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2人目産んだら、愛は割れずに広がった

我が家には、もうすぐ4歳になる息子がいる。

彼が生まれたばかりの時から、私は可能ならもう1人子どもがほしいと思い続けてきた。私自身が、きょうだいがいたおかげで人生が楽しくなったと思っているからだ。

それから、運良く2人目を授かることができた。妊娠期間を経て、徐々に大きくなるお腹や、白黒のエコー写真を眺めながら、ぼんやりと思ったことがある。

「子ども2人という状況で、自分は器用に、均等に愛情を注ぎ続けることができるのだろうか」

4歳の息子は、それはそれはかわいい。現在はプチ反抗期であるものの、生まれてから今日までかわいさを更新し続けている。以下はかわいさの一例です。 

・泥棒のことを「どぼろう」と言う
・強さの最上級を「力持ち」だと思っているので戦いごっこの必殺技で「力持ち!」と叫ぶ
・ご飯を食べ終えた後「僕、どんどん大きくなってる!」と即効性を感じている

かわいさ、止まることを知らなすぎ。このとどまらなさはちょうどTomorrow never knowsの歌い出しと互角

そんな"絶対的エース"が家庭にいながらにして、ここに赤ちゃんが加わる。私は2人を分け隔てなく、今と同じように、要領よく愛することができるのだろうか。

私の脳内イメージでは、人間が同時に注ぐことのできる愛情の総量は決まっている。いま1人目に注いでいる愛情を分割して2人に注ぐことになるので、子どもたちが物足りなさを感じるようになるのではないか。世の中のみなさんは器用なので、その総量をうまく分配して子どもたちを育てているが、私は器用なほうではないから、どうしても赤ちゃんにばかり愛情が偏ったり、逆に上の子ばかりに愛を注いだりして、結局2人とも中途半端になってしまう気がする。

それによって、嫉妬心で不安定になったり、承認欲求が満たされなくなったりしたら、それはとても可哀想なことではないか。

2人目を産むというのはまぎれもなく自分が望んだことなのだけど、かなり未知だし、本当にやっていけるのか怖くもなってきた。

私の中で楽しみな気持ちと不安な気持ちがないまぜになったまま、あっという間に妊娠38週を迎えた。

1.突然の破水

1人目を緊急帝王切開で産んだハイリスク妊婦のため、今回は大学病院での帝王切開を予定していた。病院のルール上、小学生以下の子は面会が禁じられているので、入院したらしばらく4歳の子に会うことはできない。

2日後に入院が迫る中、寝かしつけをしてそのまま寝落ちしていると、なんか股からすごい勢いでめちゃくちゃ水みたいなものが出てくることに気づいてあわてて目を覚ました。

これは何?

これはもしかして………

破水!!!!?!?!?

ティ〜リ〜リ〜   ビリビリビリ!キュイイイーーーン (LOVE PHANTOMのイントロが流れる)

パチンコだったら確定演出が出ているほどに破水!!!

股の水が止まらないのでバスタオルを当てながら隣の部屋にいる夫を呼び出す。ふたりで一通りあたふたしたあと、とりあえず病院に電話をかけることにする。3コールほどでつながった。

電話口の女性はとても丁寧に今の状況を聞き取ってくれた。少しの保留音のあとに、「入院の準備をしてすぐに来てください」と言われる。

身支度を済ませ、心の準備をする間もないままにあれよあれよとタクシーに乗り込んだ。本当なら、上の子に入院でしばらく会えないことをしっかり伝えてから家を出るつもりだったのに、深夜を回っていることもありそれはかなわなかった。

病院へ着き、薄暗い夜間通用口から中へ入る。着替えや諸々の検査を行ったあと、ベッドで横になる私のもとに医師がやってきた。

「2時から手術を開始します」

現在時刻、1:30。30分後には麻酔を入れて腹を切る。そんで、子供が産まれる。めちゃくちゃ、急。ほんの数時間前に上の子の「おしりプリプリダンス」を見ていたのが遠い昔のことのように感じる。

着替えたり、点滴を入れたり、緊急手術となったため何種類かの同意書へサインをしたりと、分単位のスケジュールで着々と手術への準備が進んでいく。大学病院というだけあって、今日手術を担当する医師数名が入れ替わりに挨拶に来る。麻酔医の●●です、助産師の●●です。

私は居酒屋で鮮魚盛り合わせを頼んだ時に店員さんが「右から真鯛、ぶり、えんがわ、赤貝、中トロです」みたいに説明してくれる刺身の種類を言われたそばから忘れていき説明が終わった時には一個も覚えていられない人間のため、当然ながら医師たちの名前も同じ要領で聞いたそばから忘れていってしまう。相関図とかを書いて渡してくれないとマジで把握できない。こんな深夜に手術の対応をしてくれる人たちだというのに大変申し訳ございません、と心の中で土下座をする。

