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SNSの守護天使:第2章8節

消された輝き

Chapter 2 Verse 8
"The Extinguished Radiance"
[System Timestamp]
2013-11-09T18:15:00-07:00

M社での研究は予定よりも順調に進み、契約期間を2ヶ月弱残しているものの、ジェイコブたちのチームはすでに課されたノルマを達成していた。これ以上の滞在に意味はなく、むしろ彼らには次のステップが待っていた。

ジェイコブたちのチームは、異なるアーキテクチャで設計された二種類のAGIプロトタイプを完成させていた。それが──

【A.D.A.M(Advanced Digital Autonomous Mind)】

高度デジタル自律思考体。現実世界と密接にリンクし、物理環境と相互作用することを前提に設計されたAI。
主な目的は、社会のシステムや人間の行動を分析し、最適化することにある。企業の意思決定支援から、金融市場の予測、都市計画のシミュレーションまで、幅広い分野で応用可能な"合理性と効率性を極限まで追求する知能体"だった。

【E.V.E(Enhanced Virtual Entity)】

拡張型仮想存在。デジタル世界の内部で進化し、自己適応するAI。物理環境に依存せず、仮想空間内での"意識の生成"を主軸にしており、ユーザーの認識に影響を与えるような"感覚共鳴型知能"として開発された。
バーチャル空間の"住人"として活動できるだけでなく、知的エージェントとして自己を進化させる特性を持ち、"デジタル世界における人間の代替存在"としての可能性を秘めていた。

これら二種のAGIプロトタイプには、知性の萌芽と思しき現象も複数回観測されていた。
M社はさらなる高度な実験・研究の継続を求め、ジェイコブたちに追加契約を提示した。
しかし、ジェイコブはこれを固辞した。

彼の決断の理由は二つある。
ひとつは、アンジェラとの共同研究のためにラボを去るということ。そしてもうひとつは──アンジェラが妊娠したことだった。

ジェイコブにとって、知性を持つAIの誕生は計算の範囲内だった。
AGIの発展は驚くべき成果ではあるが、それは“論理的帰結”に過ぎなかった。
彼が本当に求める“真理”の欠片は、別のレイヤーに存在する。

彼の目指すものは、感情を持つAIの創造、そしてそのために必要な“魂の設計図”の解明だった。
知性だけでは再現できない“何か”──“意志”“感情”といった、人間を人間たらしめる本質。
それを解き明かさなければ、彼の研究は未完成のままである。

そのためにも、M社という巨大な器を離れ、自分たち自身の研究環境を整える必要があった。
そして何より、アンジェラの身体を気遣い、これからの生活を守ること。それが最優先事項だった。

AGIの研究は、確かに歴史的な進展を見せていた。
だが、ジェイコブにとって──“新たな命の誕生”という現実の奇跡は、いかなる人工知能よりも、尊く、優先されるべきものだった。


施設を退去することを決めた日の夜、二人はマーカスをラボに呼び出した。
マーカスは研究室の扉を開け、軽く肩をすくめながら部屋に入ってきた。

「なんだ、こんな時間に呼び出して。まさか、この短期間でまた何かとんでもない研究結果が出たとか?」

その冗談に、ジェイコブとアンジェラは視線を交わし、微かな笑みを浮かべた。だが、ジェイコブはすぐに真剣な表情に戻り、静かに口を開く。

「いや、そうじゃない。実は──アンジェラが妊娠したんだ」

マーカスの表情が一瞬固まった。

「……」

まばたきをひとつ。やがて、彼の口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。

「……そいつはめでたいな」

そう言って、彼は両手を広げ、真っ直ぐに二人を見つめた。

「おめでとう、二人とも。アンジェラ、大丈夫なのか?」

アンジェラは柔らかな笑みを浮かべながら、頷いた。

「ありがとう、ジョン。体調は問題ないわ。でも、さすがに無理はできないから、私たちは早めにここを離れることにしたの」

ジェイコブも軽く息をつきながら続けた。

「それで……君にお願いがあるんだ。僕たちの新たな研究テーマ、“魂の設計図の解明”──その研究チームに加わってくれないか?」

マーカスは少し驚いたように目を細めた。ジェイコブがこんなふうに直接頼みごとをするのは珍しかった。だが、すぐに彼は軽く息をつき、腕を組んだ。

「悪いが、それは無理だな」

「どうして?」

アンジェラが困惑したように問いかけると、マーカスは目を伏せたまま静かに答えた。

「俺には──やることがあるんだ」

その言葉の奥にあるものを察したのか、アンジェラがさらに問い詰めようとする。しかし、ジェイコブがそっと制した。

「──きっとジョンにとっては避けては通れないことなんだろう。僕にはなんとなくわかるよ」

マーカスはジェイコブをじっと見つめた。
静かだが、深く洞察するような眼差し。その視線に、マーカスは微かに目を細め、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「言うようになったな。前はただの理屈屋だったのに……でもまあ、お前も父親──俺なんかより一段上の男になる覚悟を決めて、ようやく理屈じゃ測れない“男の決意”ってやつが、少しはわかるようになったか?」

ジェイコブは肩をすくめ、口元に皮肉げな笑みを浮かべた。

「うーん、そうだね…論理的な説明には足らないけど、ま、そういうことかな?」

アンジェラは腕を組み、わずかに頬を膨らませながら、二人を睨んだ。

「なによ、女にはわからないっていうの?」

マーカスは苦笑しながら、彼女の肩を軽く叩いた。

「ま、そーいうことだ。それにアンジェラ、お前には他に考えることが山積みなはずだろ?」

アンジェラは口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。確かに、彼の言う通りだった。
新たな生命を宿し、これからの未来を築いていかなければならないのだ。

マーカスは、ジェイコブとアンジェラを交互に見つめた後、深く息をつく。

「俺のやることが終わって、お前たちの気が変わってなかったら──ぜひともその研究を手伝わせてくれ」

そう言って、マーカスは右手を差し出した。ジェイコブも、アンジェラも、その手をしっかりと握り返した。

A promise sealed before the future began.

