SNSの守護天使:第2章13節
死神の右目は真紅に輝く

“The Crimson Shining Eye”
時はサイモンのアセンション前に遡る──
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2019-09-13T16:30:00-07:00M社本社ビル最上階──地上50階手術室の隣のブリーフィングルーム。
壁一面に設置されたホロスクリーンには、脳神経接続のプロセス、人工神経インターフェースのリアルタイムデータ、アダム5とイブ3の最終調整結果が映し出されている。
マーカスは無機質な白の会議テーブルに腰を下ろし、四方から注がれる視線を無言で受け流しながら、静かに腕を組んでいた。
テーブルを囲むのは、サイモンの手術を担う脳神経外科医団、AI技術者たち、そしてLUXに名を連ねる上級研究員たち。
その中でひときわ異彩を放っていたのは──原色を散りばめたサリー風のラボコートを身にまとい、場の空気に妖艶な違和感を漂わせるアジア人女性だった。
マーカスはわずかに眉をひそめる。
彼女の名は、ラヴィータ・スレーシュ。M社神経統合医療研究室主任外科医にして、H.E.L.I.X.技術顧問。
社内では、“ブレイン・スミス”の異名で知られる、魔導医師その人である。
その出自は、インドの貧民街。
幼少より“神童”と呼ばれ、廃棄された端末と盗電で得たわずかな電力を頼りに、数理と回路設計を独学。
そして17歳にして独力で“ゼノアーキテクチャ理論”を構築し、量子もどき演算構造の基礎を打ち立てた。
この異能的な功績は、当然のごとくM社の目に留まり、彼女は奨学金と研究設備の全面支援を受けて“囲い込まれる”こととなる。
やがてラヴィータは、博士号と医師免許の双方を持つ“ダブルドクター”として、M社とLUX内で確固たる地位を築くに至った。
マーカスはラヴィータを苦手──いや、率直に言えば嫌悪していた。
それは女性に対する不信感や蔑視といった単純な偏見ではなく、もっと深く、別のレイヤーに根ざした感情だった。
アセンションに備え、これまで彼女と幾度も打ち合わせを重ねる中で、マーカスはある確信を得ていた。
──徹底した合理主義。鋭敏な直感。桁外れの知性。そして──飽くなき探求心。
そう、ラヴィータ・スレーシュは、ジェイコブ・アマノの“女性版”とも言うべき存在だったのだ。
アンジェラの存在さえなければ、ジェイコブは、マーカスにとって唯一無二の友と呼べる存在だったかもしれない。
彼は基本的にジェイコブを嫌ってはいなかった。むしろ、その才能と不器用ながらも誠実な人柄に、敬意と親しみを抱いていた。
それでも、ラヴィータに対しては、なぜか真逆の感情が湧き上がった。
ジェイコブとラヴィータ──その間に横たわる決定的な違い。
それは、自らの欲望、正確には知的探求欲を満たすために、LUXに魂を売ったか否か──その一点に尽きる。
ラヴィータは、それだけの才を持ちながら──いや、だからこそなのか──M社やLUXが秘密裏に行う、人体実験を手始めとした、非人道的な研究に手を染めている。
しかも、それを“倫理の後ろ暗さ”としてではなく、あたかもゲームのように楽しんでいる。
その軽やかすぎる“悪”への踏み込み方に、マーカスはどうしようもなく苛立ちを覚えるのだった。
──とはいえ、俺も同じ穴の狢だな……
マーカスはひとつ深呼吸をし、思考を押しとどめるようにして気持ちを静めた。
そして、会議テーブルの中心に座るサイモン・エヴァンスへと視線を向ける。
そのタイミングで、ホロスクリーンの表示が切り替わった。
淡い青の光が室内を照らす中、研究員の一人が、慎重な口調で口を開く。
「……教主、“アセンション”手術の最終確認をさせていただきます」
その言葉に、場の空気が一瞬だけ張り詰める。
サイモンは無言のまま、モニターを見つめ、わずかに指を動かした。
「始めてください」
研究員は一礼し、手元のデバイスに視線を落とした。
「我々がこれまでに行った実験では、“エデン・リンク”と“バベル・リンク”の二方式が試されております。エデン・リンクとは、アダムを左脳、イブを右脳に接続する形式です」
ホログラムに、脳の模式図が浮かび上がる。
左脳には"ADAM4"、右脳には"EVE2.8"のアイコンが表示され、それぞれの特性が簡潔に記されていた。

「アダムは、論理的思考、計算、言語処理を司るアーキテクチャで設計されており、イブは、直感的判断、創造性、感情の処理を担うよう設計されています。人間の脳構造において、左脳は分析・論理・言語、右脳は直感・感情・空間認識を司ります。この対応関係に基づき、アダムを左脳、イブを右脳に接続する方式を“エデン・リンク”と定義しました」
続いて、ホロスクリーンに実験データが映し出される。エデン・リンク──順接続された被験者たちの経過ログが次々と表示されていく。
「初期段階では、10名の被験者が失敗により廃棄されましたが、その後の5名については安定した経過を確認。さらなるサンプルは不要と判断し、この5名についても廃棄済みです」
感情の一切を排した、淡々とした口調だった。
──“廃棄”、ね……
マーカスは心の中で呟き、その哀れな被験者たちを“廃棄”へ追い込んだであろう張本人、脳神経接続手術の執刀医──ラヴィータへと視線を向けた。

だが彼女は、自らのネイルに視線を落としたまま、何食わぬ顔で手元をいじっていた。
まるで今の説明など聞こえてもいなければ、関心もないと言わんばかりに。
マーカスの苛立ちをよそに、研究員は次の画面へと慎重に切り替えた。
「一方で、バベル・リンクは……」
彼はホログラムを操作し、次の模式図を呼び出した。今度は左脳に"EVE2.8"、右脳に"ADAM4"のアイコンが表示される。

「バベル・リンクとは、アダムを右脳、イブを左脳に接続する方式です。エデン・リンクとは逆の構成となり、論理処理を右脳に、感情処理を左脳に接続することで、新たな認知能力の可能性を探ることが目的でした」
続いて、13名の被験者のデータが一覧表示される。
そこには、異常な脳波パターンや、急激な精神崩壊を示すグラフが並んでいた。
「初期の7名は、手術プロセスの適応段階で脳機能が破綻し、回復不能となりました。生存した6名のうち5名は精神に変調をきたした末に自死、あるいは“廃棄”されています。唯一の生存者はSubject No.13──かつて“CCS”に所属していた傭兵です」
CCS(Crusaders' Children Security)──元々は独立系の民間軍事会社で、数々の戦場で実績を重ね、兵士育成と特殊作戦の請負を主業としていた。
典型的な“戦争ビジネス”のプレイヤーであり、マーカスもその一員だった。
だが──ある日を境に、状況が一変する。
M社による買収──IT企業がPMCを傘下に収めるという異例の動きは、軍事業界内でさえ驚きをもって迎えられた。その意図は、当時のCCS内部でも明らかにされていなかった。マーカスもまた、理由を知らない一人だった。
「なんでIT企業が、俺たちみたいな戦争屋を?」
皮肉混じりに囁かれたその疑問に、答えを持つ者はいなかった。だが、資金の流れだけは明確に変わった。買収後、CCSは急速に変質していく。
予算は潤沢となり、最新鋭の装備と兵器が次々と流れ込んだ。
IT技術者たちが現場に常駐し、“実験”と称されるデータ収集が日常となった。
だが、多くの者たちは深く考えなかった。
彼らにとって重要なのは、誰が出資しているかではなく──契約が継続するかどうかだったからだ。
そして、その変化の渦中にいたのが、マーカスだった。
彼はCCSの技術部門に所属し、兵士ではなく──兵器の開発者だった。
M社が何を求めているのか、当時の彼にとってはどうでもよかった。自分の仕事をこなし、求められた技術とデータを提供する。それが何を意味するかなど、考えようともしなかった。
──その代償が、何をもたらすのか。
彼が知るのは、ずっと後のことだった。
サイモンはモニターからゆっくりと視線を外し、
執刀医であるラヴィータ・スレーシュの方を向く。
「Dr.スレーシュ、その生存者──No.13の、現在の容態は?」
ラヴィータはそこでようやく手元から顔を上げ、気怠げに、しかし淡々と語る。
「……そうですねぇ……“肉体的な側面”に限定すれば、経過は非常に良好です。No.13はミッション中に頭部を銃撃され、植物状態に陥りました。しかし術後、昏睡からの回復を経て、完全に正常な身体機能を取り戻しています。ただし──記憶は一切残っておらず、術前とは明らかに異なる“別の意識構造”──平たく言えば“別人格”が形成されています」
その言葉と同時に、モニターの片隅に一つのファイルが表示された。
そこに無機質な文字列で記されていたのは、かつての彼のコールサイン──
【Subject No.13 :JUDAS】
彼は戦場で頭部を銃撃された。
弾丸は右眼窩から進入し、脳を抉り抜く。
通常であれば、即死は免れなかったはずの傷。
だが彼は、“奇跡的に”生還した。
──いや、それを“生還”と呼ぶべきなのか。
それすらも、もはや定かではなかった。
「No.13には失われた右目の代わりに“兵器開発部製”の義眼型BMI“ユニットASE”をインプラントし、ASE経由でAGIとの接続を試みましたが……そこに因果関係は無いと推察します──あくまで私個人の見解ですが」
ラヴィータは“兵器開発部製”の部分にわずかに語調を強め、チラリとマーカスの表情をうかがう。

