濃墨筆
香典袋の表書きは、薄墨で書く。
悲しみの涙で墨が薄まった、という意味だと、新人の頃に総務の先輩から教わった。私はその薄墨の筆ペンを、二十年、切らしたことがない。
夜九時の総務フロアには、私のデスクの明かりだけが残っている。来週の監査に備えて、各部署から集めた書類の不備をひとつずつ潰していく。押印漏れ、日付の齟齬、添付のない稟議書。人の尻ぬぐいだと思ったことはない。ここを通れば大丈夫、という関所でいることが、私の仕事だった。
内線が鳴った。営業部長からだ。
「栗原さん、明日の葬儀の件、香典まとめてもらえるかな。君に頼めば間違いないから」
「袋はもう用意してあります。お名前だけ、朝いちで確認させてください」
受話器を置いて、デスクのいちばん下の引き出しを開ける。祝儀袋と不祝儀袋が、用途別にきっちり束になって並んでいる。結び切り、蝶結び、蓮の柄、無地。どんな知らせが来ても、その日のうちに包める。
教えてくれたのは、もう退職した田島さんだ。
「総務はね、会社の冠婚葬祭係も兼ねてるのよ。人の一大事に、まごつかない人でいなさい」
その言いつけを、私は二十年守ってきた。若い子には「課長の引き出し、コンビニより品揃えいいですよね」と笑われる。そうかもしれない。誰かの人生に何かが起きるたび、私はこの引き出しを開けてきた。
四十四歳になった。独身で、子どもはいない。
この二十数年、飲み会はほぼ全部出た。歓迎会、送別会、決起会、名前のつかない愚痴の会。幹事を数えたら三桁になると思う。同期の結婚式では三回スピーチをして、二次会の受付も引き受けた。終電で帰り、始発に近い電車で出てくる時期もあった。
実家の母は、電話のたびに同じところで黙る。
「仕事が忙しいのはいいけど、あんたはいつ、自分の」
その先を言わせないように、私はいつも監査だの決算だのの話をかぶせた。嘘はひとつもない。ただ、順番を後ろに送り続けていただけだ。
三十四のとき、出張先の金沢で、世話になっていた取引先の部長に手を握られたことがある。ホテルのバーで、二軒目だった。妻とはうまくいっていない、君みたいな人が隣にいてくれたら、と、そういう筋書きの話をされた。
私は手をほどいて、先に伝票を取った。
「明日の商談、いいものにしましょう。私、そのために来たので」
彼はばつが悪そうに笑い、翌日の商談は過去最高の条件でまとまった。数年後、彼が再婚したと聞いたとき、私はいつもの引き出しから結び切りの袋を出して、贈り主の欄に自分の名前を書いた。
筆ペンの先が少し震えた気もしたが、字は崩れなかった。私の字は、こういうとき崩れない。
そういうふうに、生きてきた。役員に「栗原さんがいないと、この会社は回らないよ」と言われるたび、悪い気はしなかった。それは事実だったし、事実であるように、私が自分を作ってきたからだ。
翌朝、朝いちで香典の袋を営業部に渡した。それと入れ替わるように、育休明けの真帆がフロアに戻ってきた。
一年ぶりのフロアで、彼女は少し痩せて、そのぶん顔つきはやわらかくなっていた。挨拶回りの最後に私の席へ来て、深く頭を下げる。
「課長、ありがとうございました」
引き継ぎのお礼だろうと思い、いいのよ、と言いかけた私に、真帆は続けた。
「課長がいてくれたから、私、安心して産めたんです。休んでるあいだ、仕事のこと一回も不安にならなかった。こんな職場ないよって、夫にも言われました。二人目も、ここでなら考えられます」
嬉しかった。声が出ないくらい、嬉しかった。
「私がいないと回らない」と言われるのとは、まったく別の場所を撃ち抜かれた気がした。私は誰かが人生を進めるための、地面になれていたのだ。
真帆が席に戻ったあと、私は無意識に、いちばん下の引き出しを開けていた。
束になった袋を、初めて数えるような目で見た。
結婚祝いに、出産祝い。快気祝いに、香典。この二十年、ここから出ていった袋はすべて、誰かの人生の節目に宛てられていた。筆を執るのはいつも私で、袋に私の名前が入るとしても、それはいつだって「贈る側」の欄だった。
私宛の袋を、この引き出しから出したことは、一度もない。
出す用事が、なかったからだ。
地面は、誰かに踏まれてはじめて地面になる。それを誇りに思う気持ちと、踏まれた回数だけ自分の節目を後回しにしてきた事実とが、同じ引き出しの中で、きっちり束になって並んでいた。
夕方、真帆がもう一度、私の席に来た。小さな紙袋を差し出してくる。
「内祝いです。遅くなっちゃったんですけど、課長には手渡ししたくて」
のし紙には、赤ちゃんの名前。そして紙袋には小さな封筒が添えられていて、その表に、宛名として私の名前が書かれていた。
自分の名前が、書く側ではなく書かれる側にあるのを見るのは、ずいぶん久しぶりだった。
封筒の中のカードには、丸い字でこうあった。
「課長の番のときは、私がいちばんに包みます。順番、まだ終わってないですからね」
順番、という言葉を、私は口の中でしばらく転がした。とっくに降りたと思っていた列に、まだ並んでいることになっているらしい。おかしくて、少しだけ目の奥が熱くなって、「気が早いわよ」とだけ返した。
帰り道、駅前の文具店に寄った。
いつもの薄墨の筆ペンの隣に、濃い墨の筆ペンが並んでいた。慶事用の、いちばん上等なやつ。
一本、買った。
慶事の墨が濃いのは、嬉し涙では薄まらないからだ。誰かに教わったのではない意味を、私ははじめて、自分でひとつ作った。
誰のために使うのかは、まだ決めていない。
