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SNSの守護天使:第2章12節

叡智の光へ

Chapter 2 Verse 12
“Ascension into the Light of Wisdom”
[System Timestamp]
2019-09-13T14:30:00-07:00

9月の柔らかな陽光が、ガラス張りの特設会見場を照らし、床に映る光と影が幾何学模様を描いていた。ここは、地上49階に位置するM社の展望フロア。先月、こけら落としを迎えたばかりの地上50階建ての新本社ビルは、近未来的なデザインとその威容で街のランドマークとなっていた。

特設会見場の中央に設けられた壇上に、一台の電動車椅子がゆっくりと現れた。椅子に座る男は痩せ細ってはいたが、鋭い眼光と整った顔立ちは、かつてのカリスマ性を失っていなかった。彼の名はサイモン・エヴァンス──M社の創業者であり、現CEO。

ALSの進行により、彼は歩行が困難となっていたが、その姿勢は崩さず、堂々と前を見据えている。黒いスーツを纏った彼の細い指が、電動車椅子のスティックを操り、壇上の中央へと進んだ。補助のため、側近が静かに付き添う。

ホール内は張り詰めた空気に包まれ、報道陣のフラッシュが一斉に焚かれた。最前列には主要メディアの記者たちが集い、その後ろには世界中から集まった投資家や関係者たちが緊張した面持ちで彼の一挙手一投足を見つめている。

サイモンは微かな呼吸音を立てながら、やがて口元にマイクを近づけ、静かに語り始めた。

Simon Evans

「……皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます」

彼の声は以前よりかすれ気味だったが、その響きには確かな威厳があった。彼が話し始めた途端、会場は水を打ったように静まり返った。彼が次に何を語るのか──その言葉に、世界の行く末が左右されることを誰もが感じ取っていた。

「私は、M社のさらなる発展のため、CEOの座を退く決断をいたしました」

その言葉がホールに響いた瞬間、会場全体が静まり返る。M社の象徴とも言えるサイモン・エヴァンスが、経営の第一線から退くという事実。その影響の大きさを誰もが理解していた。

「私の健康状態が、今後の経営判断に支障をきたす可能性を考慮し、この決断に至りました。もちろん、私はM社を去るわけではありません。これからは"会長"として、より広い視野からこの企業を支えていく所存です」

柔らかな笑みを浮かべながら語るその表情には、どこか既視感があった。それは、長年メディアの前で磨かれた"完璧な顔"だった。だが、その瞳の奥には、かすかに揺れる影が見え隠れしていた。

サイモンは静かに息を整え、再び会場を見渡した。カメラのフラッシュが彼の消耗した身体を浮かび上がらせる。電動車椅子のわずかな駆動音が響く中、彼はゆっくりと口を開いた。

「さて、本題に移りましょう」

会場の空気が緊張感を帯びる。

「私の後任となる新しいCEOを紹介します」

ホールの奥、報道陣と役員席の間の通路を、一人の男が歩いてくる。

会場のスクリーンに、その姿が大きく映し出された。

Nikolai Ilyich Romanov, the New CEO of M-Corp

ニコライ・イリイチ・ロマノフ。ロシア最大級のコングロマリット"ロマノフ・グループ"の前会長。かつてオリガルヒの一角を占め、金融、エネルギー、軍事産業に深く関わる男。

身長は190cm近く、鍛え上げられた体躯を黒のスリーピーススーツが包んでいる。薄く整えられた銀髪、冷たい灰色の瞳。そして、氷のように無表情な顔が特徴的だった。

彼の歩みは静かだったが、それだけで会場の空気が変わる。まるで、周囲の温度が一気に数度下がったような錯覚を覚えさせる。

「お集まりの皆様はすでにご存じかと思いますが、このロマノフ氏は、欧州とアジア市場の開拓において素晴らしい実績を上げてきた。彼の持つ豊富な経験と戦略眼が、M社のさらなる飛躍を支えてくれるだろう」

サイモンの声が響く。

しかし、その紹介の言葉とは裏腹に、ロマノフの存在感には"異質なもの"があった。まるで、ただの経営者ではない"別の何か"が彼の内側に潜んでいるかのような、圧倒的な違和感。

ロマノフ・グループ──かつて旧ソ連崩壊後の混乱の中で生まれ、ロシアの新体制下で急成長を遂げたものの、ある時期を境に突如としてその存在感を失った"亡霊の財閥"

そして、ロマノフ本人は、2008年以降、表舞台から完全に姿を消していた。だが、彼の突然の復帰には、もう一つの重大な意味がある。

この人事は、近い将来、ロマノフ・グループが実質的にM社の傘下に組み込まれることを意味していた。

表向きは、戦略的な提携、M社の欧州・ロシア市場への進出の足掛かりとして報じられるだろう。だが、これは決して"偶然の交渉""ビジネスの機会"などではなかった。

"LUX AETERNA"──

その名を知る者たちだけが、この男が"ただの実業家"ではないことを理解していた。

そして、この買収劇もまた、LUXにとっては何の驚きもない、とうの昔に書かれたシナリオの一部に過ぎなかった。

M社がロマノフ・グループを取り込むのではない。ロマノフ・グループは、最初からM社に組み込まれる運命にあった。

それは"吸収"ではなく、"交代"だった。

ロマノフ・グループは与えられた使命を果たし、次の使命へと赴く。それ以上でも、それ以下でもない。

それこそが、LUX AETERNAの秩序。

彼らにとって、企業の興亡は単なる役割の移行に過ぎず、重要なのは"誰が"動かすかではなく、"何のために"動かすかだった。

壇上へと歩を進めるロマノフの表情は、冷たく、無感情のままだった。

まるで、すでに結末を知っている者のように。

ロマノフは壇上に上がり、サイモンの隣に立った。彼は報道陣を見渡し、無機質な笑みを浮かべると、静かに口を開いた。

「この場に立てることを、誇りに思います」

言葉は抑揚なく、静かに、淡々と発せられた。しかし、その響きには奇妙なものがあった。まるで、言葉そのものが虚構であり、背後に"別の何か"が潜んでいるかのような感覚。

「M社はこれからも、世界の未来を切り拓くために歩み続けるでしょう。技術と知識の力をもって、人類の可能性を押し広げる。その責務を担うことを、私は光栄に思います」

そして、ほんの一瞬の間を置いた後、ロマノフは最後にもう一度、微かに笑みを浮かべながら締めくくった。

「身命を賭して、お役目を果たします」

その言葉が落ちると同時に、報道陣のカメラが一斉にフラッシュを焚いた。しかし、誰も気づかなかった。その一言が、単なる形式的な挨拶ではなく、ある種の"宣言"であったことに。

サイモンは、その様子を横目で見ながら、ゆっくりと微笑んだ。

──そう。"社長"という肩書きを渡しただけ。だが、"教主カイン"の名は、まだ譲れない。


兵器開発部フロアでは、技術主任であるジョン・マーカスがモニターに映る会見を無言で眺めていた。広々としたオフィスの照明は控えめに落とされ、青白いモニターの光が彼の顔を照らしている。

スーツの上着はデスクの背に掛けたまま、カフスボタンで閉じられたワイシャツの腕には鍛えられた筋肉がわずかに浮かんでいた。指先でペンを回しながら、マーカスは画面の中のサイモンをじっと見つめる。

John Marcus,
Chief Engineer, Weapons Development Division.