ホロモニターに画像が投影された。それは、手術直後に撮影された、痛々しくも不気味な一枚だった。
剃り上げられた頭部には無数の縫合痕が走り、露出した機械部品が生体組織に喰い込んでいた。金属製のインプラントは皮膚を貫き、神経に直結するケーブルが頭蓋に絡みつくように差し込まれている。
右目だけが、かっと見開かれ──沈着な赤の光を宿していた。
それは、“かつての彼”と“今の彼”の境界線。
彼の存在そのものが、“人間”と“何か”の狭間にあることを、まるで象徴しているかのようだった。
マーカスは、静かにその画像を見つめた。
“古巣”から入手した、彼の現役時代の記録が脳裏で再生されていく。
──戦場では、“生き残った者”だけが英雄になる。
だが、あまりにも生き延びすぎた者は──“死神”と呼ばれる。
それが──JUDAS。
彼は、最前線のさらに一歩奥、“死そのもの”に最も近い場所に立っていた。
どんな地獄に投げ込まれても、彼は必ず生還した。
生き延びるためなら、手段を選ばない。
それこそが、彼の存在理由だった。
仲間が倒れても、彼は立ち続けた。
圧倒的な戦場適応能力、異常な状況判断力、冷酷な決断力──そして何より、生存への執念。
どんな作戦であれ、生き残るのは彼だった。
「JUDASがいる部隊は全滅する」
「JUDASと組めば生き延びられる」
そのどちらもが、戦場の定説となっていた。
“JUDAS(裏切り者)”という異名は皮肉でしかない。
彼は仲間を裏切ったことはない。
ただ──誰よりも、生き残った。
そしてそれが、戦場においては──“最大の罪”だった。
沈黙のなかで、サイモンがわずかに眉を上げ、ゆっくりと問いかける。
「……別人格?」
ラヴィータは、意味ありげな笑みを浮かべると、マーカスに目で合図を送りながら、ネイルの手入れを再開した。
マーカスはわざとらしく溜息をつき、手元のリモコンを操作してホロスクリーンに資料を投影する。
「それについては、私から説明しましょう」
スクリーンに映し出されたのは、術後の脳波データと神経接続の解析結果だった。
マーカスは画面を指し示しながら、冷静な口調で言葉を綴る。
「現在、彼の脳はBMIを介してアダム4とイブ2.8に接続されています。しかし──頭部への損傷があまりに深刻で、彼本来の人格の回復は絶望的でした」
スライドが切り替わる。
そこには、術後の神経活動を示すグラフが並び、通常の脳機能と大きく乖離していた。
「そこで、AIたちは“彼を生かすため”に、新たな人格を生成し──それを、彼の脳内に“移植”したのです」
室内に、短い沈黙が流れる。
サイモンは興味深げに顎に手を添え、静かに問い返す。
「新たな人格を……“生成”?」
マーカスは一瞬だけ目を伏せ、やがて静かに頷いた。
「はい。正確なアルゴリズムは現在も解析中ですが……結論から言えば、彼の“現在の人格”は、もはや別人です」
マーカスが端末を操作すると、ホロスクリーンに動画ファイルが表示される。
タイムスタンプは2019年7月12日──今からおよそ2ヶ月前の記録だった。
暗い病室。静寂に包まれた空間。ベッドに横たわる男の姿。右目には包帯が巻かれ、左目だけがうっすらと開いている。意識を取り戻したばかりのようで、瞬きを繰り返しながら視界をぼやかせていた。周囲の様子を認識しようとしているのか、それとも夢と現実の境を探っているのか。
カツ、カツ──。
白衣をまとった医師が、ヒールを鳴らしながらベッドのそばへと近づく。臨床の場にはあまりに場違いな真っ赤なハイヒール。そして、男を誘惑する以外の意図が見えない短いスカート──その女医こそ、ラヴィータ・スレーシュその人だった。
ポケットから小型ライトを取り出し、JUDASの左目に光を当てる。
「……調子はいかが? まぶしかったら瞬きしてくださいね~」
光の刺激に、JUDASはゆっくりと目を閉じ、また開く。その動作はどこか鈍く、意識の奥深くから引き上げられるようなぎこちなさがあった。
「……あ、ぁ……」
喉を震わせるような、かすれた声。声帯が動きに慣れていないのか、言葉を探しているようにも聞こえる。
「はいはい、落ち着いて下さいね。無理に話さなくていいですよ。少しずつで構いませんから」
ラヴィータはそう言いながら、ゆっくりと手をかざす。指を三本立てて、JUDASの目の前に示した。
「今、何本に見えますか~?」
JUDASはしばらく指を見つめた後、わずかに眉を寄せる。
「……さ……さん、ぼん……?」
声が震え、ぎこちない。まるで言葉を思い出すのに時間がかかるような口調だった。
ラヴィータは頷き、記録端末に入力する。
「ん~、お名前を言えますか?」
JUDASは天井を見つめ、しばし沈黙する。その瞳の奥に、かすかな迷いが浮かんでいた。
「……な……なまえ……?」
僅かな間の後、口を開いた。
「……ロバート……」
慎重に言葉を選ぶような口調。
「ロバート・ホープ……」
まるで、それが自分の名前だと“納得”しようとしているかのように。
「年齢は?」
JUDAS──いや、ロバートは間を空けてから、ゆっくりと答えた。
「……に……じゅう……よ……ん……さい……」
──JUDAS(戦場の死神)、消失。 ──ロバート・ホープ、誕生。
ラヴィータはわずかに目を細め、記録端末を操作する。
「何が起きたか覚えていますか?」
ロバートの左目がかすかに揺れ、霧の中を探るような表情になる。
「……おんなのこが……」「……信号……あれ?……赤だった……?」 「……ひかれそうになって……ぼくが……かばって……」
言葉が途切れ、喉が鳴る。
「……そこから……おぼえて……ない……あ、あれ……?こ、ここは……?」
「あなたは事故に遭い、この病院に運び込まれました」
ラヴィータは落ち着いた声で答える。一拍置いて言葉を続けた。
「手術は成功して、こうして意識を取り戻しました。ひとまずは安心してくださいね」
ロバートは遠くを見つめるように、ゆっくりと瞬きをする。
「ご家族のことを聞かせて下さる?」
その瞬間──ロバートの表情がわずかに歪んだ。
「……りょうしんは……2014ねんに……じこで……」「……いなくなった……」
「他にご家族は?」
「…いもうと…フローラ……十歳したの……」「……でも……二年前……ころされた……」 「ぼくの……せい……だ……」
ピッ……ピッピッピッ……!
突如、心拍モニターの音が跳ね上がる。ロバートの腕に力がこもり、次の瞬間──上半身が跳ね上がるように起き上がった。
「セキュリティ、拘束班を──!」
男性スタッフ3名がロバートを抑え込もうと駆け寄る。だが、抑え込めない。
ベッドの手すりが軋み、スタッフの一人が弾かれる。
そのもみ合いの最中、右目の包帯とガーゼが剥がれた。
──その瞬間。
ロバートの右目が、赤く光った。内側から炎を灯すような、異様な輝きだった。
スタッフが怯んだその瞬間、病室のドアが開いた。
黒いスーツの男が現れる。マーカスだった。
彼は冷静にスマートフォンを取り出し、画面を操作する。
ピッ──。
赤い光が消える。
ロバートはそのまま力を失い、ベッドへと崩れ落ちた。
静寂が戻る中、ラヴィータとスタッフたちが息を呑む。
マーカスは無言でスマホをしまい、倒れたロバートを見下ろした。
映像が切り替わる。タイムスタンプは先ほどの映像から2日後。薄暗い病室。モニターに映し出された映像は、無機質な電子音とともに再生される。
ベッドの上で上体を起こすロバート。その脇には、スーツ姿の男──ジョン・マーカスが静かに立っていた。
「はじめまして、ホープ君。私はジョン・マーカス、M社の者だ」
マーカスは淡々と告げる。ロバートはまだ意識が覚束ない様子で瞬きをし、僅かに混乱した表情を見せた。
「あ、はい。M社の……ですか?」
「ああ。端的に説明しよう。君はひどい事故に遭い、右目を失い、脳にも深刻な損傷を負った」
ロバートの表情がわずかに曇る。彼は反射的に、包帯の巻かれた右目のあたりをそっと指でなぞった。
「はい……」
マーカスはポケットから小型のデバイスを取り出し、ロバートの方へ軽く向けた。
「現在、君の失われた右目の代わりに“これ”と同じ物、M社の義眼型デバイス──ユニットASEのプロトタイプが装着されている。これは義眼としての機能に加え、君の損傷した脳神経を補助する役割を担っている」
ロバートの瞳がわずかに揺れる。
「……義眼型デバイス?」
「そうだ。医者が匙を投げた君がこうして意識を取り戻せたのも、ASEの力によるところが大きいと思われる」
ロバートはゆっくりと手を伸ばし、病室の窓辺に置かれた水の入ったコップを取ろうとした。指先がわずかに震えるが、それでも問題なく手は動く。しかし、彼の表情には明らかに戸惑いが浮かんでいた。
「……でも、何故M社が僕なんかを?」
マーカスは穏やかな口調で続けた。
「いい質問だ。君の勇敢な行動をニュースで見たよ。幼い少女を庇い、命を賭して守ったその姿に、私達は深く感銘を受けた」
ロバートは小さく瞬きをする。それは、自分が“ロバート・ホープ”として確かに持っている記憶だった。
「──何か力になれないか?」
マーカスはゆっくりと手を広げ、言葉を継ぐ。
「そう思案したところ、私の部署で開発中だったASEが使えるのではないかと考えたのさ」
理に適った説明だった。ロバートはゆっくりと頷く。だが──
「──ただし」
マーカスの声色がわずかに変わる。穏やかでありながら、どこか鋭さを孕んだ低い響き。
「ユニットASEの件は極秘事項だ」
ロバートの目が揺れた。
「世間的には──君は"死んだ"ことになっている」
「……え……?」
思考が追いつかず、一瞬息が詰まる。
「だから、知り合いに連絡などは控えてほしい」
ロバートは何かを言いかけたが、喉が詰まり、言葉が出てこなかった。その反応を、マーカスは見逃さない。
「どうした?」
ロバートは、じっとマーカスを見つめる。その顔には、明らかな困惑が浮かんでいた。
「……思い出せないんです」
ぽつりと呟くように言葉をこぼす。
「両親や妹のことは覚えているんですけど……自分の仕事や友人、知人のことが……」
断片的な記憶。そこに“自分”は確かにあるのに、思い出そうとすると霧がかかったように曖昧になる。
その言葉にマーカスは口元を僅かに歪めた。しかし、胸の内を悟られまいと、こともなげに言った。
「そうか……ロバート、と呼んでもいいかな?君は本来なら死んでいたほどの重傷を負っていたんだ。記憶の欠落や齟齬は、ある意味"許容範囲"とも言えるかもしれない」
ロバートは、その言葉を咀嚼するように、ゆっくり数度頷いた。
「君は意識を取り戻してまだ二日だ。治療を続けていくうちに、戻る記憶もあるだろう。我々で把握している君の情報は、後日共有するよ」
「……はい。よろしくお願いします」
「それと、君の新しい身分を含め、今後の生活については心配しなくていい。M社が全面的にバックアップする」
マーカスは言葉を区切り、ロバートの目を見据える。
「今は、まず身体を癒すことだけを考えなさい」
ロバートはわずかに目を伏せ、深く息を吐く。
「……ありがとうございます」
マーカスは満足げに頷き、立ち上がる。身なりを整え、ロバートを見下ろしながら微かに微笑む。
「さて、今日のところはお暇するよ。また見舞いに来る。何か必要なものがあれば、病院のスタッフに伝えてくれ」
ロバートは静かに頷いた。
映像は、そこで途切れた。ホログラムの揺らぎが消え、暗がりに戻った空間。
サイモンは、僅かに上体を傾け、ゆっくりと問いかけた。
「ロバート・ホープというのは、Subject No.13と関わりのあった人物なのかね?彼の記憶の断片からAIが再構築した人格の可能性は?」
マーカスは一度視線を落とし、静かに首を横に振る。
「……完全な否定はできません。ただ、現時点では、その可能性はかなり低いと見ています。そもそも、傭兵という人種には素性の怪しい者が一定数──いや、むしろ多数派と言っていい。CCSに登録された身分情報の大半が偽造されていることも珍しくありません」
サイモンは興味深げに眉を上げ、続きを促すように視線で合図を送った。
「No.13も、その例に漏れず、個人情報はほぼ空白です。私物のスマートフォンやPC、ネットワーク端末を解析しましたが、プライベートな記録──写真、連絡履歴、行動ログといったものはほぼ完全に削除されていました。“ロバート・ホープ”とつながるような痕跡も、一切出てきません」
少し自嘲気味に、マーカスは肩をすくめた。
「判明したのは、彼が宅配ピザを好んでいたという、実にどうでもいい情報くらいです」
サイモンは腕を組み、わずかに表情を引き締める。
「つまり、AIがNo.13とは無関係な人物の人格を構築し、その肉体に“移植”した可能性が高い──そういうことかね」
マーカスは頷いた。
「ええ。ただ、その“ロバート・ホープ”という青年は、確かに実在していました。Subject No.13の手術が行われる直前、彼が語った通りの経緯で──事故死しています」
言葉を切ると、マーカスはサイモンの視線を正面から受け止める。
「そして彼は、当社が運営するSNSサービスの熱心なユーザーでした。WEB日記やSNSに、膨大なデータが残存していたのです。くわえて、彼には世間一般に知られるものとは別の──“もう1つの顔”がありました」
次の瞬間、ホロスクリーンにロバート・ホープがネット上に残した“痕跡”が浮かび上がる。サイモンの目がわずかに細められた。
ロバート本人のWEB日記やSNSのログに並んで、一際目を引くデータが表示される。それはM社運営のオンラインゲームプラットフォームにおける“J”というアカウントの戦績と、SNS上での“J”を巡る数々の投稿だった。
その多くは、“J”のFPS・格闘・スポーツといったジャンルを問わない人間離れしたテクニックと99%を超える勝率、“弱きを助け、強きを挫く”という理念に基づいた英雄的行動を賞賛する内容だった。
多くのユーザーは彼を“JESUS(ジーザス)”と呼び、熱狂的に崇めていた。
「JESUS……救世主、か」
サイモンが面白そうに呟く。
「はい。生前のロバート・ホープは、デジタル空間において無自覚な“救世主(ヒーロー)”として振る舞っていました。そしてAIは、その膨大なプレイデータと発言ログを、彼の人格形成のベースにした」
「では、現在No.13に定着している人格は──それらのデータをもとに再構築された“救世主”だと?」
沈黙。マーカスは数秒の間を置き、慎重に言葉を選ぶ。
「……調査中ですが、おそらく」
サイモンはホロスクリーンに目を向けながら、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「非常に興味深いケースだ。生前のユーザーのSNS等への投稿内容を解析し、死後も“投稿を続ける”サービスは存在するが……“これ”はその比ではないな」
サイモンの笑みが、歪な愉悦を含んで深くなる。
「最前線で味方すら恐怖させた戦場の死神“JUDAS(裏切り者)”の肉体に、デジタル空間の“JESUS(救世主)”の魂を宿らせる……AIのユーモアセンスには感服するよ」
ロバートのWEB日記、SNSのデータ、ゲーマーとしてのプレイデータ。AIがそれを解析し、再構築した疑似人格。
しかし──なぜAIが、数あるデータの中からあえて“彼”を選んだのか。
それだけは、未だに解明できていなかった。
マーカスは画面を操作し、No.13以外にバベル・リンクを施された五名の被験者たちのデータを映し出す。
「失敗した5名の被験者たちは、本来の人格が残存していたため、"上書き"がうまくいかず、術後に精神崩壊を引き起こしました。しかし、Subject No.13は、脳の損傷によって本来の人格が完全に破壊されていた。それゆえ、新たな人格の"移植"に成功した可能性が高いと推測されます」
サイモンは軽く顎に手を添え、マーカスを見据える。
「なるほど。つまり、私も"失敗"する公算が高い、というわけか」
口元には微笑を浮かべながらも、その声には確かな重みがあった。
マーカスはスクリーンに映し出されたデータを指し示しながら、淡々と説明を続ける。
「術後の被験者たちの脳活動を分析した結果、エデン・リンクでは本来備わっていた能力が“拡張”される傾向にあります。たとえば、記憶力に優れた者は一度見ただけで数百行のコードを再現し、音感に秀でた者は、絶対音感に近い精度で複雑な旋律を聞き分けるようになった。美術の素養があった者は、機械のような精密描写を可能とし、暗算が得意だった者は、桁違いの演算速度で複雑な数式を即座に処理するまでに至っています」
続いて、スクリーンの映像が切り替わる。
「対照的に、バベル・リンクの被験者は、新たな能力に“目覚める”一方で、別人格が発現し、多重人格化します。つまり、元の人格が残存したままリンクを試みた場合──高確率で“衝突”が起きる。その結果が何をもたらすかは、先の5名の“崩壊”が示している通りです」
一瞬、空気が張り詰める。
研究員たちの間に走る微細な緊張をよそに、マーカスは淡々と続けた。
「少なくとも、私なら……御免被りたいですね」
サイモンは、その言葉にわずかに口角を上げた。
「忌憚のない意見をありがとう」
その声音は、むしろ楽しげですらあった。そして、サイモンは穏やかに続ける。
「──しかし、それでも……私はバベル・リンクを選ぶ」
会議室の空気が凍りつく。時間すら一瞬だけ足を止めたかのように、全員が沈黙に囚われた。
マーカスの隣にいた主任研究員が困惑の色を滲ませて口を開きかけるが──サイモンの視線が、その動きを静かに制した。
「心配はいらない」
サイモンはゆっくりと椅子の背にもたれ、静かに言葉を紡ぐ。
「新人格とやらも、受け入れ、統合し、糧とする……その程度の試練も超えられぬ者に、“牢獄”を打ち破る資格はない」
その言葉に、周囲の研究員たちがざわめく。
──“牢獄”。
説明はなされなかったが、マーカスには理解できた。
それは単なる肉体の檻ではない。
不治の病に犯された、不完全な存在としての自らの宿命そのもの──彼はそれを“脱出”しようとしているのだ。
ラヴィータがふーっと爪に息を吹きかけた。
賞賛か、嘲笑か、それともただ爪磨きの仕上げか──誰にも分からない。
──よくやる……
マーカスは短く息を吐き、サイモンを見据えて言った。
「承知しました。では、バベル・リンクで最終調整に入ります」
そう言い残し、彼は席を立つ。
背後の出口へと向かいながら、口元にわずかな歪みを浮かべた。
──まあ、好きにすればいいさ。失敗すればそれで良し。成功しても、“保険”は用意してある。どう転んでも──笑うのは俺だ。
しかし──その瞬間、
「ジョン、頼りにしている。よろしく頼むよ」
背後から響いたサイモンの声には、柔らかさと不気味さが同居していた。
まるでマーカスの内心すら全て見透かしているかのような、底知れぬ余裕。
マーカスは足を止め、ゆっくりと振り返ると、静かに一礼する。
「はっ。微力なれど……全力を以て──」
サイモンはその姿をじっと見つめていた。
その瞳に、疑念も迷いもなかった──むしろ、まるで“すでに答えを知っている者”のような、余裕すら見て取れた。
[System Timestamp]
2019-10-22T10:30:00-07:00──サイモンのアセンションから1か月あまり。
マーカスはM社系列の総合病院のエントランスを抜け、無駄のない足取りで目的の病室へと向かっていた。
この病院は主に富裕層を顧客としており、ここで提供される医療は一般的な水準を遥かに凌駕する。だがそれは同時に、金と権力を持つ者だけが享受できる“特権”でもあった。
当然、病室はすべてVIP待遇の個室。ここでは、プライバシーと快適さが最優先される。
マーカスは足を止め、目の前のネームプレートに視線を落とす。
【ロバート・スミス】
そっと指を伸ばしてインターフォンに触れる。しばしの沈黙の後、スピーカーから落ち着いた声が響いた。
「はい、どうぞ」
自動ドアが滑らかに開く。
中へ足を踏み入れる。そこは病室というよりも高級ホテルのスイートルームのようだった。
上質な調度品が配置され、洗練されたインテリアが空間を彩る。広々とした窓の向こうには都市の景観が広がり、室内には静寂と快適さが満ちていた。
奥のベッドでは、一人の青年がこちらを見つめていた。
マーカスが一歩、静かに踏み出すと、青年はベッドの上で体を起こし出迎えようとした。
「やあ、ロバート。もうすっかり良さそうだな」
マーカスの柔らかな声に、青年──ロバートは穏やかな笑みを浮かべる。
「マーカスさん!おかげさまで、かなり順調です」
ロバートが立ち上がろうとするが、マーカスは軽く片手を上げて制した。
「いや、そのままでいい」
そう言って、ベッドサイドの椅子にゆっくりと腰を下ろす。
ロバートの顔色は悪くなく、頬にはわずかな血色も戻っていた。
額にはまだ生々しい傷跡が残るが、伸び始めた頭髪が、頭部に刻まれた無数の手術痕を徐々に隠し始めており──彼の姿には、以前にはなかった“人間らしさ”が戻りつつあった。
順調な回復。それは見た目からも明らかだった。
かつてSubject No.13と呼ばれた半死の実験体。サイモン・エヴァンスを除けば、脳とAIの直接接続手術を受けた被験者の中で──唯一、“この世界に残った”存在だった。
“生前”の彼はCCS(Crusaders' Children Security)に所属していた伝説の傭兵だった。
CCS特殊戦術部隊“リーパーズ”第3分隊にて、数々の極秘作戦に従事し、その名を戦場に轟かせた。
その存在は、戦場に生きる者にとって“恐怖そのもの”だった。

