SNSの守護天使:第2章1節
偽りの後光

“False Halo”
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1986-02-14T10:00:00-05:00施設育ちのジョン・マーカスには、幼い頃の記憶がほとんどない。だが、一つだけ鮮明に覚えているものがある。
柔らかな光が差し込む部屋の中、彼は小さな揺りかごの中で泣いていた。次の瞬間、温かい腕が彼を抱き上げた。

「はいはい、天使ちゃん、泣かないの。いい子ね…そう、ママがいるからね……」
その声は穏やかで、優しい微笑みとともに自分を包み込んだ。母の顔はくっきりと脳裏に浮かぶ。美しい髪と柔らかい瞳。そして、その瞳の奥には、自分への深い愛情が確かに宿っていた。
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2001-06-30T10:00:00-04:00その記憶は、彼が施設で過ごしたどんな孤独な日々よりも鮮明だった。だからこそ、彼は信じていた。母にはどうしようもない理由があって、自分を手放すしかなかったのだと。
彼はいつも祈った。母がどこかで幸せに生きているようにと。そして、自分が"いい子"であり続ければ、いつかまた会えるのだと信じていた。
施設の中で、マーカスは他の子供たちとは違っていた。無邪気に遊ぶことよりも、本を読み、勉強をして、自分を磨くことを選んだ。母に胸を張って会える日が来たとき、彼は"誇れる息子"でいたかったのだ。
けれど、時間が経つにつれて、母の記憶はただの幻想なのではないかという疑念が少しずつ心に芽生えた。それでも彼は、その記憶を心の支えとして生きてきた。
「母さん……僕は、天使のままでいられるだろうか?」
誰にともなく呟いたその言葉は、冷たい施設の空間に消えていった。
施設での生活は決して楽ではなかったが、マーカスは"いい子であること"を自分に課し、それを守り続けた。他の子供たちが遊ぶ中、彼は本に向かい合い、授業の先を独学で進めるような少年だった。
彼の才能が開花したのは、中学のプログラミング授業だった。コードを打ち込み、それが命令通りに動く瞬間。その正確さと論理の美しさが、ジョンの心を掴んだ。
「この感覚……なんて素晴らしいんだ」
教師もすぐに彼の才能に気づいた。普通の課題では彼を満足させられず、さらに難しい課題を特別に用意するほどだった。そして、ある日の放課後、教師が一枚のパンフレットを差し出した。
「ジョン、これを見てごらん」
そこに記されていたのは、地方自治体とデトロイト技術大学が共催する"フューチャー・イノベーターズ・コーディング・カップ"と銘打たれたプログラミングコンテストの案内だった。最優秀賞者にはかなり高額な賞金も出るらしかった。
「先生、これって…?」
「君ならきっと素晴らしい結果を残せる。挑戦してみないか?」
マーカスはパンフレットをじっと見つめた。そして、小さく息をつきながら答えた。
「……僕にできるでしょうか?」
教師はにっこりと微笑み、力強く頷いた。
「もちろんだとも。君は自分が思っている以上に大きな力を持っているよ」
その夜、施設の小さな部屋で一人、マーカスはパンフレットを見つめながら考えた。母の記憶がふと浮かび上がる。いつか、自分が誇れる姿になった時、彼女が微笑んでくれるだろうか──そんな思いが胸の中で静かに広がった。
「──やってみます」
そう呟いた彼の瞳には、強い決意の光が宿っていた。
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2001-07-20T10:00:00-04:00数週間後、デトロイト技術大学のホールにて──
マーカスは施設の支援スタッフに送迎され、会場に到着した。普段の静かな日常とはまるで異なる、大勢の観客と参加者の熱気がホール内を満たしている。
自分の小ささを感じるような雰囲気に圧倒されながらも、マーカスはそっと拳を握りしめた。
「自信作なんだ。プレゼンで大失敗しなければ大丈夫なはずだ……」
自分にそう言い聞かせながら、彼はエントリーナンバーが書かれた胸のバッジを確認し、発表順を待った。
マーカスの順番が回ってきた。緊張した面持ちで壇上に立つと、観客の視線が一斉に彼に向けられる。
一瞬、言葉が詰まったが、深呼吸をして心を落ち着けた。