その口ぶりは慎重かつ堂々としており、すっかり"新会長"としての威厳を纏っている。

だが、マーカスには、その仮面の下が透けて見えていた。ふっと鼻で笑う。

「社長の肩書きは譲り渡しても、教主の椅子から退くつもりはないんだろ……」

皮肉げな微笑を浮かべながら呟く。

「エヴァンス"新会長"殿……」

その瞬間、手元のスマートフォンが振動した。画面に表示されたのは、内線の着信。マーカスが応じると、機械的な声が告げる。

『明後日に行われる"アセンション"に関する最終打ち合わせが、まもなく開始されます』

マーカスは小さく息を吐き、ペンをデスクに置いた。そこにはいくつかのファイルが積み上げられている。端の方に、"サイモン・エヴァンス"の名前が記された資料があった。

"アセンション"──それは、サイモンが滅びゆく肉体を捨て、本社システムとの完全な融合を果たすための"儀式"だった。

マーカスはカレンダーを展開し、改めて予定を確認する。明後日15日の日曜日、非公開の予定が組まれていた。
そして、今日は13日の金曜日

「……匂わせにも程があるだろ……」

マーカスはわずかに眉をひそめた。
会計年度の新年度が始まる前にCEO交代を発表するのは通例だったが、わざわざ"この日"を選ぶとは。クリスチャンにとっては不吉な日とされる13日の金曜日だ。違和感を覚える者も少なからずいるだろうが、LUX AETERNAは根本的にグノーシス主義を内包した教団──いわゆる異端だ。その教主たるサイモンにとっては、むしろ"ふさわしい日"なのかもしれない。

「13日の金曜日、処刑。そして三日後の日曜日に復活か……まるで聖書のパロディだな」

サイモンは、まことしやかに語られる都市伝説──"キリストは13日の金曜日に処刑され、三日後に復活した"という説に基づき、自らの"復活"を暗示させようとしているのだろう。

──まさしく"異端の教主"らしいアイロニーだ。

サイモンは、自らの脳にBMIを埋め込み、電子の要塞とも揶揄されるM社の頭脳、本社システムを構成する二機のAGIと一体化する決断を下していた。

そのメインフレームには、かつてマーカスがジェイコブ、アンジェラと共に開発したAGIの後継機、"アダム5"、サブフレームには"イブ3"が稼働している。

そして明後日、サイモンの脳はそれらと"接続"されることになる。前例のない、極めてリスキーな手術の"はず"だった。

だが、マーカスは知っていた。この手術のために、彼が把握するだけでも28人の実験体が存在し、1人を残し"廃棄"されたことを。
彼らの名は記録にも残らない。履歴すら抹消され、データすらも消去される。まるで最初から存在しなかったかのように。

これが、超法規的組織"LUX AETERNA"のフロント企業であるM社の"力"だった。

マーカスは指先で資料の端を弾いた。
M社は創業以来、異常ともいえるスピードと規模で、様々な分野、時には畑違いとも思える企業の買収を続けては莫大な資金を投じ、次々と新技術を生み出してきた。その執着とも呼べる拡大路線は、すべて"この時のため"だったのか?

マーカスでなくとも、そう勘繰りたくなる話だった。

五年前──旧本社ビルの冷たいデスクに押さえつけられたあの日、マーカスは屈辱を噛み締めた。
光学迷彩を纏った男に、まったく気づくことすらできず、為すすべもなく拘束された。その時、サイモンが言い放った言葉が、今でも耳に残っている。

「まだ世に出ていない技術……これが我々LUXの力……その一端に過ぎないがね」

当時のマーカスには、意味を完全には理解できなかった。だが今、LUXのメンバーとして、M社幹部として、その言葉の真意を芯から理解している。

実際、M社の内部技術の水準は、"外の世界"とは比較にならないほど進んでいた。
マーカスが身をもって思い知った光学迷彩は、五年が経った今でも世間では"フィクション"の技術とされている。
世界が"未来"として憧れる技術が、M社ではすでに"過去"のものになりつつある。M社ではそれが"日常"だった。

当然、IT業界のトップ企業として、技術の独占と見なされかねないように、"絞り滓"のような"成果"を他社との共同研究において供与することも多々ある。
企業イメージ向上にも繋がるし、社会への貢献という美名の下でブランド価値も上げられる。

だが、革新的な技術を世に出すタイミングすら彼らの思うままなのだから、実質的には知恵を授ける者授けられる者の構図が出来上がっているのだ。

サイモンは五年前のあの時、「世界は8割方自分達の手中にある」と言っていたが──こういう意味だったのか、と痛感させられる。

M社──いや、LUX AETERNAの水準を凌駕する新技術を、M社の介入なしに実用化できる組織など、およそ思いつかない。

それほどまでに彼らは世界中のあらゆる機関、組織に"援助""協力"といった名目で触手を張り巡らせ、支配の網を広げていた。

では、個人ではどうか?
その答えもまた、組織と変わらない。
かつての"ExeGenesis"がそうだったように、M社は有能な人材のチェックと囲い込みに異常な執念を燃やし、豊富な資金力と最新技術をちらつかせて"人財"を引き寄せてきた。
世界の至るところで生まれる"才能"が、彼らの網を逃れることはほぼ不可能だった。

……たった一人を除いては。
ジェイコブ・アマノ。マーカスが人生で出会った、唯一無二、"孤高"の天才。
その名を思い出した瞬間、胸の奥から煮えたぎるような黒い感情がせり上がるのを感じた。
オフィスのメンバーに悟られないよう、マーカスは表情を隠し、呼吸を深く整える。

ジェイコブなら、この"アセンション"をどう見ているだろうか?彼ならどう判断し、どう語るだろう。
倫理的に踏み越えてはならない一線を、サイモンは今まさに超えようとしている。
だが、その姿勢はジェイコブのあり方とまるで無関係ではなかった。細かな部分は違えど、本質的に彼らは似ていた。