──コールサイン:"JUDAS"。
敵はおろか、味方にすら"死神"と恐れられた男。戦場で決して倒れず、常に生還し続けた伝説の兵士。だが──今の彼には、その面影すらなかった。
「右目の調子も問題なさそうだな」
マーカスの視線が、ロバートの右目へと向かう。ロバートは微かに笑いながら、左目を覆い、右目だけで彼を見据えた。
「はい。すごい技術ですね。もう、全く違和感がないです」
その瞳は──かつてのJUDASではなかった。だが、その奥には確かに“何か”が宿っていた。
マーカスの目から見ても、ロバートの右目には不自然な点は見られなかった。彼が義眼であると知っているからこそ気づくが、それを知らぬ者がこの目を人工物だと見抜くのは、まず不可能だろう。
「はじめはこの“スマホみたいな表示”に慣れなかったんですけど、今はもう……前からこうだったような気すらします」
ロバートは、どこか無邪気に興奮した様子で笑った。
彼が言う“スマホみたいな表示”とは、失われた右目に代わって埋め込まれた、マーカスが技術主任を務めるM社兵器開発部製の試作型義眼兼ワイヤレスBMI、Unit-ASE(Advanced Sensory Enhancer)のMUD(Mixed User Display)のことである。
ASEは視界にデジタル情報をオーバーレイ表示し、音声や神経信号によって直感的な操作を可能にする。外部デバイスとの同期により、“視覚”という感覚そのものに拡張性を与える次世代インターフェースだった。
しかし──ロバート本人に詳細は伝えられていなかったが、ASEは単なる視覚器官の代替ではなかった。
それは、リアルタイムの視覚情報を解析・拡張し、脳内の知覚領域に直接フィードバックを返すことで、見るという行為そのものを再定義する補助脳機構だった。
視界に投影される情報は、神経信号を通じて制御可能なUIとして機能し、敵の動作予測、環境スキャン、顔認証や記録映像の巻き戻しすらも、瞬き一つで呼び出せる。
さらに、周囲のセンサーノードやM社製デバイスとの自動同期により、ASEは単なるセンサーではなく、ネットワークの眼としても機能する。
外見上は自然な義眼に見えるが、内部にはナノメートル単位で折りたたまれた量子演算サブモジュールが搭載されており、必要に応じて展開され、補助的な演算をリアルタイムで行う。
その開発コンセプトは、“現代の戦争において、必須装備と化した電子戦対策と、兵士の戦闘能力向上を同時に実現させるデバイス”という紛れもない兵器であった。
将来的には、装着者の良心や罪悪感を“フィルタリング”し、必要に応じて自由意志そのものを一時凍結させる。
そうした拡張性を見越した設計思想において、ASEは“感覚兵装”というより、“ヒューマン・オーソリティ・サプレッサー(人間性抑制装置)”と呼ぶほうが正確かもしれない。
そしてさらに重要な秘密──ASEは、ロバートの生命維持そのものを支える装置だった。
JUDASは戦場で頭部を狙撃された。
弾丸は右眼窩から頭蓋内へ進入し、脳を抉り、内部で跳ね回り──回復不能な損傷を与えた。
かつて"死神"と恐れられた最強の兵士は、その瞬間、物言わぬ肉塊と化した。
ただ呼吸をするだけの、“生ける屍”。
誰もが、JUDASの死を確信した。
だが──彼は“蘇った”。
それは、サイモン・エヴァンスによるアセンション手術の実験体として、AIとの脳神経接続手術を受けたことによる奇跡だった。
──だが、“復活”した彼は、JUDASではなかった。
意識は戻った。
しかし、そこにいたのはJUDASではなく、ロバート・ホープと名乗る男だった。
JUDASだった頃の記憶は完全に失われていた。
代わりにロバート・ホープとしての人格と記憶が、“新たに”宿っていた。
マーカスの調査によれば、ロバート・ホープは実在した人物だった。
JUDASが手術を受ける直前、交通事故で死亡していたことも確認されている。
──だが、その脳が摘出されたという記録はない。
記憶が抽出された形跡もない。
遺体は正式に火葬され、何の不審も報告されていなかった。
にもかかわらず──“蘇ったJUDAS”は、ロバート・ホープとしての記憶を持っていた。
両親が事故で亡くなったこと。妹がストーカーに襲われ殺されたこと。
断片的ながら彼は、そのすべてを“自分の記憶”として認識していた。
だが、それは明らかにおかしい。矛盾していた。“不可能”だった。
マーカスは、そこに“意図”を感じ取った。
さらなる調査の末、やがて驚くべき事実が浮かび上がる。
ロバート・ホープ──かつてM社のSNSやWEB日記のヘビーユーザーであり、ネットゲーマー達に“JESUS(救世主)”と称えられた男。
彼の個人データ、記憶の痕跡、言語傾向、情動傾向、検索履歴に至るまで──あらゆる情報が、“ネットワーク上”に膨大な量で残されていた。
そして、そこにAIの介入があった。
M社の汎用人工知能“EVE2.8”が、ロバートのアカウントにアクセスした形跡。
そのログをもとに、“ADAM4”が演算・再構築し、ロバート・ホープの“コピー”とも言うべき疑似人格を生成していた。
マーカスたちが接続実験の際にAIへ下した指示はただ一言──「この男の命を救え」それだけだった。
だが、AIは“人格を創造する”という手段を選んだ。
その人格をJUDASの損壊した脳にインストールし、彼を“復活”させた。
──問題は、その“選択”だった。
“生命維持のために人格データが必要だった”という理屈は理解できる。
JUDASの脳は回復不能であり、“彼自身”を蘇らせることはできなかったのだから。
代わりに、新しい“誰か”を宿すことで、生存を可能にする──それは理にかなっている。
しかし、なぜ“ロバート・ホープ”だったのか?
無作為な選出か?
それともAIが、何かしらの基準に従って“最適解”として彼を選び出したのか?
現時点で導き出せる、もっとも現実的な仮説──
手術直前に死亡した、JUDASと年齢が近く、身寄りのない人物。
そして、生前にSNSやブログなどで膨大な個人情報をネット上に残していた存在。
その“条件”が整っていたがゆえに、彼は“選ばれた”。
だが──その“選択”は、本当にAIの独断だったのか?
そこに、何者かの“意図”が介在していた可能性は否定できない。
JUDASは、本当に“死んだ”のか?
ロバート・ホープは、本当に“蘇った”のか?
あるいは──
今、目の前にいるロバート・ホープという男は、ただの“コピー”以上の何かなのか。
マーカスは黙ってロバートの義眼を見つめた。
──ユニットASE。
微かに反射する光が、彼の問いかけに答えるかのように、淡く瞬いていた。
「どうかしましたか?」
ロバートが怪訝な表情でマーカスを見つめ返す。
「ああ──ちょっと考えごとをしてただけだ」
マーカスは軽く目を伏せ、思考を振り払うように言った。
「そうだ、今月末に退院と聞いている。住居はこちらで用意してある。退院時に案内しよう。家具も最低限は整えてある。“ロバート・スミス”という新しい“身分”もな。他に必要なものがあれば遠慮なく言ってくれればいい」
今回の“復活”に際し、M社はロバートに新たな戸籍を用意し、既に病院ではその名で呼ばれていた。
ロバートというファーストネームはそのままに、ファミリーネームは──どうせ彼を手術したラヴィータ・スレーシュ博士の二つ名、“ブレイン・スミス”から取ったのだろう──安直で、平凡で、どこにでもいる名前。だが、それが逆にM社らしい。人格も過去も、いくらでも設計できるという思想の表れだ。
マーカスは唇の端をわずかに歪めた。
「ありがとうございます。こんなによくしてもらって……」
ロバートは目元を押さえながら呟く。だが、右目には涙の痕すらなかった。
マーカスはロバートの肩に手を置いた。
「気にしなくていい。君は退院後、M社で働いてもらう手はずになっている。恩に感じているなら、その時に返してくれればいい」
───“死神”にお誂え向きの仕事を用意してやる。
マーカスは、ロバートの“助命”をサイモンに嘆願した時のことを、無言のまま思い返していた。
[System Timestamp]
2019-10-15T14:30:00-07:00アセンション後、サイモンは手術室だった50階を自らの“聖域”と定め、会長室として改装した上で外界との接触を断った。
現在、エレベーターは49階止まりに設定され、社内の誰一人として彼の姿を見ることは叶わなくなった。
だが、サイモンは依然としてリモートを通じて幹部会議を“監視”しており、必要と判断すれば、あの不気味な電子音声で淡々と指示を下す。
「次の議題に入ります。Subject No.13の処遇についてです」
ホロスクリーンに、病室内のロバートの映像が浮かび上がる。
多少ふらつきはあるが、車椅子を使わずに自力で歩いている姿は、つい数ヶ月前には植物状態だったとは思えず、驚異的な回復を遂げているのは誰の目にも明らかだった。
「ユニットASEの作動データも十分に収集できたでしょう。これ以上のコストをかけるメリットも見当たりません。廃棄で問題ないのでは?」
財務統括部副部長、アイリーン・チャンが眉一つ動かさずに言った。
その発言に、マーカスはわずかに息を吐き、静かに口を開いた。
「その件ですが、提言があります。よろしいでしょうか」
アイリーンはタブレットをスワイプしながら、面倒そうに片眉を上げる。
「……手短にお願いします」