「こんにちは。僕の名前はジョン・マーカスです。今日は、僕が作った"AI学習アシスタント"についてご紹介します」
彼が開発したアプリケーションは、施設での自分の経験をもとに作られたものだった。
限られた教育資源の中で、子供たちが自分のペースで学び、成長できる環境を作りたい。その想いが形となったのだ。
「このアプリは質問を入力すると、それに応じた解説や動画を提示します。また、個々の進捗を記録して、苦手分野を分析し、学び方を提案します」
マーカスは実際のデモを交えながら、機能を丁寧に説明した。会場のスクリーンに映し出されたアプリの画面が、観客の興味を引きつける。
説明を終えた後、マーカスは深く一礼した。
「このアプリが、僕のように教育を必要としている子供たちの助けになればと思っています」
会場は一瞬の静寂の後、大きな拍手に包まれた。
全ての発表が終わり、ついに結果発表の時間が訪れた。壇上に立つ審査委員長がマイクを手にし、緊張感がホール全体を包む。
「最優秀賞は──ジョン・マーカス君です!」
その瞬間、会場中が歓声と拍手に包まれた。マーカスは目を見開き、自分が呼ばれたことに一瞬気づけなかった。隣にいたスタッフが肩を軽く叩いてくれ、彼はようやく壇上に向かった。
「ジョン君のアプリケーションは、技術的な完成度はもちろん、社会的意義の高さが審査員全員を感動させました」
トロフィーと賞金、副賞の最新パソコンの目録が手渡されると、マーカスは小さく深呼吸し、マイクを握った。

「僕がこのアプリを作った理由は、自分が施設で育つ中で感じたことを形にしたかったからです。学ぶチャンスを平等にしたい。それが、僕の願いです」
一瞬、視線を落とし、少し震える声で続けた。
「僕には、母の記憶がほとんどありません。でも……もしどこかでこのニュースを見て、僕を誇らしいと思ってくれるなら、それが何よりの喜びです」
その言葉に会場は一瞬静まり返り、次の瞬間、大きな拍手が沸き起こった。彼の発言は観客の心を掴み、審査員たちも温かな眼差しを彼に向けた。
受賞後、控え室で支援スタッフと話すマーカスは、決意したように口を開いた。
「賞金は、施設のために寄付します。それが母さんにとっての"誇れる息子の行い"だと思いますから」
その純粋な言葉に、スタッフは涙ぐみながら微笑んだ。
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2001-07-27T20:00:00-04:00地方紙やローカルニュースで、"施設出身の天才少年がプログラミングコンテストで優勝"という記事が大々的に報じられた。記事には、マーカスが開発したAI学習アシスタントの社会的意義やコンテストでのプレゼンの様子が詳しく書かれている。
【施設育ちというハンディキャップを乗り越えた彼の努力に、会場は拍手喝采を送った──】
記事にはそんな一文が添えられ、彼の受賞が大きな話題となっていた。
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2001-08-30T20:00:00-04:00約1ヶ月後、コンテスト副賞のパソコンに一通のメールが届いた。
件名はシンプルに【あなたの母です】
マーカスはメールボックスの画面を見つめ、眉をひそめた。
「またスパムメールか……」
つぶやきながらも、何かが彼の手を止めた。
メールを開くと、短いメッセージと一枚の写真が添付されていた。
件名:あなたの母です
ジョン、私の天使。
あなたの成功をニュースで見ました。
ずっとあなたを探していました。
どうか私に会ってくれませんか。
*添付ファイル: photo.jpg*【ジョン、私の天使。あなたの成功をニュースで見ました。ずっとあなたを探していました。どうか私に会ってくれませんか】
【私の天使】そのフレーズにマーカスの記憶が揺り起こされる。
「はいはい、天使ちゃん、泣かないの。いい子ね…そう、ママがいるからね……」
さらに添付された写真に目を向けた瞬間、彼の胸が高鳴った。
それは、生後間もない頃の赤ん坊が揺りかごの中で眠る姿。その写真に映る赤ん坊の耳たぶにはっきりとほくろが見える。
マーカスは無意識に自分の耳に触れた。間違いない──この赤ん坊は自分だ。
マーカスは2歳半で施設に引き取られた。自分の赤ん坊時代を写した写真が存在していたこと自体、驚きだった。