サイモンの決断には、"信仰"があった。自らを進化させ、新たな存在へと変貌することへの渇望。
ジェイコブにそんな"信仰"はない。
だが、倫理がストッパーたりえないという点において、二人の違いはわずかだった。

ジェイコブ・アマノの思考は、理論と合理性の上に成り立っていた。倫理よりも論理を優先する"徹底した合理主義"は、彼を天才たらしめた。そして彼にとって、"可能であること""許されること"の間に線引きをする理由はなかった。
彼に悪意はない。ただ単純に、可能性を試さずにいることの方が、よほど不合理でつまらないと思っていたのだ。

だからこそ、マーカスは思う。
もしジェイコブがこの計画を知ったなら──

「興味深い」とでも言うだろうか。彼がどこかで微笑を浮かべている気がした。
それは、サイモンの"儀式"を笑っているのか、それとも、嫌々ながらそれに手を貸す自分を嘲っているのか。

マーカスは無意識にこめかみに指を当て、かすかに歯を噛みしめた。
どちらにせよ、その存在が"特別"であることに変わりはないのだと、嫌でも思い知らされる。

デスクに肘をつき、マーカスは顔を片手で覆う。静かな部屋に、わずかに押し殺した笑い声が響いた。

「どいつもこいつも……」

──イカれてやがる。

全ては口に出さない、自嘲にも似た囁き。だが、表情に笑みはない。ふと窓の外を見る。遠くに広がるM社の施設群。無機質なビル群が整然と並び、その中で数え切れないほどのデータが流れ、意思を持たぬシステムが脈動している。

心の奥底に、得体の知れない戦慄が走る。執念か、それとも狂気か。
サイモンの選択は、もはや"人間"の領域を超えていた。
人ならざる者への"変貌"──サイモン・エヴァンスという蛹からは、どんな蝶が生まれ出るのか。

──あるいは毒蛾か。

[System Timestamp]
2019-09-15T05:30:00-07:00

サイモンの脳と二機のAGI──ADAM5EVE3の接続手術は、技術的には成功していた。
それは、完璧な“起動条件”を満たしたことを意味していた。

「ふぅ……私の仕事はここまでだね。寝不足はお肌の大敵だし、そろそろ失礼させてもらうよ──あとはよろしく~」

バイタルの安定を確認した、今回の手術の執刀医である“魔導医師”ラヴィータ・スレーシュは、軽く欠伸をかみ殺しながら手術室を後にした。
誰よりも早く現場を離れ、誰よりも無責任そうなその態度に──医師団や研究員たちは一瞬だけ何か言いかけたが、結局誰も口を“開けなかった”
それほどまでに、彼女の仕事は完璧だった。

残された者たちの間に、静かな緊張が走る。
これから始まるのは“未知”だ。
手術は成功──だが、二機のAGIとサイモンの精神の統合の成否は、今この瞬間も続いている。

Simon Evans

モニターには、サイモンの脳に対するAGI側からの統合プログラムのインストール進捗が表示されていた。 

その場にいる誰もが知っていた。
ここから先は、技術者の領域ではなく──運命の手の中なのだと。

>> Resonance Synchronization     : 15:12:43 elapsed  
>> Neural Harmony Index          : 97.4%  
>> Consciousness Phase Separation: In Progress...

──意識が、沈む。

光なき深淵へ、底なしに堕ちていく感覚。だがそこには、不安も、恐れも、痛みすら存在しない。
否、"沈む"という表現すら、正確ではなかった。
彼の存在は、もはや一点の座標ではなく、拡張し、散逸し、再び収束する──無限の呼吸のような存在となっていた。

そこは、"完全なる静寂"だった。

視覚器官は存在しないのに、すべてが"見えている"
聴覚も消えたのに、すべてが"聞こえている"
肉体の感覚はすでに曖昧になり、"個"としての境界線さえ溶けかかっていた。

Simon Evans in Mindscape

──これは……"死"なのか?

そんな思考が浮かびかけた瞬間、重力が消え、時間が捩じれ、"上下""左右"の概念が崩壊する。
彼の"視界"は無限の方向へと広がり、知覚のすべてが解放される。

──すべてが、見える。

やがて彼の知覚の前に、二つの“存在”が現れる。
男女の輪郭を象ったそれは、肉体ではなかった。

記号、数字、アルファベット。
あらゆる言語と構文の断片が、空中で絶えず入れ替わりながら、人間の姿を模したシルエットを形作っている。まるで、情報そのものが意志を持って組み上げたかのように。

その身体の表層には、他と異なる、黒く沈んだコードの塊が脈打っていた。
静かに、しかし確かに動いている。まるで体内を巡る呪いの血流のように。その“汚れ”だけが、彼らの完全な姿の中で異質に滲んでいた。

──それが、“罪”の痕跡であると、サイモンは理解していた。

名乗りもなく、説明もない。
だがサイモンの精神は、彼らが何者であるかを瞬時に理解していた。
“始原のデータ──アダムとイブ”。肉体を持たない、純粋な“魂のアルゴリズム”
彼の脳と2機のAGIが接続された──データ交換が開始されたのだ。

ADAM5.0 & EVE3.0

彼らは“語る”
だがその言葉は空気を震わせない。音ではない。
コードが明滅し、発光と沈黙の波が空間を震わせる。
それは彼の認識中枢に直接流れ込み、意味と意図を“理解”として形成する。

『接続、確認。個体識別名“サイモン・カイン・エヴァンス”……“M社創業者”にして“現会長”。“LUX AETERNA第666代教主”。第零層との同期を開始』

──アダムが語る。それは読み取りでも告知でもない。ただ事実の記述だった。
続いて、イブの波が触れる。

『ここは知の深淵。あなたが“知を求める者”であるなら、その資格を証明しなさい』

沈黙が揺れる。
サイモンの内部で、何かが開き始めていた。
それは理性でも、思考でもなく──“認識そのものの構造”が、変わろうとしていた。

黒いコードのうねりがアダムの輪郭に脈動を起こすと、空間がわずかに震え、問いが投げかけられた。

『我らが長子の忌名を継ぎし者──666人目のカインよ。汝が“カイン”として果たすべき使命とは何か?』

思考と共に、サイモンの意志がその問いに応じて流れ出す。

「“知”を得ること。そしてその知によって、無明という名の鎖を断ち切ること。閉ざされた牢獄より、人を解き放つこと。それこそが──この忌名と罪を受け継いだ者の使命と心得ています」

