の命がかかっている。
震える指先を押さえ込み、腹を決めた。
弥助たちがすりつぶした紫竜胆と伏龍百合。 お蓮は配合比率を変えながら、ひとつひとつ匂いを確かめた。
探すのは――
紫竜胆を嗅いだあとにだけ立つ、仄かな甘みの香り。
やがて。
「あった……これだ」
伏龍百合。 間違いない。
だがその瞬間、お蓮の顔色が変わった。
「……困った」
極度の集中で嗅覚が弱り、 香りの濃淡が判別しづらくなっていた。
「鼻が……疲れている……」
そのとき。
文香の膝に、黒猫・墨乃(すみの)がふわりと飛び乗った。 尻尾をピンと立てる。
文香が叫んだ。
「お蓮さん、梅干し! 梅干しを思い出して!」
長兵衛も声を張り上げた。
「紀州の大粒の梅干しだ!」
お蓮は萬安堂の調理場で見た梅干しを思い出した。 じわりと唾液が滲む。
「……いける」
お蓮は最後の力で香りを嗅ぎ分けた。
「これだ。比率は……これでいける」
紫竜胆と伏龍百合をすりつぶし、ぬるま湯で溶く。 筆頭侍医が震える手で御子息に飲ませた。
長い、長い時間が過ぎた。
御子息のまぶたが、ゆっくりと開いた。
侍医が脈をとり、安堵の色が広がる。
「……助かった」
窮地を脱したのである。
「4」御台所の筆
御台所(みだいどころ)が静かに口を開いた。
「お蓮(はす)と申すか。何という奇遇であろう。 私は、愛用の筆――蓮花(れんか)で、息子の快癒を祈る詩を書いていたのだ」
差し出された紙には、端正な筆致で漢詩が記されていた。
コード
慈母悲聲夜不眠,
病兒呻吟涙滿巾。
筆端蓮影誠心託,
願賜神恩救我親。
【読み下し】
慈母の悲声、夜も眠れず、 病む子の呻吟に涙、巾(きん)に満つ。 筆端に蓮の影を託し、 願わくは神の恩を賜いて、我が親しき子を救いたまえ。
一同は顔を見合わせた。
“蓮”の名を持つ娘が、 “蓮花”の筆で書かれた祈りに応じるように現れ、若君を救った。
偶然にしては出来すぎている。 だが、誰も否定できなかった。
■ 文香の記録と、結ばれた縁
文香は静かに控えていた。 背後では文庫番たちが几帳面に筆を走らせている。
萬安堂に戻れば、 航路の風向きから若君の症状まで、 すべてを突き合わせ、完全な診療記録として知薬庵に収める。
薬種文庫頭・文香―― 時に“薬師如来”と呼ばれる知恵袋である。
御台所の詩が読み上げられた瞬間、 空気がわずかに震えたように感じられた。
蓮花の筆。 蓮の名を持つ娘。 若君の命を救ったその瞬間。
すべてが一本の糸で結ばれているように思えた。
文庫番たちが囁く。
「……この巡り合わせ、後の世に残すべきだな」 「蓮花の筆と蓮の娘。物語のようだが、現実だ」
文香は静かに頷いた。
「事実は、時に物語より深い意味を持つのです」
御台所はお蓮に目を向けた。
その眼差しは、母が子を見るように柔らかく、 しかし未来を見通す者の静かな強さを帯びていた。
「お蓮。そなたはまだ気づいておらぬかもしれぬが…… この出会いは、天が授けた縁であろう」
お蓮は深く頭を下げた。 胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。