時間になり、寝ているベッドごとガラガラと押されて手術室へと移動する。大人たちの手によって私は手術台へと移され、背中から麻酔を入れる。それから、目の前が青っぽい布で覆われた。

「それでは切っていきますねー」

いよいよ、お腹にメスが入る。硬膜外麻酔をしているのでお腹が触られる感覚を遠くに感じるが、痛みはない。

睡魔に耐えながら過ごすこと約2時間後。

「もうすぐ赤ちゃん出ますからねー」

そう声をかけられるとお腹を引っ張る感覚が激しくなる。私のお腹のボルテージが最高潮に達した瞬間「オンギャア、オンギャア」と、産声の素材音源かと思うほどお手本のような元気な産声が聞こえてきた。

2.赤ちゃんとの邂逅~強くてニューゲームの開始~

手術が終わったのは朝4時過ぎ。すでに窓の外はほんのりと明るくなっていて、とんでもない眠気から、私は気絶するようにすぐに眠りについた。

次に目を開けたのは、病室に助産師さんが来たタイミングだった。点滴の減り方を見たり、お腹の傷を確認してくれる。

「赤ちゃん元気ですよ。連れて来ますか?」

そう言ってくれるのでお願いすると、赤ちゃんが部屋に入ってきた。

ピカァーーーーン!!!!!

ウワァァァァァ!!!!!!!!!!!!

まぶしすぎる!!!!!!!!!!致死量の輝き!!!!!!!!

まだ術後の腹が痛いながらも、可動式のベッドの背もたれを上げて、腕の中に赤ちゃんを入れてもらった。

4年ぶりに抱っこする新生児は、あまりに軽くて、小さくて、やわらかくてまぶしくて、その姿を見ているだけで涙が出てきた。目の前には2人目の子がいるはずなのに、なぜか1人目のことを思い出した。こんな小さかったんだよなぁ。いっぱいがんばって大きくなったんだよな。比喩じゃなくて、本当に、尊さで計12回くらい泣いた。

それから歩く練習を何度かして、貧血で倒れそうになりながらも服薬やリハビリを経てなんとか自力でトイレまで行けるようになった頃、部屋での赤ちゃんのお世話が始まった。

まっさらな赤ちゃんは、目を閉じて、ただ一生懸命私の腕の中で息を吸って吐いている。無垢すぎる。この子はまだ何も知らないのだ。ここがどこなのか、自分の身にいったい何が起こってるのか、なにもわからない。ただお腹が空いて嫌な感じがするから泣いて、なんだかわからないけどなにかを飲まされたらそれが落ち着いて、すると眠くなって、またお腹が空いて泣く、というのをひたすら繰り返している。それをおさめている私が母だということも知らないし、この場所が病院だということもわかっていない。夜が来て朝が来ることも、この外に広い世界があることも知らない。サイゼリヤの企業努力とかも知らない。

ずっと見ていられる。守るべき存在すぎる。そして私は気づいた。驚くべきことに、第一子の時に感じていた「いきなり母親としての正解が求められることへの不安」や「泣いたら次の対応がはじまってしまうから泣かないでくれと願う時間」みたいな後ろ暗い気持ちが、今回はまったくない。

ひたすらに、赤ちゃん、かわいい!!!!最高〜〜〜!!!ヒューーーーー!!!!!!という感情しかない。打ち上げ花火を見て暗い気持ちになる人などほとんどいないように私にとってこのとき新生児はほぼ花火だった。毎秒かわいさという名の10尺玉が打ち上がっている。うんちすらかわいい。かわいいだけじゃだめですか?という現代におけるもっとも難解な問いへの答えはこの状況においては「いいよ!」の一択となる。

寝ていた赤ちゃんがホニャ…ホニャ…と泣くと、本物の新生児の泣き声だ!とうれしさすら感じてしまう。もう少し聞かせていただいてもよろしいでしょうか?と耳を澄ませて堪能しつつ、泣き姿を動画に収める余裕すらある。

産む前までは、「これまで4年間積み重ねてきたことをまた1から始めるのか……」とめんどくささを感じる部分もなくはなかったが、それは大きな誤解だった。1から始まるなんてことはない。すでに4歳まで育てた経験値を持った状態で、改めてかわいい赤ちゃんの育成を始められるのだ。前回うまくできなかったことが、かなり手際良く、上手にできるようになっている。まさに、強くてニューゲーム。

オムツを替えるのも、ミルクをあげるのも、なにひとつとして不安がない。全部、やり方がわかるからだ。私の中の不安や心配な気持ちはふるいにかけられ、残るのは多幸感のみ。なにこれ。自分の子っていうか孫に近い。早くも孫が生まれたときの擬似体験をさせていただきありがとうございます。