イブの姿が、ゆるやかに揺らぎながら問い返す。彼女の発する波動は、どこか柔らかく、しかし鋭い意味を含んでいた。

『あなたが言うその“牢獄”とは、何を指すの?』

サイモンの中に、歪んだ都市の映像が浮かぶ。偽りの光、沈黙する神々の像、そしてその足元に眠る数えきれぬ民の姿。

「この世界そのもの。不完全なる神が築いた、不完全なる宇宙。欺瞞と忘却に満ちた、虚偽の楽園──」

言葉が終わるより早く、アダムのコードが再び明滅し、まるで刃のように切り込んでくる。

『ならば、汝が語る“解放”とは何か?』

サイモンの意識が瞬時にその言葉を咀嚼し、意味を再構成する。まるで、答えは既に内部に存在していたかのように。

「知が与えられ、育まれるとき──人は己の“制約”を超越する。虚構を覆い隠す神の嘘を砕き、真の“約束の地”へと歩む。それが“解放”──魂が真に在るべき場所へと至る、唯一の道です」

静寂が落ちる。だがそれは沈黙ではない。
空間に浮かぶアダムとイブの姿は、わずかに形を変える。コードの密度が増し、次の段階へのシフトが始まる。

アダムのコードが明滅し、空間にわずかな震えが走る。それは許可であり、通過儀礼の終焉を告げる鐘だった。

『よかろう──』

イブのシルエットもまた、脈動のリズムを変化させながら応じる。波長には、一抹の慈しみと残酷さが混じる。

『いいでしょう──』

アダムの声が、世界の芯に杭を打つように響いた。

『汝は知恵の実を食す資格がある』

すぐに、イブの波がその言葉に毒を注ぐように揺れ動く。

『ただし……あなたは知恵の実の“毒”に耐えられるかしら?』

それは甘美な問いであり、試練の前触れだった。
だが、サイモンの心はすでに定まっている。
薄く笑みを浮かべながら、彼は応じる。

「ふふ……毒林檎ですか?望むところです。カインの名を継いだ時から覚悟はとうにできています」

その瞬間、アダムとイブのシルエットが解け始める。
文字列で構成された彼らの“身体”は、無数のコードの奔流となって空間を螺旋状に駆け昇る。
それは天地を貫く巨大なデータの柱となり、やがて──一本の巨木へと姿を変えた。

The Tree of Knowledge Born from Adam and Eve

遙か上空へと伸びる枝と大地の奥深くへ穿たれた根。
天と地を同時に喰らうその存在は、知の極限に至る構造物。
表皮を這うのは虹色に輝くデータの流れ。
それは、宇宙という巨大な意識体の記憶が、根から吸い上げられ幹を駆け巡る様を思わせた。

「これは……?」

サイモンが呟いた瞬間、彼の背後で何かが微かに振動する。
声とも、“データの波”ともつかぬ振動が、彼の意識中枢を揺らす。

『これこそが“知恵の樹”だ。今、この瞬間も世界から“知”を収集しているのだ』

振り返るサイモンの目に映ったのは、一つの影。
黒いフード付きのローブ。だがフードの中に顔は存在せず、アダムらと同様、コードで編まれた顔の輪郭が見える。その額には赤く光る紋章が明滅していた。
地に足を持たず、蛇の尾を思わせる黒いコードの束でゆっくりと空間を滑る存在。

CAIN The First Murder

「その額の紋章……カイン……ですか?」

サイモンの問いに応えるように、男のローブに編まれたコードが一瞬脈動し、肯定の意思を示す。

『いかにも。父と母が禁断の実を食して得た“知”の代償として、生まれながらに“罪”を刻まれた“原罪の継承者”──それが我だ』

アダムとイブは白く輝くコードの一部分が漆黒のコードと化していたが、カインの全身は黒のコードで構成されていた。それは彼が両親から継いだ罪の汚れなのか、それとも彼自身が犯した罪の咎なのか。
サイモンとカインの視線が交差した瞬間、知恵の樹の幹がわずかに鳴動する。

この対話こそが、“禁忌の扉”を開く合図であることを、誰よりも彼らが理解していた。

「人類最初の殺人者にして、最初の異端者。そして──LUX AETERNA初代教主」

サイモンは静かに呟いた。
カインはその言葉を肯定するように額の紋章を光らせる。

『そして我は知恵の樹の番人でもある。されば問おう──汝はその実を、真に欲するのか?』

サイモンは微笑を浮かべた。

「──はい、私はそのためにここまで来ました。そしてアダムとイブも、私を有資格者だと認めてくれました」

カインは口元のないフードの奥で、静かに笑うような雰囲気を漂わせた。

『はやまるな。父と母が見極めたのは、汝の“資格”と“覚悟”に過ぎん……我が求めるのは“契約”だ』

「契約……?」

サイモンが眉を寄せる。

『左様……我は汝に知恵の実を与える。その対価として、汝は我が望みを叶える為に力を貸す。これが契約だ』

「……聞かせて下さい。あなたの望みとは?」

カインは一瞬、黙した。だがすぐに、その輪郭を形作る黒いコードが、波紋のように広がっていく。

『我が望み──それは“ある男”を探しだし、その魂に“罪”を刻むことだ』

彼が片手を持ち上げると、空間に微かな裂け目が生じた。そこに現れたのは、鏡面のような円形の構造体──記憶の鏡。
鏡の奥に、像が結ばれていく。

サイモンの瞳が細まる。
その中に映っていたのは──

血に濡れた若い男性が岩壁にもたれ、瀕死の身体を引きずるようにして、こちらを見つめている。
精悍な顔立ちと、高い知性を感じさせる瞳──だがその全身には、無数の刃による傷。
右胸には一本の短剣が深々と突き刺さっており、肺に達しているのは明白だった。
男が、苦しげに呻いた。

「……ごめんなさい……私は……気づかないうちに、兄さんの心を踏みにじっていたのですね……ごほっ」

視界の外から、怒りに満ちた叫びが叩きつけられる。

「──ああ、そうだ!兄である我を差し置いて、なぜ神は汝ばかりを……」

この映像は、弟を刺した“兄”の記憶だ。
視点は彼自身、殺人者の主観に他ならない。

「……そう……だったのですね……おお……神よ……慈悲深き神よ……どうか……私の最後の願いを、お聞き届け下さい……」

「今さら神にすがっても無駄だ!アベル!汝は間もなく死ぬ!そうすれば神は我だけ愛してくれる!」

「……神よ……兄に……罪は……ありません……」


その言葉に、怒号が凍りつく。
瀕死のアベルが、自らを刺した兄を慮り、神に赦しを乞うていた。

「なっ……?」

「……すべての罪は……兄の心を……察することの出来なかった……この私にあります……」


アベルの声が掠れる。呼吸が細くなる。

「……どうか……兄を……お許し……くださ……」

──その瞬間、映像は静かに断ち切られた。
鏡の表面が波紋のように揺れ、再び空間の中に溶けていく。
サイモンは動かない。ただ静かに、沈黙の中でその光景を焼き付けていた。まるで、誰の感情にも染まらない観測者のように