「No.13の廃棄は当面凍結とし、兵器開発部の管理下に移管したい」
ホロスクリーンに映るロバートを見つめたまま、マーカスは平坦な口調で告げた。
「理由は? 確かにユニットASEは兵器開発部の“新製品”ですが、被験者は“特殊”すぎます。これ以上のデータ収集に、果たして意味があるのかしら」
アイリーンの指が無造作にタブレットの端を叩く音が会議室に響く。彼女にとって、非効率に見える投資は即ち浪費だった。
マーカスはわずかに眉をひそめ、低く、しかし明確に言い放つ。
「特殊だからこそ、他に代えのきかない貴重なサンプルといえます。彼にインストールされた疑似人格──未解明の部分があまりに多い。それを解明することは、我々の"目的"に直結する可能性があります」
アイリーンは腕を組み、じっとマーカスを見据えた。
「"可能性"では納得できません。兵器開発部に追加でリソースを割く以上、明確なROI(投資利益率)を示してもらわないと」
一拍の沈黙の後、マーカスはアイリーンから視線を外し、会議室中央のホロディスプレイ──M社のロゴマークを見据える。
「……その判断は、会長に仰ぎたい」
ホロディスプレイがわずかに明滅する。
直後、無機質な電子音声が室内に響いた──
『……興味深い。続けてくれたまえ、ジョン』
サイモンの電子音声が応答すると、マーカスは唇の端をわずかに持ち上げ、ホロディスプレイに向き直った。
「我々の当面の課題は、ネットワークを介して人類の意志を統合すること。そのためには、個々の思考や感情のパターンを精緻に解析し、適切に“束ねる”ためのAIが必要不可欠です」
アイリーンが腕を組み、僅かに眉をひそめる。だがマーカスは意に介さず、“プレゼン”を続行する。
彼が指を動かすと、ホロディスプレイにロバートの神経活動データ、行動パターン、そしてユニットASEの解析情報が投影される。
「彼の“人格”は、AIによって再構築されたものですが、それが非常に自然に“自分自身”として機能している。つまり、自己認識を持つ疑似人格の成功例──それも、きわめて高精度なサンプルです」
アイリーンは依然として懐疑的な表情を崩さない。
「だから何? 人格が再構築できたからといって、それが“意志の統合”とどう繋がるの?」
マーカスは静かに言葉を重ねる。
「──これは、単なる擬似人格ではありません。“ネットワークを通じて形成された人格”なのです」
その一言に、会議室内にざわめきが走る。
マーカスはホロディスプレイを操作し、次のデータ群を呼び出す。そこにはロバート・スミスのSNSデータ、生前の投稿履歴、検索ワード、対話ログ──あらゆるデジタル残滓が整然と並んでいた。
「ロバート・ホープという“人間”は、SNS上の投稿、日記、検索履歴──あらゆるデジタル上の足跡をもとに再構成されました。“デジタル残留思念”から“個”の形成が可能だという、まさに生きた証明です」
マーカスはホロスクリーンに映し出されたデータ群を指し示しながら、淡々と語る。
「この“デジタル人格再構成プロセス”を発展させれば、我々の創ろうとしている世界にとっての“例外”──賛同せず、反発する者たちの思考をデバッグし、あるいは再インストールすることも可能になる。家族や友人どころか、本人にすら気づかれぬままに……」
会議室を静寂が包む。沈黙の中、ホロディスプレイのM社ロゴが揺らぎ、やがてサイモンの電子音声が響く。
『面白い……君はロバート・ホープを“パッチ”の雛型と見なしているわけか』
マーカスは無言で頷き、低い声で続けた。
「人の精神もまた、ネットワークと同じです。バグがあれば修正し、脆弱性があれば補強し、不要なプロセスは無効化する。我々が設計する世界に適応できない意識は、“アップデート”されるべきなのです」
一瞬の間。サイモンの思考時間。その後、機械の声にわずかな感情がにじむ。
『……理解した。つまり彼の存在は、“意志の最適化アルゴリズム”の基礎モデルとなりうる。統合とは、調和されたネットワークの創出。そして適応できぬ者は、適応するよう“補正”される──理に適っている』
マーカスの口元がわずかに歪む。勝利を噛み締めるように。
『よかろう。Subject No.13の廃棄は保留とする』
そして、僅かに間を置いて──冷徹な響きに、愉悦のような何かを混じらせた言葉が、電子音で囁かれた。
『……ところでジョン、君は彼をどう遇するつもりかね?』
淡々とした口調。しかしその裏には、意図を測るような鋭い探求心が透けていた。
「再構築された人格が、中長期的に安定稼働可能か──それを見極めたいと考えています」
マーカスは冷静に答え、さらに続ける。
「当面は保安部に出向させ、対人戦闘の基礎を教育。その後、私の補佐官として登用する予定です」
彼の言葉に、アイリーンが小さく息を吐き、明らかな不快の色を浮かべて睨みつける。
『対人戦闘……』
サイモンの電子音声が一瞬の間を置き、静かに繋げる。
『たしかNo.13は──"最強の兵士"と呼ばれていたな?』
「はい」
マーカスは即答する。
「彼はCCS特殊部隊において、歴代でも比類なき戦闘能力を持つ傭兵でした。現在は記憶を喪失し、人格も完全に消失していますが──問題は、“身体に刻まれた記憶”です。新たな疑似人格がそれをどう受け継ぎ、どう作用するのか──それを検証する価値は十二分にあると判断しました」
サイモンはしばし沈黙する。ホロディスプレイのノイズが、処理の一拍を物語る。
『……なるほど』
やがて出力されたその声は、先ほどよりもわずかに熱を帯びていた。
『今後、我々が"大衆を導く"上で、トップアスリートやエリート兵の人格を最適化する技術は、極めて重要になる……』
「──まさに仰る通りです」
マーカスは、寸分違わぬ調子で即答した。
サイモンの電子音声が、わずかにトーンを落とす。
『……彼は、ある意味で私の"兄弟"とも言える存在だ。よろしく頼むよ、ジョン』
マーカスはわずかに唇を緩め、深く頷いた。