「母さん……これを撮ったのがあなたなんだね」
その夜、マーカスは胸を高鳴らせながらベッドに横たわった。記憶の中の母親の姿を反芻し、彼女に会える日を心待ちにした。
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2001-09-09T16:00:00-04:00訪問の約束の日の夕刻、マーカスは何も告げず施設を出た。ポケットには、住所の書かれた紙をしっかりと握りしめている。
「母さんに会ったら、どんな話をしよう?」
バスに乗り込み、ポケットの中の紙を何度も確かめる。外の景色が少しずつ変わっていくのを感じながら、彼の心は期待と不安で揺れていた。
やがて、街並みが荒れ果てた景色に変わっていく。道ばたにはゴミ袋が散乱し、ところどころに壊れた街灯が突き刺さるように立っている。
バスを降りた瞬間、マーカスは周囲の雰囲気に息を呑んだ。
辺りには、崩れかけた建物や落書きだらけの壁が立ち並んでいる。路地の隅には中毒者とおぼしき男が座り込み、うつろな目で虚空を見つめている。遠くからは犬の吠える声と、何かが割れる音がかすかに聞こえてきた。
「……本当に母さんがこんな場所に?」
歩くたびに足元の空き缶が転がり、どこからか漂う刺激臭が鼻をつく。治安の悪さを物語るように、向かいのアパートの窓には鉄格子が取り付けられている。通りすがりの若者たちが不審な視線を投げかけてきたが、マーカスは足を止めずに進んだ。
指定された住所のアパートに着いた時、彼は立ち止まった。壁には大きなひびが走り、ドアのペンキは剥げ落ち、錆びた番号プレートだけがかろうじて住所を示している。
「ここが……母さんの家?」
深呼吸をして、震える指でドアベルを押した。中から足音が聞こえ、やがて重い錠が外れる音がした。扉がギギッと音を立てて開くと、中から現れたのはマーカスの記憶にある母とはまるで違う女性だった。
髪は乱れ、ぼさぼさで、色褪せた古いセーターを羽織っている。顔には疲労と不健康さが滲み出ており、アルコールの匂いが微かに漂っていた。目元には濃いクマがあり、その視線はどこか冷たい。

「ジョン……?」
女はマーカスを見ると、にやりと薄く笑った。
「ずいぶん大きくなったわね。さあ、入りなさいよ」
マーカスが部屋に足を踏み入れると、カビ臭さと酒の匂いが鼻を突いた。床にはゴミ袋が散乱し、古びた家具はほこりをかぶっている。壁にはいくつものシミが広がり、空気そのものが湿っぽい。
「まぁ、散らかってるけど座りなよ」
女は慣れた様子で酒瓶を手に取りながらソファに腰を下ろした。その動きでソファがギシリと音を立てる。マーカスは少し戸惑いながらも、古びた椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「ねえ、ジョン。立派になったわねぇ」
女は煙草に火をつけ、しばらく煙を吸い込んでから吐き出した。
その言葉にマーカスは一瞬固まり、思わず相手の顔を見つめた。
「母さん……なんですか?」
女は短く笑った。
「そう、私があなたの母さんよ。あんたのことはちゃんと覚えてるわ。ほら、これ」
女はテーブルの上にあった古い写真を手に取り、マーカスに差し出した。そこには、生まれたばかりの赤ん坊が写っていた。メールに添付されていた写真だ。
「ほら、この耳たぶのほくろ。あんたでしょ?」
写真を受け取ったマーカスは、無意識に自分の耳に手をやった。
「本当に……母さんなんですね………」
女は微笑みながら頷き、酒を一口飲んだ。
「ええ、そうよ。大変だったのよ。いろんなことがあってね。でこうしてあんたに会えてよかったわ」
マーカスは胸を熱くしながら答えた。
「僕も……母さんに会えて嬉しいです」
女は酒瓶を手に取り、乱暴にコップに注いだ。透明な液体がコップの縁をこぼれるが、気にする様子もない。
「それでさ、ジョン……ニュースで見たけど、あんた、すごい賞金をもらったんだって?」
女は酒瓶を傾けながら、何気ない口調で言った。
「ええ…でも、あのお金は寄付しました」
その言葉を聞いた、女の表情が凍りついた。
「……は?」
低い声で繰り返した後、女は酒瓶をテーブルに乱暴に置き、じっとマーカスを睨んだ。
「なんでそんなことしたのよ!」
声が急に鋭くなり、女の目には怒りが浮かんでいる。
「僕にとって、それが正しいことだと思ったんです」