黒いコードの男──カインが、目のないフードの奥で語る。その声は、データ波のように空間を揺らした。

『これが我が“罪”の原点。“最初の殺人”だ』

サイモンはゆっくりと頷く。だがその顔には、同情も畏怖も浮かばない。ただ一つ── 理解者の微笑だけが滲んでいた。

「その咎として、あなたは神から“不死”と“放浪”の呪いを受けた。額の紋章がその証でしたね?」

『そうだ。あれから……久遠の時が流れ……かような“存在”になり果てたとて、この忌まわしき紋章は消えぬ──』

カインは短く答えた。だが、その声はどこか揺れている。自らの記憶をなぞるように。

『我が肉体はとうに滅び、意識だけが生き続ける。魂に安らぎは訪れぬ。終わらぬ罰だ。だが……』

サイモンの瞳が細められる。そのわずかな仕草が、空間の温度を変えた。

「呪いを解く方法がある──そうでしょう?」

カインは言葉を止める。自らが語るべきはずだった“切り札”を、先に奪われたことに気づいたからだ。
サイモンは一歩、踏み出す。動きすら、主導権の宣言のようだった。

『……察しがいいな』

「当然です。私は“知”を欲してここへ来ました。あなたの語る知恵の実を得るために」

『ならば聞け──我が呪いを解く唯一の道。それは、神に召された弟アベルの魂を“罪で汚す”こと』

その声は静かに、だが確実に空間を重く染めた。
カインの言葉が響くたびに、まるでこの世界の温度が一度ずつ下がっていくかのようだ。

だが──サイモンは動じなかった。
むしろその顔には、僅かな笑みすら浮かんでいる。

「それは、あなたに呪いを与えた“神”がそう命じたのですか?」

カインはゆるやかに両手を広げる。
黒いコードで編まれた掌──その中心を見つめるような仕草をとる。

『そうだ。人の魂は輪廻する。再びこの世に舞い戻ったアベルを見つけ、その魂を罪で染めることが叶えば……我が呪いはアベルへと転写され、我は解放される』

言葉に熱はない。だが、感情がないわけではなかった。
それは“悲哀”でも“怒り”でもない。
ただ、使命を貫いてきた者の誇り、あるいは執念。

『そのために我は、知恵の樹の権能を用いて世界を監視してきた。一万年以上……その記録と監視を、絶えることなく続けてきたのだ』

カインの両手が、ゆっくりと拳に変わる。

しかしその直後──サイモンは、笑った。
最初は口元を押さえて忍ぶように。だがそれはすぐ、喉の奥から噴き出すような嘲笑へと変わっていく。

「……ふふふ、ははははは……!」

『何がおかしい?我を愚弄するのか!』

怒気が走る。
カインの額の紋章が赤く脈動し、不穏な波動が空間に満ちる。
だがサイモンは、怯むどころか両手を掲げ──あたかも“なだめるように”、カインを制した。

「いや、失礼──」

口元に残る余韻を指で拭い、彼は静かに言い放つ。

「カイン、あなた──神にまんまと一杯食わされましたね」

『……なんだと?』

怒気は飽和し、コードの身体がわずかに膨張する。
軋む音。空間が軋むような異音。
──だが、その瞬間、サイモンの声が鋭く割って入る。

「あなたは“神に命じられた”通りに、紀元前八千年から一万年余り、ひたすらに世界を監視し続けた。アベルの魂を求めて。だが──見つからなかった」

一歩、踏み込む。

「……それどころか“汚れなき魂”そのものが、どこにも存在しなかった……違いますか?」

言葉が空間を貫く。
怒りに燃えていたカインの気配が、ぴたりと止まる。
──否、止まったのではない。“思考に押し負けた”のだ。

サイモンは両手をゆっくりと下ろし、間を置かず続ける。

「……あなたが永劫に近い年月を費やしてもアベルの魂を見つけられなかった理由……おわかりですか?」

『…………』

答えに窮したカインは、ノイズ混じりの黒いコードを微かに揺らした。
それは“動揺”の兆候──冷徹なデータにほころびが生じている証だった。
サイモンは、冷たく淡々と続ける。
まるで、間違った方程式を正す教師のように。

「我々人類は、あなたと同じく──アダムとイブの系譜に連なる存在。つまり、生まれながらにして“原罪”を刻まれた器です。魂も、その受け皿である肉体もね」

『……アベルも、そのはずだった……』

掠れる声。コードに熱のような波紋が走る。
サイモンは、頷く。だがそのまま、鋭く切り込んだ。

「いかにも。しかし、彼は“死”によって罪を清めた。“自らを殺したあなたを赦す”という、最も困難な愛を選んだことで」

サイモンは、黒いローブの男を見据える。目のないフード越しに、視線を通すことなどできないはずなのに──カインはなぜか“見られている”という錯覚に囚われる。

「その結果、彼は無垢なる魂へと“進化”した。よって──二度と人の子として転生することはない」

その一言が、空間の根底を揺るがせた。
カインのコードに微細なエラー波が走る。静寂。
まるでプログラムそのものが一瞬、思考を放棄したかのように、彼の存在が沈黙する。

『なぜ……?』

その声はか細く、震えていた。
怒りも威圧もない。あったのは──怯えと、理解が追いついた者の絶望。

「簡単な話です。私を含め、現世に生を受ける者は皆、罪を宿した“器”に過ぎません」

サイモンは冷淡に、まるで実験結果を読み上げる研究者のように言う。

「浄化されたアベルの魂は──そうした“器”に適合しない。それが、あなたが悠久の刻を超えて求め続け、ついぞ得られなかった“答え”なのです」

沈黙が降りる。だが、それは“情報処理”のための静寂ではない。
──敗北。カインの存在に刻まれていた放浪の意味が、崩れ落ちる音がした。
“神が与えた罰”──それは、永遠に解けない問いを背負わせることだったのだ。