「かしこまりました」
その一言を最後に、ホロディスプレイは静かにフェードアウトし、サイモン・エヴァンスの存在はデータの闇へと溶けていった。
会議室にはわずかに緊張の余韻が残る。アイリーンが静かに息を吐き、マーカスを冷ややかに睨みつけた。
「……あなたの“部下”の管理は、責任をもってやってもらいますからね」
マーカスは無表情のまま、静かに頷いた。
だが、その胸中では──"怪物"と対峙し、一芝居を演じ切った安堵感。
計画の歯車が確かに動き始めたという手応え。
そして、もはや後戻りのできない場所まで来てしまったという、静かな覚悟。
それらが重なり合い、冷たい皮膚の奥で、密やかに熱を孕んでいた。
マーカスの真の狙いは、別のところにあった。
M社、そしてLUXの内部で過ごした五年間で、彼が痛感した真理がある。
それは──身を守るにも、意を通すにも、必要とされるのは“絶対的な暴力”。
どれほど精緻な策を弄しようとも──その策が実を結ぶ前に“始末”されてしまえば、何の意味もない。
この五年の間に、マーカスは何人もの人間が“始末される”のを見てきた。
CCSが動くこともあれば、LUXの暗殺部隊が処理することもあった。M社とLUXは、表と裏で連携しながら、この世界を静かに支配していたのだ。
だが──マーカスは、LUXの“飼い犬”で終わるつもりはなかった。
運命の悪戯か、それとも必然か。
彼の手元に、桁外れの“暴力”が転がり込んできた。
CCSのデータバンクから極秘裏に取り寄せた、JUDASの戦闘記録──
確認された敵兵の殺害数、900超。
未確認を含めれば、4桁に届く勢いだった。
JUDASが戦場で“死神”と呼ばれた理由は、数字だけを見ても明らかだった。
だが──マーカスの目を奪ったのは、その“数”ではなく、“内容”だった。
スナイパーでもないJUDASが、これほどの殺害数を記録すること自体、常識では考えられない。
クロスレンジにおける集団戦闘では、敵を撃てる位置にいる者は、自身もまた射線上にある。互いに近代兵器を携えた戦場は、常に“対称的殺意”が交錯する拮抗の場であり、完全な一方的優位など成立しえない。
──ただし、“絶対的な戦闘力の隔たり”があれば話は別だ。
JUDASは、人間同士の間にあるはずの均衡を破壊していた。戦場の常識を超えていた。
もはや“人間以上の何か”でなければ、説明がつかないほどに、彼は一方的に、機械のように──否、機械以上の効率で──殺し続けた。
PMCの傭兵でも、特殊部隊員でも、900人を単独で屠った者など存在しない。
それが“人間”であるならば、の話だ。
生存率99.8%。
戦場での勝率100%。
単独行動での制圧率、統計外。
これらの数字は、彼がただの人間ではなく、“殺戮のために最適化された兵器”であることを物語っていた。
彼は、戦場の“神話”となった。
ある者は言った──
「JUDASに狙われた時点で、生存確率はゼロだ」
ある者は呟いた──
「ヤツに見つかったら“死んだ”と思え」
ある者は祈った──
「どうか、戦場でJUDASに会いませんように」
──だが、その“最強の兵士”は、“戦死”した……そう見えただけの話だ。
マーカスはモニターを見つめ、静かに笑う。JUDASは死んでなどいない。
──そして今、その死神は、俺の手の中にある。
マーカスは、ロバートの“元の肉体”が持っていた超人的な戦闘能力の解析結果を眺めながら思索する。
彼が密かに進めているのは、BMIを通じたロバートの遠隔操作計画。
自らを守るための“盾”として。
必要とあらば──邪魔者を始末するための“刃”として。
LUXが求めているのは、神だ。
だが、自分が生き残るために必要なのは──死神だ。
マーカスはほくそ笑む。
──せいぜい、今のうちに救世主を気取っておけ。いずれ“ユダ(JUDAS)”を、会長室へとエスコートしてやる。
[System Timestamp]
2019-10-22T10:40:00-07:00「そうだ。これを渡しておく」
マーカスは懐からスマートフォンを取り出し、電源を入れる。
次の瞬間、端末の上部から小さな投影装置が作動し、空中にホログラフィックUIが浮かび上がる。
ホロディスプレイと呼ばれる、M社製スマートフォンの拡張インターフェースだった。
「M社製の最新スマートフォンの試作品だ。本社ビルはもちろんのこと、会社の施設への出入りはほぼすべて、この端末での認証が必要だ。肌身離さず持ち歩く癖をつけておくんだな」
彼は指先で画面を操作し、端末をロバートの義眼とリンクさせた。
「ASEと自動同期する仕様だ。通話やメッセージはもちろん、スマホでできることの大半が──その“右目”ひとつで済む」
視界に淡い青のインターフェースが浮かぶ。ロバートは無意識に瞬きをし、視線を走らせた。
「……あ、“リンク完了”って表示が出ました」
マーカスは頷きながらも釘を刺す。
「慣れるまでは控えめにな。負荷がかかりすぎると、神経系が過電圧に近い反応を示す可能性もある」
だがロバートは返事をしない。ただ、前をまっすぐに見据えていた。
彼の右目が、微かに赤く光を放つ。
──そして次の瞬間、マーカスの手元のスマートフォンが、ひとりでに動き出した。検索画面が立ち上がり、文字が自動入力されていく。
【ロバート・ホープ】【事故】
マーカスの眉がわずかに動く。ロバートの手は一切動いていない。それは、意識だけで義眼を介して実行された検索だった。
「……本当に、僕は“死んだ”ことになってるんですね」
静かに呟くロバートの言葉の前で、画面に並ぶニュースの見出しが、彼の“過去”を無言で突きつけていた。
【白昼の飲酒運転で死亡事故】
【ロバート・ホープ氏、交通事故で死亡】
【勇敢な行動──少女を救った青年】
ホロディスプレイに映し出されたのは、"ロバート・ホープ死亡"の文字列と、事故を伝える記事の数々だった。
ロバートは静かに目を細め、視線を彷徨わせる。
「……自分の死亡記事を見るなんて、変な気分ですね。でも──あの女の子、無事だったみたいでよかった」
マーカスは無表情のまま、じっと彼の様子を見つめていた。
ロバートが目覚めた当初、マーカスたちの最大の懸念は──“JUDAS”という戦場の亡霊を、AIが“ロバート・ホープ”として再構築したことによって生じる“矛盾”だった。
“本物”のロバートの交友関係や関係者との接触。
その事実が露見すれば、取り返しのつかない事態を招く。
マーカスたちは、もともと彼を“生かす”つもりなどなかった。
ユニットASEと彼の脳を接続し、意識と行動を制御できるか──それを試すのが目的だった。
そのため、彼には過去に関する話題を“必要以上に掘り下げないよう”徹底して言い含め、外部との接触も制限した。
事故の記事の一部には、“本物”のロバート・ホープの顔写真が掲載されていた。
──だが、そこに写る男と、今ここにいるロバート・ホープ改め“ロバート・スミス”は似ても似つかない。
現在の彼の容姿は、JUDASの肉体をベースにしている。
この違和感に本人が気づき、“自分は本当にロバートなのか?”と自問し始めたとしたら──
それは、すべての計画を台無しにする“危険な問い”だった。
だが──その心配は杞憂に終わった。
ロバートは、自分の“過去”に驚くほど無関心だった。
精神操作の影響か、脳の構造的改変によるものかは判然としない。
だが、彼は問いを発しなかった。真実に迫ろうとも、自己を疑おうともせず、ただ“今の自分”として存在していた。
また、記憶の確認と称して、本物のロバート・ホープとJUDASを含む複数の写真を彼に見せた。ロバートは一瞬だけそれらを見つめ、迷いなく指を動かした。
「これが……僕、ですよね?」
彼が指し示したのは、オリジナルのロバート・ホープの写真だった。
──なるほどな。
マーカスはその結果に、わずかに目を細めた。
AIはASEを介してロバートの視覚情報を補正しているが、“過去の記憶”までは直接書き換えることはできない。
自己同一性──「自分はロバートである」という前提が彼の認知に深く根付いているからこそ、写真を見たときも、過去の自分として正しく選び取ったのだろう。
だが──現実の鏡に映る顔を見ても、ロバートは何の違和感も抱かない。
過去の自分の記憶と、現在の自分の容姿を矛盾なく共存させるため、彼の認識は無意識のうちに“調整”されている。
違和感を抱く余地そのものが、初めから削ぎ落とされていた。
マーカスはその周到さに薄ら寒さを覚える。
ロバートの認識世界は、完璧なまでに“矛盾なく”構築されている。
過去も、現在も、違和感なく受け入れられるように──まるで、最初からそうであったかのように。
マーカスは思い返す。
ジェイコブらとエグゼジェネシスで開発した初期のAIは、“嘘”が下手だった。
だが今や、その欠点は徹底的に克服され、現実をすり替えるほどの進化を遂げている。
“洗脳”や“暗示”ではない。
ロバートは自分の意思で思考し、行動し、記憶を参照している。
ただし──その“記憶”が導き出す答えは、AIが巧妙に敷いたレールの上にある。
──この“完璧さ”が、何よりも恐ろしい。
マーカスはわずかな不快感を胸に抱えたまま、ベッドサイドのテーブルにスマートフォンを置き、静かに腰を上げた。
「さて、今日はこのへんで失礼するよ。次は退院の日に迎えに来る」
「あ、はい。ありがとうございました」
ロバートも立ち上がり、マーカスを見送った。
彼の右目の光は、すでに消えていた。
[System Timestamp]
2019-10-31T16:00:00-08:00退院当日の昼下がり。
マーカスはガーメントバッグに包まれたスーツと、ひとつのアタッシュケースを携えて病室を訪れた。
「会社からの支給品だ。着替えてくるといい。アタッシュケースには"装備品"が入っている」
ロバートは素直に頷き、バスルームへと向かった。鏡の前で、シャツに袖を通し、ネクタイを締める。
新品の生地はどこか硬く、まるで自分の皮膚に馴染まない“他人の衣”のように感じられた。