マーカスは怯えながらも、必死に自分の行動を説明しようとした。
「正しいこと?あんた、自分が偉いと思ってるの?」
女は立ち上がり、荒々しく部屋の中を歩き回った。
「私がどんな思いであんたを産んだと思ってる?苦労して、どん底の生活から這い上がろうとして……やっと会えたっていうのに、このザマか!」
「母さん……」
マーカスは、目の前の女性が自分の記憶の中の"優しい母親"とは全く違う姿を見せていることに、言葉を失っていた。
女は再び酒を飲み干し、乾いた笑いを浮かべながら言った。
「あんた、ずっといい子ぶってたんだろうねぇ。天使ちゃん気取りでさ」
「……母さんが言ってくれたんじゃないか!"天使ちゃん"って!メールにも書いてたろ?」
マーカスは震える声で言い返した。その声には、これまで支えとしてきた記憶が崩れかけていることへの必死の抵抗が滲んでいた。
その言葉を聞いた女は一瞬、何かを思い出したように目を細めた。そして、狂ったように笑い出した。
「何がおかしいんだよ?」
女は笑いを止めると、じっとマーカスを見据え、冷たく言った。
「いいかい?"天使ちゃん"ってのはね、あの売春宿の商売女たちのガキを意味する隠語さ」
マーカスは目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。
「……なんだって?」
「あんたを"天使ちゃん"って呼んでたのは、あの店の世話係の女だろ?私らが客を取ってる間、ぐずるガキどもを黙らせるための決まり文句だったのさ。父親のわからないガキを“天使ちゃん”とは……上手いこと言うよね、ホントに」
女はニヤリと笑い、吐き捨てるように続けた。
「それを真に受けてたなんて、めでたいねえ」
その言葉は、マーカスの中にあった最後の希望を粉々に砕いた。
「じゃあ……あの優しい声も、あの記憶も…全部嘘だったのか……?」
マーカスは立ち上がり、拳を震わせながら女を見据えた。
「嘘?あんたが勝手に勘違いしてただけだろう?」
女はテーブルの上の灰皿から、まだ吸える吸い殻を探りながら、面倒くさそうに答えた。
その瞬間、マーカスの拳がテーブルに叩きつけられる。灰皿がひっくり返り、灰が舞う。
「母さん……なんでそんなこと言うんだ!僕は…母さんが誇れるような正しい生き方を……!」
だが、女は全く怯えることなく、逆に小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「正しく?正しく生きた?……その結果がこれだよ。あんたの金は他人にくれてやって、母親の私には何一つ残らない」
女の冷たい言葉が、マーカスの胸を鋭く抉った。
その瞬間、マーカスの胸に湧き上がったのは、これまで感じたことのない冷たくどす黒い怒り──"殺意"だった。
「……母さん、やめてくれ…」
マーカスの声は震えていた。女は嘲笑するように薄く笑い、さらに言葉を重ねた。
「やめて?やめるも何も、これが現実だよ、ジョン。あんたが天使気取りでいる間に、私はどれだけ苦労したと思ってるんだ!」
その瞬間、マーカスの中で何かが弾けた。

「黙れ!!」
叫び声は部屋中に響き渡り、女は一瞬怯えたように目を見開いた。
女は慌てて後ずさりし、両手を差し出して懇願するように言った。
「ちょっと待て!何をする気だい?私はあんたの母親なんだよ!」
「母親だと?……僕を捨てたのにか!」
マーカスは足を一歩踏み出しながら叫んだ。その声は、怒りと絶望に満ちていた。
女は崩れるように膝をつき、泣きながら手を合わせた。
「ごめん…本当にごめん……!でも、私にはどうしようもなかったんだよ……あんたを育てる余裕なんてなかったんだ!」
その言葉が耳に届いた瞬間、マーカスの中で"何か"がプツンと音を立てて切れた。
これまで信じてきたもの、正しいと思ってきたもの、自分を支えていたすべて──それが音を立てて崩れていくのがわかった。
記憶の中で美しく輝いていた"母親"の像が、無残に壊れていく。
優しかった声は嘘だった。微笑みも愛情も、すべてが幻想に過ぎなかった。
「正しく生きようとしたのに……」
自分の声が、どこか遠くで響いているように聞こえた。
次の瞬間、マーカスは母に向かって一歩近づいた。彼女は泣きながら命乞いを続けた。

「ひい……許してくれ!私はあんたを愛してる、信じてほしいんだ!」
だがマーカスの目には、彼女の姿がもはや見えていなかった。