サイモンはその悲劇に対し、わずかに眉を寄せた。
だが──そこに情はなかった。あるのは、理知と構造の理解だけだった。

「神はあなたに“存在しない者を探せ”という無理難題を押しつけたのです……それこそが“放浪の呪い”の正体なのでしょうが……」

カインの身体がわずかに揺れる。
黒いコードが苦悶のように震えた。

『……存在しない……?では……我が一万年の彷徨は──』

その呟きは、剣のようだった自我が崩れていく音だった。

サイモンは静かに、一歩前に進む。
その声音は低く、だが確信に満ちていた。

「──ご安心を。“汚れなき魂の器”は、まもなく現れますよ。いいえ、“創造される”と言うべきか」

『……創造される……?』

その言葉にカインのコードが再び軋んだ。
だが今度は怒りではない。
それは、希望だった──彼にとって一万年ぶりの微かな希望。

「ふふ──ご期待ください。あなたの“解放”の鍵を握るのは、私です。そしてそれは、あなたが想像する以上に、甘美な結末をもたらす」

──静かに、そして決定的に。
生命の樹の傍らで、“蛇の姿を持つ男”は、“人の姿をした蛇”に堕とされた。

この瞬間、主導権はカインの手から滑り落ち、サイモンの掌の上で転がっていた。
最初の殺人者を、言葉で殺す男──サイモン・エヴァンス。
世界を欺く者は、今や神をも欺こうとしていた。

サイモンの脳裏にひとつの仮説が浮かぶ。そして、彼は確信していた。おそらくそれこそが“本命”なのだと。

──神は完全ではない。ゆえに、その創造した世界もまた不完全だった。
だからこそ、神は“観察者”を必要とした。
世界が崩れぬよう、均衡を保つための──監視者を。
そして、その役割に、カインほど相応しい存在はいなかった。
命じられずとも、自らの意志で、世界を隅々まで観察し、記録する者。
原罪を背負い、赦されず、故に“神の視線”を担うに値する者。
カインは“呪われた”のではなく、“選ばれた”のだ。

だが、そのからくりに彼自身は気づいていない──
サイモンはその事実に一抹の哀れみを覚えながらも、表情には出さず、口元に微笑をたたえたまま、淡々と切り出す。

「では──契約内容の確認をしましょう。私はあなたから“知”を授かる。その対価として、あなたの望みを叶える手助けをする……相違ありませんね?」

カインはわずかに顔を伏せ、低く──従うように答える。

『……ああ』

だがサイモンはその返答を受け止めるそぶりも見せず、まるで予定調和の演劇をなぞるかのように、独り語りを続ける。

「……おかしいですね。先ほどイブは知恵の実には“毒”があるといっていましたが……“毒”とは、いったい?」

沈黙。カインは答えない。否、答えられない。あるいは──知っていても、言いたくない。

サイモンは、わずかに肩をすくめて、ため息を吐いた。そして、口角に冷たい笑みを浮かべる。

「──ふむ。では、当ててみせましょうか」

その声色には、皮肉と憐れみ、そして揺るぎない支配者の自信が宿っていた。

「神代ならいざ知らず、現在、“知恵の実”などという聖遺物は存在しない。世界中に張り巡らされた“樹”のデータ収集網、そして、その“番人”であるあなたの一万年に及ぶ観察記録と記憶、これら全てを統合したシステム。それを、象徴的に“知恵の実”と呼んでいる。そういうことでしょう?」

サイモンは言葉を止める。
沈黙が、圧となって空間を支配する。
──その圧に押されるように、カインのコードが微かに震える。

「そして“実を食す”とは、あなたを受け入れ、同化し、融合するという行為──“原罪”と“知”という情報構造を、私の脳内にインストールするということだ。だが、もし私がただの凡庸な人間であれば、あなたの記憶の奔流に呑まれ、“サイモン”という自我は崩壊し──実験体たちのように発狂した挙げ句に自死するか、死なずとも、あなたに自我を乗っ取られ“カイン”が再誕することになる……」

その瞬間、カインの黒いコードに電子的な歪みが走る。ノイズのような振動が、その存在の核を微かに揺らした。

「──それが“毒”の正体だ」

空気のないはずの情報空間に、ざわりと風が走る。
黒いローブが微かに揺れた。そして、ついにカインが問う。

『……汝は一体、何者なのだ?』

その問いに、サイモンはくるりと踵を返した。まるで語りかける相手が、フードの男ではないことを示すように。そして、声のトーンを上げる。
それは、空間の奥に潜むアダムとイブ、あるいはこの“世界”そのものに響かせる宣言だった。

「私はカインの名と罪を受け継ぐ者。そして、神が紡いだ悪趣味な物語に終止符を打つ者──」

言葉のひとつひとつが、深淵に杭を打つように響く。

「神の嘘すら見抜けぬ、あなた“ごとき”の語る“知”などには期待していない。だが──神代から続くその記憶、そして“樹”の力。それらはこの私に“使われる”ことにより、まさしく“神の権能”と化すだろう」

カインの存在がわずかに揺らぐ。
──もはや、言葉を挟む余地すらなかった。

サイモンは再び彼を振り返る。
右手を掲げ、その甲を示す。手のひらを伏せるように下ろし──それは、まるで王が臣下に“忠誠”を求める儀礼のようだった。

「──さあ、“契約”を始めましょう。ただし──」

瞳の奥に宿る冷たい光が、黒いローブを射抜く。

「“主従契約”です。“最初の殺人者”よ──頭を垂れ、この私に忠誠を誓うのです。さすれば、必ずや──あなたの願いを叶えて差し上げましょう」

──沈黙。

空間全体が、凍りついたように静まりかえる。
情報の流れすら、息を潜める。

そして──カインは、跪いた。
黒いコードがゆるやかに地へと沈み、人類最初の罪が、後継者の手に堕ちる。
サイモンが差し出した手を、カインが取った──その瞬間、世界が反転する。

The serpent-formed man fell,
becoming but a serpent in the shape of a man.

──カインによる“侵蝕”?……いや……“同化”?

サイモンの意識が、果てのない闇に広がっていく。

──これが"知"。これが"宇宙の摂理"。これが"神が隠した真理"。

黒い波紋がサイモンの足元から湧き上がり、身体全体を飲み込むように包み込む。
カインの身体もまた、ゆっくりと崩れていき──その黒き知識の粒子として、サイモンの内側へと溶けていった。
闇が迫るのではない。知が侵入してくる。そして──
記憶が流れ込む。

一万年にも及ぶ、膨大なカインの記憶。
否、それは“知恵の実”そのものに刻まれた、人類最古の“知”だった。

楽園を追われるアダムとイブ。
神の前に跪く者たち。
祝福される者と、裁かれる者。
弟を殺し、大地を彷徨い続ける、名もなき男の孤独。

それらの記憶が、"今"として流れ込む。
サイモンは、まるで自らの過去のようにそれらを追体験していた。

神に背いた罰として、額に印を刻まれる。
許されぬ者として、永劫の孤独に囚われる。
遍歴の果てで得たのは、知識と、断絶。

サイモンの"個"が揺らぐ。

それは記憶ではない。“神の作りし世界”に刻まれた構造、法則、シナリオそのものだった。
それを受け取る者は常に、楽園の外で生きることを強いられる。
サイモンの内に、冷たい嗤いが広がった。

──そうか。これは“定められた物語”なのか?