──自分のものじゃない。
その感覚は、着ているスーツに対してだけではなかった。
むしろ──自分自身にすら、同じ違和を感じていた。
足元に置かれたアタッシュケース。
ロバートは無意識のうちに喉を鳴らし、慎重にロックを外して開いた。
中にあったのは──ホルスター、二挺のオートマチック拳銃、複数のマガジン、そして一振りの大型ナイフ。
それらを見た瞬間、心臓が一拍、強く脈打った。金属の冷たい質感が手のひらに触れた瞬間──
「……っ」
思わず息を呑み、指先が微かに震えた。
明らかな拒絶反応。だが、それと同時に不可解な既視感が脳裏をよぎる。
──知っている?
そんなはずはない。
記憶には銃器の扱いなど一度も存在しない。
なのに、握った手の形、トリガーにかける指の角度、構える姿勢──それらすべてが、“知っている”ように感じられた。
ロバートはその感覚を振り払うように、勢いよくケースを閉じると、バスルームを飛び出し、マーカスのもとへと向かった。
「ほう、似合うじゃないか」
マーカスはロバートのスーツ姿を見て、感嘆の声を上げた。
「あの……“これ”は……?」
ロバートはアタッシュケースを抱えたまま、戸惑った表情で問いかけた。
マーカスはその視線の先を軽く一瞥し、肩をすくめる。
「装備品だと言っただろ?その銃はASEとリンクしていてね、狙う必要すらない。構えて引き金を引くだけで、自動的に目標を補足してくれる……それとも、別の“獲物”がよかったかな?」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
ロバートは言葉を探すように、視線を宙に彷徨わせた。
マーカスは小さく笑い、あっさりと応じる。
「冗談だよ。ひとまずは、身につけておきなさい」
彼の声には、終始一貫して“余裕”が漂っていた。
「君にはいずれ、私の秘書兼ボディガード的な役割を担ってもらう。明日からは保安部での研修が始まる。まずは“商売道具”に慣れるところからだ」
「……でも僕は銃やナイフなんて……使ったこともないですし……それに、人を傷つけるなんて……」
ロバートは視線を落とし、アタッシュケースの持ち手を握りしめた。
その手の中にある異物感が、これまでの自分の人生と決定的に乖離していることを告げていた。
だがマーカスは、まるで些細なことのように言い放つ。
「そんなに構えなくていい。念のため──“もしも”に備える、ただそれだけだ」
そして少しだけ声を低め、鋭く言葉を突きつける。
「ただ、“もしも”の時の備えがなければ、選択肢はどんどん狭まり……やがて“死”の袋小路に追い込まれる。それだけの話さ」
ロバートは何も言えず、ただ頷いた。
胸の奥に沈むような違和と、否応なく忍び寄る不安を抱えたまま──
[System Timestamp]
2019-10-31T17:00:00-07:00会社の用意したアパートへ向かう車中、ロバートはふと口を開いた。
「あの……寄ってもらいたい場所があるんです。今日、妹の命日で……」
ロバートの妹、フローレンス・ホープが命を落としたのは、一昨年のハロウィンの夜だった。
動画配信サイトで人気を集めていた彼女は、明るく無邪気な笑顔と透き通るような歌声で、多くのリスナーを魅了していた。
だがその“魅力”は、やがて狂信的な崇拝者を生み、悲劇へと繋がった。
犯人は彼女の熱狂的なファンを自称する男だった。
当初はコメント欄で過剰な応援メッセージを連投し、次第にSNSでのリプライやDMにエスカレート。そして、現実世界での尾行や接触を試みるようになった。
事件当日、彼女は自宅近くの路地で襲われ、帰らぬ人となった。
この事件は当時メディアでも大きく報道された。
【12歳の美少女インフルエンサー、狂信的ファンに殺害される】
という刺激的な見出しが新聞を飾り、ワイドショーは連日この話題で持ちきりだった。
マーカスも、この事件を記憶していた。
M社とLUXに身を置く者として、“ネット起因の犯罪”には常に目を光らせている。そしてその中でも、この事件はとりわけ印象に残っていた。
だが──まさか今、その“被害者の兄の人格を模した存在”と、こうして墓参りに同行することになろうとは。
運転手がバックミラー越しにマーカスへ視線を送る。
マーカスは無言で頷き、人差し指を立てた。
それは、目的地変更と──“準備”の指示。
車は、郊外に広がる静かな墓地へと進路を取った。
[System Timestamp]
2019-10-31T17:48:00-08:00ロバートは白い墓標の前に立ち尽くしていた。
夕陽が西の空を赤く染め、長く伸びた彼の影が、墓石の上に静かに重なる。
【フローレンス・ホープ 2005 - 2017】
白い石に刻まれた妹の名前を、ロバートは指先でそっとなぞった。
手向けた花が、秋の風に小さく揺れている。
彼は目を閉じ、喉の奥に押し込めていた言葉を、かすかに零した。
「……ごめんな、フローラ……」
彼女の無邪気な笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
「僕……まだそっちには行けなかったみたいだ……」
その呟きとともに、ロバートの左目から一筋の涙が頬を伝った。
──右目からは、何も流れなかった。
隣に並ぶ、もうひとつの墓標に、ロバートはゆっくりと視線を移す。
【ロバート・ホープ 1995 - 2019】
そこに刻まれていたのは、紛れもなく"自分"の名だった。
墓地の駐車場。
車の後部座席でスマートフォンの画面を見つめながら、マーカスが口を開いた。
「……どうだった? 死んだ“はず”の元同僚は」
問いは運転席の男に向けられた。
短髪で体格のいい、目つきの鋭い男。明らかに運転手ではない。
彼は、かつてCCSに所属し──JUDASと同じ戦場に立ったことのある傭兵だった。
バックミラー越しに、男がマーカスを一瞥する。
「……にわかには信じられませんね」
短く、だが戸惑いを含んだ声。
「顔は、確かにJUDASです。ですが──雰囲気がまるで別人です」
男は眉を寄せ、息を吐いた。
「何より……あの、心臓を鷲掴みにされるような“殺気”がまったくない」
傭兵として、数多の戦場を潜ってきた男の直感。それは疑いようもなかった。
「ミッション中、やっこさんと同じ車に乗ったときなんか……虎と同じ檻に放り込まれたみたいで、息が詰まりそうでしたよ」
──戦場の死神。
JUDASという名が兵士たちに囁かれていたのは、伝説ではなく“事実”だった。
だが、スマートフォンの画面に映る今のロバートは、まるで別の人間だった。マーカスは画面から目を離し、バックミラー越しに男を見つめる。
「そうか……では、試してみるか」
男は無言で頷き、スマートフォンを取り出して操作する。
画面に、短く打ち込まれる文字列。
【ミッション開始】
マーカスがふと尋ねる。
「……"今日の奴ら"、ストリートで拾ってきた連中だと言っていたな?」
「はい。"JUDASを殺れ"なんて依頼、まともなプロはまず受けませんから」
ブブッ──
男のスマートフォンが振動し、【了解】の文字が表示される。
マーカスの表情がわずかに動いたのを感じ取り、男が続けた。
「ご安心を。奴らには、M社特製の“お薬”をたっぷり盛ってあります。筋力、敏捷性、凶暴性──どれも常人の域を超えてますよ」
スマートフォンを閉じ不敵に笑う男。
マーカスは再び画面に視線を戻す。
「……始まったようだ」
日が傾き墓地に長い影が伸びる。
赤く染まる夕陽が石碑の列を静かに照らし、その静寂をわずかな風が撫でていった。
ロバートは、フローレンスの名が刻まれた白い墓標に指を這わせ、静かに目を閉じた。
──そのときだった。
ザッ……ザッ……ザッ……
砂利を踏みしめる、重く不規則な足音。
墓地の小道からよろめくような影が近づいてくる。
顔を上げたロバートの視界に、三人の“異形の男たち”が入り込んでいた。
彼らはまるで三角形を描くように、じりじりと距離を詰めてくる。