崩壊した心が怒りと絶望で埋め尽くされる中、彼の動作は機械的だった。震える手がゆっくりと何かを掴み、彼の中にはただひとつの思いだけが残った。
部屋の中で何かが倒れる音が響いた。
その後に続くのは、深い沈黙だけだった。
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2001-09-09T18:05:00-04:00静まり返った部屋で、マーカスは震える手で自分の顔を覆った。
「母さん……僕は間違っていたのか……?」
足元には転がった酒瓶、割れたガラス、そして荒れた部屋が広がっている。
彼はゆっくりと立ち上がり、深呼吸をして冷静になろうと努めた。
マーカスはふと部屋を見回し、口の中で小さく呟いた。
「……物盗りの犯行に見せかければ……」
震える手を無理に止め、彼は部屋中を慎重に動き回った。テーブルの上にあった写真はポケットに押し込み、酒瓶を布で拭いてから元の場所から遠くへ放り投げた。目立つ書類や母のPCを開き、中のデータを次々と削除していく。その手つきは正確で無駄がなかった。
部屋の中をさらに荒らし、まるで強盗が金目の物を探した痕跡を作り出すように家具を倒した。引き出しの中身を床にぶちまけ、タンスを傾ける。
冷たい視線を落としながら、最後にもう一度部屋を見渡すと、深く息を吐いた。
「──これで……いいはずだ」
マーカスは荒れた部屋を背にし、ゆっくりと玄関を開けて外に出た。冷たい夜風が彼の頬を撫でるが、それでも彼は振り返ることはしなかった。その目には、かつての純粋な光はもうなかった。
──“奇しくも”その犯行が露見することはなかった。
マーカスの冷静かつ的確な証拠隠滅も奏功したが、それ以上に、翌々日──2001年9月11日に起きた、アメリカ史上最悪の同時多発テロがすべてをかき消した。
国家規模で緊急対応が求められ、スラム街の強盗殺人など、捜査リソースを割くにはあまりに取るに足らない“日常の闇”と化したからである。
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2013-01-08T09:30:00-08:00母の死をきっかけに、マーカスは完全に変わった。いや、それは"変わった"というよりも、"壊れて作り直された"と言ったほうが正しいかもしれない。
彼はもはや過去の自分ではなかった。かつて"母に誇れる息子"であることを目指していた純粋な少年の面影は消え去り、冷徹で計算高い現実主義者へと変貌していた。
奨学金を得て進学したのは、工業系の名門大学。その工学部で人工知能とロボティクスを専攻し、持ち前の頭脳で群を抜く成績を収めた。しかしその選択には、理想や夢は一切含まれていなかった。
──食いっぱぐれない道を選ぶだけ。それ以外の理由はない。
彼は周囲の仲間や教授たちと最低限の関係しか築かず、孤独に学び続けた。友情や人間関係に興味を持つことは、もはや彼の中では無駄でしかなかった。

大学卒業後、マーカスが選んだのは、M社の資本が入った多国籍警備企業"CCS(Crusader's Children Security)"だった。
表向きには"安全保障の専門企業"を名乗っていたが、その実態は民間軍事会社(PMC)──平たく言えば、"戦争屋"だ。
ネットセキュリティ部門の技術者として採用された彼に課された任務は、戦場で使用されるAI兵器の開発と実地テスト。
敵兵や、時には民間人を想定したターゲットに対して、新兵器の効果を検証することもあった。
リスクはあったが、最先端技術に触れられる環境としては申し分なかったし、M社の資本が入っている以上、企業としての安定性も信頼できた。
やがてCCSはマーカスの予想通り、M社によって完全買収され、子会社化される。
買収の目的について現場に説明がなされることはなかったが、予算は増え、設備は充実し、開発環境は格段に向上した。
細かいことに目をつぶれば、技術者にとってはむしろ理想的な環境だった。
当時のマーカスは、それを疑おうともしなかった。
──報酬さえもらえれば、それでいい。
彼にとって、倫理や善悪は意味を持たなかった。与えられたミッションを冷徹に、効率的にこなす姿は、周囲に恐怖すら抱かせるほどだった。