そんな風に、ほとんど辛さを感じることのないまま入院期間を終え、ついに退院日を迎えた。

3.きょうだいのはじまりと愛の拡張

夫が病院まで迎えにきてくれて、3人で帰路に着いた。

夕方、保育園に行っていた4歳の息子が、迎えに行った夫と共に家へと帰ってきた。赤ちゃんは布団の上で寝息を立てている。いよいよ対面のときを迎えることに、私は緊張していた。愛をちゃんと分配できますように、と心のなかで祈った。

上の子が部屋に入ってきて、まず私は力いっぱい彼をハグした。1週間会えなかったことなんて初めてだったから、さぞ寂しかっただろうと思ったのだ。

驚いたのは、あんなにまだまだ小さいと思っていた子どもが、新生児に目を慣らされるととんでもないデカさに見えるということだ。4歳、デカすぎる。バオバブの木くらいデカい。

もっと感動の再会的になるかと思っていたのに、4歳は意外にもあっさりと体を離し「赤ちゃんは?」と私に聞いた。寝室にいることを伝えると、笑顔のような泣き顔のような複雑な表情で、部屋へと向かう。

息子は遠巻きに赤ちゃんを見ると、小さな声で
「赤ちゃんだ……」
とつぶやいた。

夫から「手を洗っておいで」と促されると、いつもはいやだいやだと言ってソファに寝転がったり、おもちゃ箱の方へ行ってしまうのに、この日は何も言わずにうなずいて素直に洗面所で手を洗い、トトトとまた同じ場所に戻ってきた。

「ほら、お兄ちゃんだよーって挨拶してごらん」

そう促すと、これまでに聞いたことのない小さくて優しい声で「はじめまして」とつぶやいた。

「いいこいいこ、ってしていい?」

囁くような声でそう聞くので「もちろんいいよ」と伝えると、恐る恐る頭に触れる。まだまだ小さいと感じていたはずの手は、赤ちゃんの頭の上に乗ると、とてもたくましく見えた。

次第に「抱っこしていい?」「ミルクあげていい?」と、積極的にかかわりたがるようになった。赤ちゃんが泣いたときには誰よりも早くかけつけて、「僕が面白い顔してあげるね!」と渾身の変顔で泣き止ませようと尽力していた。赤ちゃんはきょとんとして、天井を見たり壁を見たり、時折兄の方を見たりしている。私はそんな2人の姿を、愛の総量とかそんな小賢しいことを抜きにして、心底愛おしいと思いながら眺めていた。

それからというもの、4歳の子は毎日保育園から帰ってくると、手を洗ってまっさきに赤ちゃんのもとへと駆け寄るようになった。

「かわいすぎる〜!」
「泣き止んだの〜!えらいねえ」
「大好きよ」

頭を撫でたり、頭にキスをしたりしながら、いつも高い声をさらに高くして優しく語りかける。

その4歳がかける「かわいすぎる」も、「偉いね」も、「大好きよ」も、そのどれもが私がこれまで彼にかけてきた言葉なのだった。それを赤ちゃんに向けている姿を見ると、これまで私が注いだ愛は途切れることなく、今度は4歳から赤ちゃんへ向かうのか、と胸を打たれた。愛情が循環していくなんて、考えもしなかった。

生まれたての赤ちゃんは、まだ何も知らない。でも35年も生きてきた私も、まだ全然知らないことばっかりだった。

2人目が生まれると、上の子への気持ちまで特大になること。上の子が、赤ちゃんをかわいがるときに聞いたことのないような優しい声を出すこと。まだ出会って少ししか経っていない2人なのに、4歳にとって赤ちゃんは特別な存在になっていること。そしてきっと、赤ちゃんにとってもこれからどんどん特別な存在になっていくこと。

愛の総量は分散されるんじゃないかと思っていた。けど、違った。2人目を産んだと同時に私の中にある愛情を溜めておくタンクの容量が増えて、そこから取り出せる愛も自動的に2倍になった。いや、2倍どころではないかもしれない。だって0歳を見ていると、4歳の子にもこんな時期があったなと姿を重ねて2人ともいっぺんに愛しくなるし、4歳の子を見ていると、こんなにあっという間に大きくなっていくから、毎日を大切に過ごそうと襟を正したくなる。分散どころか増えすぎて、心が忙しい。愛しさがキャパを超えてバグを起こしかけている。世界の見え方が違う。これまで地デジで見ていた愛がいきなりIMAX上映になったような感じだ。

脳みそで考えなくたって、2人を見ていたら我慢しようとしたって無駄なくらい、制御不能の愛しさで胸が一杯になるのだった。ただ、両手に収まらないくらいの幸せがそこにあって、それを全身で浴びることしかできないのだ。

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しりひとみ ありがとうイン・ザ・スカイ