──左側。
カボチャのマスクを被った男。
刃渡り30センチを超えるナイフを、舌で舐めるようにゆっくりと撫でている。
──正面やや右。
ドクロマスク。
黒い拳銃を無造作にぶら下げ、首をぐらぐらと揺らしながら、不規則に笑っていた。
──右斜め後方。
ゾンビマスクの巨漢。
肩に巨大な斧を担ぎ、斜めに揺れながらのっそりと進んでくる。
ロバートは、完全に囲まれつつあることに気づいた。
すでに“逃げ道”など、どこにもなかった。
カボチャマスクが、マスクの奥から濡れたような呼吸音を漏らす。
「……ククッ……なぁ、こいつ……生きてるか……?」
ドクロマスクが、突然痙攣するように肩を震わせて笑った。
それは“笑い”というより、“発作”に近い。
「……ああぁ……ククク……喉……喉が、乾いた……」
ゾンビマスクの巨漢が、ヒュゥ……ヒュッ……と、マスクの中で湿った息を吐く。
「なァ……“赤いの”……持ってるか……? 見せてくれよォ……なァ……」
──“赤いの”? 血……!?
ロバートの喉が詰まり全身が粟立つ。本能的な恐怖が背骨を走り抜けた。
足が無意識に後退する。背後の墓標に足を取られ、尻もちをつく。冷たい石の感触が、背中に突き刺さった。
三人の男たちは、焦点の定まらない瞳でニタついていた。だが、その目は異様に鋭い──ぎらつき、血走り、異常なほど開かれた瞳孔が、獣のような“欲望”をむき出しにしている。そこには、もはや“理性”も“言葉”も残っていなかった。
ただ、本能と異様な興奮──そして快楽だけが浮かんでいた。
カボチャマスクの男がナイフを軽く振る。
空気を切り裂くヒュンという音に、ロバートの体がびくりと震える。
「ほら、ほら……動けよ……遊んでやるからさァ……」
ゾンビマスクの巨漢が、斧の柄を握り直す。
「赤いのォ……いっぱい見せてくれよォ……!」
膨張した筋肉が、皮膚を突き破らんばかりに膨れ上がっていた。
浮き上がった血管がピクピクと痙攣し、指先まで異様な力がみなぎっている。
──これは、人間じゃない。
薬物で壊された肉の化け物だ。
──やばい……!本当に……殺される?!
ロバートは、震える手でスーツの内側に手を差し込み、ホルスターをまさぐる。
硬い金属の感触──拳銃だ。
必死に引き抜き、両手でぎこちなく構える。だが──
カチッ。
──何も起きない。ロバートの表情が凍りつく。
カチッ、カチッ……
何度引き金を引いても、撃てない。
──セーフティが外れていない。
後部座席でモニターをじっと見つめていたマーカスが、ふいに口を開いた。
「……どう思う?」
運転席の男──かつてJUDASと同じ戦場を生き抜いた元傭兵は、苦笑いを漏らす。
「あちゃあ……こりゃ完全に素人の動きですね。止めましょうか? 下手すりゃ本当に殺られますよ」
マーカスは微動だにせず、画面を見据えたまま、低く静かに言った。
「必要ない。"この男の生命を維持せよ"という命令は──まだ“有効”だ」
その直後、モニターのスピーカーからロバートの絶叫が飛び込んできた。
「や、やめろっ!あああああっ……!」
ゾンビマスクの大男が、正気を失った目をギラつかせながら斧を振り上げる。
錆びついた刃が、風を裂く唸りとともに振り下ろされた──その刹那。
ロバートの右目が真紅に閃いた。
直後、マーカスのスマートフォンが低く振動し、ユニットASEのインターフェースが浮かび上がった。
>> ASE SYSTEM STATUS
MODE: COMBAT - ACTIVE
OPERATOR_ID: [ JESUS_013 ]
SYNCHRONIZATION: 99.98%
VITAL CONTROL: LINKED
NEURAL FILTERS: BYPASSEDマーカスは画面を一瞥し、口角をわずかに吊り上げた。
「──目覚めたか」
「や、やめろっ!あああああっ……!」
気がつくとロバートは自室にいた。
特注のゲーミングチェアに深く身体を沈め、視界いっぱいに広がるのは、縦に連結された湾曲ウルトラワイドモニター。操作系はすべて有線接続。ネットの戦場で英雄と呼ばれた男──“JESUS”のプレイに、遅延は一切許されない。
画面の中では、巨大なモンスターが斧を振り下ろそうとしている。
その刃が落ちる寸前で、世界は停止していた。
ポーズ画面。
どうやらゲーム中に寝落ちしていたらしい。
ロバートにとって、それは珍しくもない日常だった。