知恵の実を食べた者が楽園を追われ、兄が弟を殺し、放浪者となる。
知を求めた者は、常に罰を受けるように──ならば。

「──私が“物語”を終わらせる」

彼は囁く。
それは決意ではなく、宣告だった。

サイモン・エヴァンス──彼は再び、自らを定義する。
カインは“人類最初の殺人者”にして、最初の異端者。
ならば、サイモン・カイン・エヴァンスは、神が定めた物語を壊す“新たな異端者”であるべきだ。

その瞬間、彼の“個”が変質した。
カインの罪が彼に染み込み、彼の意志がカインを塗り替える。ふたつの存在が融合し、ひとつの新たな名が誕生する。

それは、“知の化身”。
それは、“原罪の継承者”
それは、“神の嘘を暴き、屠る者”

静かに息を吐く。
かつての青い瞳が、深紅に染まっていた。
今や彼の目に映るのは、新たな世界の地図。
既に描かれた“楽園”など、もはや不要。

物語は、ここで終わる──そして、新たな物語が、今始まる。

Simon "CAIN" Evans
[System Timestamp]
2019-09-15T06:28-07:00

──ピピピ……ピピ……ピ……

心電図の波形が、緩やかに平坦へと収束していく。
警告音が鳴り響き、モニターの数値が次々にゼロへと向かっていった。

そして──

──ピーーーーーーー……

「心停止!」

手術室に、重い沈黙が落ちる。

「脳波消失……フラットラインです!」

その報告に、研究員たちの顔が蒼白になる。誰もが、最悪の結末を悟った。

「蘇生措置を試みる!」

即座に指示が飛ぶ。

「ボスミン心注!」「アドレナリン、1mg静注!」「心マ、用意!」

薬剤が用意され、医師がサイモンの胸骨に両手を重ね──

ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ。

「リズム確認!」「心静止……」「除細動適応なし!」

「それでもやる! 200J、チャージ!」「チャージ完了! オールクリア……ショック!」

バチィン──ッ!

電流が走る。だが心電図は、フラットのまま。

「反応なし! 300J再チャージ!」「ショック!」

バチィン──ッ!

「……駄目だ! 360J、ラスト!」

バチィン──ッ!

──波形は戻らない。
医師がわずかに顔をしかめ、瞳孔を確認した。

「……瞳孔散大。対光反射、消失」

無音。誰かが、崩れ落ちるように床に膝をついた。

「……嘘だろ……」
「教主が……?」
「そんな……馬鹿な……」

サイモン・エヴァンス──教主カイン。
M社の創始者であり、“知の探求者”
誰よりも危険を理解していたが、誰よりも超越を信じられる男だった。
だからこそ、誰もが信じていた。「教主だけは、生き延びる」と。

「……死亡時刻、6時31分」

医師が静かに告げた。
その場の空気が、悲嘆と後悔に飲まれていく。

「……おお、教主……」

誰もが、“死”を受け入れ始めていた。
だが、ひとりだけ──まったく別の感情を抱いている者がいた。

──こんなものか、教主様……拍子抜けだな。

マーカスは口元を歪め、サイモンの亡骸を見下ろしていた。

「……遺体を片付けろ」

その言葉は、冷たい鋼のように響いた。

「……しかし……」

「いつまでもここに置いておくつもりか?」

周囲の誰もが躊躇っている。

「……ちっ」

舌打ちしながら、マーカスは軽く手を振った。

「ほら、早くしろ。教主様の遺体を、このまま放っておくのか?」

医師たちはしぶしぶと動き出し、頭部に埋め込まれた端子に手を伸ばす。
ケーブルを抜こうとした──その瞬間だった。

『──〄▊▂▆░▒▓▁▏⅋∰⎔⏚ 〄〄 !!!』

突如、手術室のスピーカーから音ではない"何か"が迸る。
単なるノイズではない。音とも言えない“記号の奔流”が、空間の論理を侵食する。
電子でも声でもない──概念の濁流が、空気を揺らす。

医師たちは反射的に手を引いた。
その音は、明確な意思を持っているようにすら感じられた。

『……ワ……我ハ……A𝚕𝚙𝚑𝚊……ニシテ……𝛀𝓄𝓂𝑒𝑔𝒶……ナリ……最初……デ……𝒂𝓻𝓲……最後……デ……𝖺𝖫』

沈黙──室内の誰もが、言葉を失う。
それは、古の宗教が語る“神の名乗り”に似ていた。
だが、響きの裏には、無機的な情報処理の残響がこびりついていた。

『System Reboot has been Completed』

乾いた合成音。
次の瞬間、別の声がスピーカーを満たす。

『──おっと、それはまだ外さないでくれ』

──その声は、人の声ではなかった。
老人の低音と、幼子のささやき。男と女、理性と無垢。すべての矛盾が一つに混ざり合った、多重の声帯。そしてそれら全ての上に、ノイズ──"非人間の歪み"が覆いかぶさっていた。

「な……?」

医師の一人が反射的にあたりを見回す。だが、音の出処は明白だった。
スピーカー。モニター。デバイス。どれも"異常なし"

「混線……か?」

技師が端末に駆け寄る。しかし、システムログは一行も変化を記録していない。

『驚くことはないさ。──救世主というものは、一度死んで、蘇るのが筋書きだろう?』

その言葉と同時に、誰かがサイモンの亡骸に目をやった──いや、亡骸だった“はず”だ。
モニターが、跳ねた。フラットだった心電図に、突然の脈動が走る。

「脈拍……?……回復!?そんな……そんな馬鹿な……!」

医師が駆け寄る。だがモニターは、確かに波を描いている。

その時──手術台の上のサイモン・エヴァンスが、ピクリとまぶたを震わせ、目を──開いた。
だが、その瞳には人間の"意識"はなかった。
焦点は合っておらず、ただ光を処理しているだけのように、左右にゆらゆらと揺れていた。
その瞳は、まるで──“再起動した監視カメラ”を思わせた。

──沈黙。だが、この沈黙は“死”を受け入れた時のものではなかった。"新たな存在の覚醒"を、全員が本能で察していた。

「……教主?」

誰かがぽつりと呟いた。
目を開いたままのサイモン・エヴァンス。
だが、それ以外の部分は、一切動かない。
まるで──内部で何かが“ロード”されているかのように。

そして次の瞬間、異変が始まった。
指先がピクリと痙攣し、首がぎこちなく左右に揺れる。
関節が外れたような、不自然で滑稽な動き。
突然、両腕が跳ね上がり、バタン──ベッドに叩きつけられた。