やがて、M社主催の最先端次世代AI研究プロジェクト"エグゼジェネシス"への参加者募集が告知される。マーカスはCCSの推薦を受け、そのプロジェクトに参加することになった。
──このプロジェクトは、技術を盗むにも、人脈を築くにも絶好の機会だ。
マーカスにとって、"エグゼジェネシス"は単なる自己利益のための手段だった。そこに信念も理想もなく、彼が求めたのは自らの力を高めるための知識と繋がりだけだった。
彼の目には、かつて母への愛とともに宿っていた暖かな輝きは、もはや存在しなかった。
代わりに宿っていたのは、冷たく鋭い光──人を拒絶し、自己を満たすことだけを求める野心の輝きだった。
[System Status] CHAPTER_2_VERSE_01_COMPLETE
[Next Sequence] CHAPTER_2 / VERSE_02[Next Sequence] → CHAPTER_2/VERSE_02
設定資料集
M-CORP_INTERNAL_ARCHIVE
[00] ■ 人物プロファイル (Personnel Profile)
ジョン・マーカス(John Marcus)
Role: 施設育ちの天才少年/CCS技術者
Note:
過去: 施設で育ち、幼い頃の母の記憶(「天使ちゃん」と呼ばれ愛された記憶)だけを心の支えにしていた。「母に誇れる息子」になるため、遊びを断って勉学とプログラミングに没頭し、デトロイト技術大学主催のコンテストで最優秀賞を受賞する。
転機: 受賞がニュースになったことで母と再会するが、そこで自身の存在と愛を全否定される。衝動的に母を殺害し、証拠を隠滅して「強盗殺人」に偽装した。
現在 (2013年 - 27歳): 母の死と9.11を経て、かつての純粋な心を捨て去り、冷徹な現実主義者へと変貌。民間軍事会社CCSでの兵器開発を経て、M社の「エグゼジェネシス」プロジェクトに参加する。彼の瞳からは、かつての暖かな輝きは失われ、人を拒絶する鋭い光だけが宿っている。
[01] ■ 技術仕様書・用語集 (Technical Glossary)【天使ちゃん (Little Angel / Tenshi-chan)】
マーカスが幼少期に母から呼ばれていた愛称。彼にとっては「母の愛」の象徴であり、自分が「いい子」であろうとする動機そのものだった。
実態は売春宿において、母親たちが仕事(売春)をしている間、邪魔になる子供たちを黙らせるために世話係が使っていた「隠語(スラング)」。父親の分からない子供に対する皮肉な呼び名でもあった。タイトル『偽りの後光』が指すダブルミーニングの一つ。
【フューチャー・イノベーターズ・コーディング・カップ (Future Innovators Coding Cup)】
地方自治体とデトロイト技術大学が共催したプログラミングコンテスト。マーカスはここで「AI学習アシスタント」を発表し、最優秀賞を受賞。このニュースが母との再会、そして悲劇の引き金となった。
【AI学習アシスタント (AI Learning Assistant)】
15歳のマーカスが開発したアプリケーション。限られた教育資源しか持たない施設の子どもたちが、自分のペースで平等に学べるように設計された。彼の善性と才能の結晶。
【9.11 (September 11 attacks)】
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件。マーカスが母を殺害した2日後に発生。国家規模の混乱により、スラム街で起きた一人の娼婦の死は「日常の闇」として処理され、マーカスの罪は捜査されることなく隠蔽された。
【CCS (Crusader's Children Security)】
大学卒業後のマーカスが就職した多国籍警備企業。表向きは警備会社だが、実態は紛争地帯で活動する民間軍事会社(PMC)。後にM社に買収され子会社化される。マーカスはここでAI兵器の開発に従事し、倫理を切り捨てた技術者としてのキャリアを積んだ。
【エグゼジェネシス (ExeGenesis)】
M社が主催した次世代AI研究プロジェクト。2013年開始。マーカスはCCSの推薦枠で参加し、ここでジェイコブやアンジェラと出会うことになる。彼にとっては「技術を盗み人脈を作る」ための利益追求の場でしかなかった。
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