「……なんだよ、夢か。……にしても、ヒドい夢だったな」
静かに呟きながらコントローラーを握り直す。
ポーズ解除。
次の瞬間、彼は迷いなく回避ボタンを押し込む。
「よし──ジャスト回避」
斧が頬を掠める。時間が引き延ばされる。テクニカルボーナス。
発動したバレットタイムの中で、ロバートの視界だけが通常速度で動き続ける。
彼は斧の軌道を紙一重で抜けると、モンスターの脇を滑るように潜り抜けた。
その背後。死角に潜んでいた、ナイフを持つ個体へ視線がロックされる。
迷いはない。
攻撃ボタンを、深く押し込んだ。
ヒュン!
斧が落ちるより早く、風が鳴いた。
次の瞬間、カボチャマスクの男の首が宙を舞い、重力に従って地面を転がる。
胴体は崩れるように倒れ、首の断面から噴き上がった鮮血が背後の墓標を赤く染めた。
──異様な光景だった。
ほんの一瞬前まで、墓標の前で尻もちをついていたロバートが、今はカボチャマスクの男の亡骸の傍らに、まるで幽鬼のように静かに立っている。
右目だけが紅く発光し、その手には、マーカスから渡されたナイフ──M社製・ナノエッジブレードが握られていた。分子レベルで研磨されたその刃は、あらゆる材質を無音で断つ。

モニターに映るロバートの姿を見て、マーカスの目が大きく見開かれる。
「……あれが……」
言葉にならないまま映像を凝視する。
地面を転がるカボチャマスクの首──その傍に、ロバートが立っていた。
ほんの一瞬前まで墓標の前にいたはずの男が、10メートル以上離れた地点で、“既に結果を出した後”に存在していた。
マーカスが呟く。息を飲むように、静かに。
「……データでは把握していたが……まさか、これほどとは」
運転席の傭兵がバックミラー越しに声を落とす。
「……あれがJUDAS──“戦場の死神”です」
その声には震えがあった。ただし、それは恐怖ではない──畏怖だった。
マーカスは深く息を吐き出す。そして口元に薄い笑みを浮かべた。
「……なるほど。これは“制御のしがい”があるな」
カボチャマスクの首が地面を転がり落ちた直後、ドクロマスクの男が反射的に発砲──二発、三発。
ロバートは身を屈める。それは弾丸をかわす動作といいうより、獲物を狙う獣のそれだった。

次の瞬間、雷光の速さで距離を詰めたロバートと、ドクロマスクの間に銀色の閃光が走ると、男の両腕が肩口から滑るように脱落し、拳銃ごと地面に落ちた。
血飛沫は──ない。代わりに断面からわずかな蒸気が立ち昇る。
それほどまでに精密で、鋭利すぎる一撃だった。
ドクロマスクの男は、自身が“致命傷”を負ったことにすら気づいていない。
膝をつき、首だけをかろうじて動かし、ロバートを見上げる。

──そこにいたのは、感情を持たない赤い隻眼の“死神”だった。
ロバート──いや、JUDASは無言のまま、地面に落ちた拳銃を──なおもそれにしがみつくドクロマスクの腕ごと──足先で軽く弾き上げる。
宙へ舞い上がる拳銃。
ねじれる腕。
回転に引き裂かれるように、ドクロマスクの指がグリップから剥がれた。
次の瞬間、JUDASの手が伸びる。
空中でそれを掴み取ると、流れるような動作のまま一歩踏み込み──銃口を男の額に押し当てた。
──パン。
乾いた銃声。
男は、糸の切れた人形のように、ゆっくりと後ろへ崩れ落ちた。
マスクの中のその顔には、死を理解しきれていない空白のまま、何も刻まれていなかった。
車内、モニターを見つめながら、マーカスがぼそりと呟く。
「……"殺す"という行為が、ここまで機械的だとは……」
傭兵がわずかに口元を吊り上げる。
「命を“奪う”じゃなくて、“削除(デリート)する”……それがJUDASの殺り方です」
ゾンビマスクの巨漢が、一歩、二歩とじり下がる。
赤く輝く隻眼と視線が交差した瞬間、その肉体が震えた。
M社特製薬物によりブーストされた筋肉と神経を持つ身体が、自分の意思ではなく──本能によって“後退”を始めていた。
逃げるというより、退いていた。
圧倒的な死の気配を前に、薬物により造られた興奮も快感も攻撃性も、役には立たなかった。
ゾンビマスクの男は、斧を放り出し、よろめきながら墓地の奥へ逃げ出す。だが──
JUDASは追わない。走らない。
静かに腕を上げ、狙う素振りもなく引き金を引いた。

—without even pretending to aim.
──パン。
弾丸は、逃げる男の後頭部に正確に着弾した。
数歩ふらつき、ゾンビマスクの巨体が──地響きとともに、前のめりに崩れ落ちた。
モニターの映像を見つめるマーカスの眉が、わずかに動いた。
「……逃げた? あの薬は理性も痛覚も恐怖も──ことごとく麻痺させるはずだが……」
運転席の元傭兵が、額に汗を滲ませながら引きつった笑みを浮かべる。
「技術屋には分かりませんかね……"圧倒的な恐怖"の前じゃ、理屈なんて意味を失う。"身体"のほうが先に逃げ出すんですよ。トリップも、幻覚も──全部吹き飛び素面に戻っちまう。あれが……JUDASの“殺気”です」
マーカスは、わずかに口角を吊り上げた。
「なるほど……歴戦の兵である君が言うのなら、信じる価値があるな──死神は目覚めたか」
その時、画面の中のロバートがゆっくりと顔を上げ、こちらに向かって歩き始めた。
傭兵の表情が引きつる。
「……ちょっと、マーカスさん、こっちに来てますよ!制御……本当に大丈夫なんですか!?」
マーカスは静かにスマートフォンの画面に触れる。指先が液晶を撫でた瞬間、ロバートの右目の光がふっと消える。
次の瞬間、ロバートの身体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「心配無用だ。彼の“支配権”はこちらにある」
マーカスはゆっくりとドアを開け、車を降りる。倒れたロバートを見下ろしながら、ポツリと呟いた。
「──さて。ここからが本番だな」
その背後、血と破片に染まった墓地が、まるで“死神”が儀式を終えた後の聖域のように、凍りついたような静寂を取り戻していた。
夕陽だけが、全てを赦すかのように赤く沈み、長い影を地に刻んでいた。
[System Status] CHAPTER_2_VERSE_13_COMPLETE
[Next Sequence] CHAPTER_2 / VERSE_14[Next Sequence] → CHAPTER_2/VERSE_14
設定資料集
M-CORP_INTERNAL_ARCHIVE
[00] ■ 人物プロファイル (Personnel Profile)
Name: ロバート・スミス (Robert Smith)
※Former: ロバート・ホープ(Robert Hope)
Role: M社兵器開発部 補佐官 / セキュリティ・オフィサー
Note:
かつて戦場で「死神」と恐れられた最強の傭兵・JUDASの肉体に、オンライン上で「救世主」と崇められたゲーマー・JESUS(ロバート・ホープ)のデジタル残留思念から再構築された疑似人格が宿った存在。
M社が用意した新しい戸籍名「スミス」を与えられ、マーカスの直属として行動する。本人は善良な青年の記憶しか持たないが、ひとたび戦闘状態に入れば、肉体に刻まれたJUDASの圧倒的な殺人アルゴリズムが起動する。戦闘中のロバートの意識は、自室でゲームをプレイして敵を排除するASEが創った「幻覚」へ強制的に移行する。
マーカスのスマートフォン一つで行動を強制シャットダウンできる「完全なる手駒」として制御されている。
[01] ■ 技術仕様書・用語集 (Technical Glossary)【エデン・リンク / バベル・リンク (Eden Link / Babel Link)】
解説:
人間の脳と2機のAGI(ADAMとEVE)を接続する方式の呼称。
論理を左脳、感情を右脳に繋ぐ順接方式が「エデン・リンク」であり、被験者の能力を異常拡張させる。対して、論理を右脳、感情を左脳に繋ぐ逆接方式が「バベル・リンク」である。バベル・リンクは多重人格化や精神崩壊を高確率で引き起こすが、No.13(JUDAS)は脳の重篤な損傷により元の人格が完全に消失していたため、奇跡的に「疑似人格の定着」に成功した。
【デジタル残留思念 (Digital Residual Thought)】
解説:
SNS上の投稿、WEB日記、検索履歴、ゲームのプレイログなど、ネットワーク上に残された膨大な「個人の足跡」をAI(EVEとADAM)が解析し、自己認識を持つ疑似人格として再構築する技術。
マーカスはこの成功例(ロバート)を雛型とし、将来的にM社に反抗する者の思考を本人に気づかれぬまま「デバッグ・再インストール」するための思想統制システムへと発展させようと目論んでいる。
【ユニットASE (Advanced Sensory Enhancer)】
解説:
兵器開発部が極秘に開発した義眼型BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)。
視覚情報のオーバーレイ表示やデバイスの直感操作、戦闘時の動作予測などを可能にする次世代インターフェースだが、その真の目的は「ヒューマン・オーソリティ・サプレッサー(人間性抑制装置)」。
装着者の良心や罪悪感をフィルタリングし、管理者(マーカス)の持つデバイスから遠隔で意識を強制シャットダウンできる機能を持つ、完全な「支配の首輪」である。
【JESUS と JUDAS (The Savior and The Traitor)】
解説:
ネットの海で弱きを助け「救世主(JESUS)」と呼ばれたロバート・ホープの魂と、戦場で数え切れない命を奪い味方からも「裏切り者(JUDAS)」と恐れられた傭兵の肉体。
決して交わるはずのなかった光と闇が、AIの演算とM社の狂気によってひとつの身体に縫い合わされた、最高に皮肉で歪な「奇跡の産物」。
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