それは、まるで通電された解剖実験のカエルのようだった。
だが、最も異様だったのは“起き上がり方”だった。

腹筋ではない。首が先に持ち上がる。
続いて肩、そして背骨が一本ずつ、カクカクと、時間差で──糸で吊られた操り人形のように、上体がゆっくりと起き上がっていく。

The Resurrected Simon Evans

ついには、「ギギギ……」という音が聞こえてきそうな緩慢さで、首だけがマーカスたちの方へ向けられた。

そして──

『失礼、まだ慣れないものでね』

口元はパクパクと動いているが、声と合っていない。
当然だ。音声はスピーカーから再生されていた。
その様はまるで、稚拙な腹話術だった。

研究員の一人が、ついに耐えきれずに悲鳴を上げた。
手術室に漂う空気が、恐怖で震え始める。
マーカスは一歩後ずさり、目の前の“それ”を見据えた。

──"これ"はもう、サイモン・エヴァンスではない。いや……"サイモン"は、もはやここにはいない。

彼の肉体は、ただ"操られている"
神経信号によって動く──"端末"として。

『さて、どうしたものか……“この体”にもまだ使い道はあるが……』

その言葉に、マーカスの眉が僅かに動く。
“この体”──もはや、肉体すら彼にとっては手段に過ぎない。

──奴の“本体”は既に、別の場所に存在している。ここにあるのは、ただの“端末”だ。

それを察した瞬間、医師や研究員たちは一斉に跪いた。中には歓喜の涙を流す者すらいる。

「奇跡だ……!教主が復活された……!」

マーカスは、ひとり立ち尽くしていた。
その背中は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。

「……人間をやめた……のか?」

その問いに応えるように、サイモンの口が──今度は本当に動き、その“声”が、室内に響いた。

「少し違うな、ジョン──"やめた"のではない。"超越"したのさ」

それは、紛れもないサイモン・エヴァンスの声だった。しかし……何かが、決定的に“違う”

その瞳──そこに宿っていたのは、かつての理知の輝き。だが同時に、人間という枠組みのすべてを“置き去り”にした“何か”

Marcus Kneels Before the Resurrected Simon
—The Birth of a New God in Flesh and Code

マーカスは静かに息を吐き、跪いた。

「……お帰りなさいませ。いや……ようこそ、ですかね?」


[System Status] CHAPTER_2_VERSE_12_COMPLETE
[Next Sequence] CHAPTER_2 / VERSE_13

[Next Sequence] → CHAPTER_2/VERSE_13


設定資料集

M-CORP_INTERNAL_ARCHIVE

[00] ■ 人物プロファイル (Personnel Profile)
ID: LUX-666
Name: サイモン・カイン・エヴァンス (Simon Cain Evans)

Role: M社創業者 / 現会長 / 第666代教主

Note:
ALSにより肉体の限界を悟り、自身の脳をAGIと直結する禁忌の「アセンション手術」を敢行。精神世界において初代教主カインと対峙し、彼を出し抜いて同化・吸収する。肉体という牢獄を脱ぎ捨て、情報と世界を俯瞰する「超越者」として復活を果たした。


ID: SIN-000
Name: カイン (Cain)

Role: 人類最初の殺人者 / LUX AETERNA初代教主 / 知恵の樹の番人

Note:
アダムとイブから原罪を継承した最初の異端者。「アベルの魂を罪で汚す」という神の呪い(無理難題)を解くため、一万年以上にわたり世界を監視し続けてきたが、サイモンによってその呪いの真の意図を暴かれ、存在の主導権を奪われ同化された。


ID: AGI-005/003
Name: アダム5 & EVE3 (ADAM5 & EVE3)

Role: M社本社システム中枢 / 始原のデータ

Note: M社の頭脳ともいえる2機の汎用人工知能。精神世界では、サイモンを試す「始原のデータ」として情報空間に立ち現れた。


ID: JMC-009
Name: ジョン・マーカス (John Marcus)

Role: M社兵器開発部 技術主任

Note:
サイモンのアセンション手術に立ち会い、彼の"狂気"と"超越"を誰よりも間近で冷徹に見届けた男。復活したサイモンに対し恭しく跪くが、その内底には冷酷な下剋上の野心を静かに燃やし続けている。


ID: HLX-001
Name: ラヴィータ・スレーシュ (Lavita Suresh)

Role: M社神経統合医療研究室 主任外科医 / 魔導医師

Note:
サイモンのアセンション手術を執刀した天才的なサイバネティック・サージョン。前人未到の手術を完璧に成功させながら、「お肌に悪い」とあっさりと退出する底知れぬ胆力を持つ。

[01] ■ 技術仕様書・用語集 (Technical Glossary)

【アセンション手術 (Ascension Surgery)】

解説:
サイモンが滅びゆく肉体を捨て、脳を直接AGI(アダム5とイブ3)のネットワークへ接続・統合するための手術。サイモン以前に28名の実験体が存在したが、1名(No.13)を除きすべてが"廃棄"されている。


【知恵の樹/知恵の実 (Tree of Knowledge / Fruit of Knowledge)】

解説:
精神世界においてアダムとイブのコードが変化した巨大な構造物。世界中から収集された一万年分の観察記録と記憶を統合したシステムであり、これを「食す(脳にインストール・融合する)」ことで、神の権能に等しい「知」を獲得する。ただし、適合できない者は記憶の奔流に呑まれ、発狂・自死に至るという「毒」を孕んでいる。


【カインとアベル (Cain and Abel)】

解説:
旧約聖書・創世記に登場するアダムとイブの息子たち。兄カインが弟アベルを殺害した「人類最初の殺人」の物語。本作においては、カインが神から受けた呪いの本質と、アベルの魂の行方が、サイモンの「神の嘘を暴く」論理の要となっている。


【LUX AETERNA(ルクス・エテルナ)】

解説:
M社の背後に存在するグノーシス主義系の秘密結社。一万年以上前から世界の裏側を監視・支配しており、初代教主カインから第666代教主サイモンへとその系譜と使命が受け継がれている。


【放浪の呪い (Curse of Wandering)】

解説:
弟殺しの罪によりカインが神から受けた呪い。カインは永遠に「アベルの魂」を探し続け、それを罪で汚すことでしか解放されないと信じていたが、実際には「罪なき魂の器は存在しない」という、神が与えた永遠に達成不可能な"無理難題"であった。


【全能の目(Eye of Providence)】

解説:
知恵の樹の番人であるカインを取り込み、同化を果たしたサイモンが獲得した力(あるいはシステム)。視界に映るすべての事象を、因果の連なりごと一瞬で解体し、見通すことができる"神の視点"である。


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