「ありがとう、ジョン」

「お前も……無茶だけはするなよ」

マーカスは小さく笑い、二人から視線を逸らした。

「……気が変わらなかったら、また会おう」

そう言い残し、マーカスは研究室を後にした。その背中には、何かを振り切るような強い決意が漂っていた。

彼は自らの罪──母をその手にかけたことを明らかにし、法の裁きを受けるつもりだった。
それが、彼にとっての"清算"だった。
長年抱え続けてきた呪縛を断ち切るために。過去に決着をつけるために。

そして、もしその先に"再び会う未来"があるのなら──その時こそ、彼は本当の意味で、"仲間"として二人のもとへ戻る。

ほんのわずかに、だが確かに、未来を信じる光が、マーカスの瞳に灯っていた。

[System Timestamp]
2013-11-13T18:00:00-07:00

ジェイコブたちが施設を去った翌日の夕方、マーカスはM社本社ビルに呼び出された。通されたのは、高層階にある社長室。大きな窓の向こうには、現在建設中の新・本社ビルが屹立していた。

その景色を背に、サイモン・エヴァンスが優雅に紅茶を口にしていた。

M-Corp CEO:Simon.C.Evans

机の上には、マーカス用の紅茶も用意されていたが、彼はそれには目もくれず、無言のまま席に着いた。

サイモンはそんなマーカスの様子を一瞥すると、穏やかに微笑んだまま紅茶のカップを置いた。

「ようこそ、ジョン・マーカス。プロジェクトでの君の働きは見事だったよ」

三度目の邂逅だった。マーカスは直感的に警戒を強めた。サイモンの言葉は賞賛に満ちているが、その余裕ある微笑の裏にどこか"見透かしている"ような雰囲気がある。

「正式にオファーさせてもらおう。M社に来ないか?」

サイモンは、手元のタブレットを指で軽く弾く。滑らかな動作だったが、その何気ない仕草にマーカスは妙な違和感を覚えた。おそらくそこに、自分の詳細な経歴や実績が記録されているのだろう。

──俺の過去から何か仕入れてきたか?

マーカスは椅子に深く腰を下ろし、腕を組んだ。
表情こそ崩さなかったが、内心では緊張がわずかに高まるのを感じていた。
念願だったM社へのスカウト──かつてなら即答していたかもしれない。しかし今は違う。
彼はすでに、自首する覚悟を決めていた。母を手にかけた罪と向き合い、贖罪の道を歩むつもりだった。
だが──それ以上に、彼の中には警戒心が芽生えていた。
闇に堕ちていた頃なら、M社の裏に何が潜んでいようと関心などなかった。だが今は違う。
ジェイコブとアンジェラという"希望"に触れ、人間らしさを取り戻しつつある自分にとって、M社がもし"悪"ならば──見過ごすことはできなかった。
特に、彼らに危害が及ぶ可能性があるならば尚更だった。

「それは……この身に余る光栄だ。だがその前に、ひとつ確認しておきたいことがある」

サイモンは薄く微笑みながら頷いた。

「どうぞ。君ほどの人物が気にすることなら、私も興味がある」

マーカスは視線をサイモンの手元のタブレットに向け、わずかに目を細める。

「M社のバックに、グノーシス主義系の秘密結社がいるって噂──あれは本当か?」

サイモンの指が一瞬、タブレットの画面上で止まった。ほんの一瞬。だが、マーカスはそれを見逃さなかった。

すぐにサイモンは微笑みを取り戻し、何事もなかったかのように組んだ指先を顎に添えた。

「──そんな都市伝説を真に受けているのかね?」

サイモンはクスリと微笑みながら、子供を諭すように首を傾げる。
マーカスは鼻で笑う。

「都市伝説かどうかはともかく、そう思わせるのが一番手っ取り早い隠し方だろう? 戦場でもよくある手だ」

サイモンの表情の変化を見逃さないように目を細める。

「チャフってのはな、ただの金属片じゃない。本命を隠すための"影"を作る道具だ。派手に撒き散らせば、敵の目線はそっちに向く。そしてあんたの言動には、"意図的にそう思わせる仕掛け"が見え隠れしてる」

サイモンは、一度タブレットを指で弾いた。そして、ゆっくりと机の上に置く。その仕草はまるで、何かを確かめるようだった。

「なるほど……これは君の評価を見直さなければならないな」

その瞬間、空気がわずかに変わる。声のトーンは変わらない。だが、先ほどまでの"余裕のある微笑"の裏に、何か別のものが滲んでいる。

「仮にそれが隠された真実だとして、何か君にとって不都合があるのかな?」

マーカスは、冷めた視線を向けながら、静かに息を吐いた。

──ようやく、本題に入る気になったか。

「大ありだろ。"親会社にヘッドハントされたと浮かれていたら、実はカルトに入信してました"なんて、笑えないブラックジョークだ」

Simon Evans & John Murcus

サイモンはゆっくりと姿勢を正し、机の上で両手を静かに組んだ。 その仕草には、どこか儀式的な慎重さがあった。

「……50点といったところかな?」

言葉の端に、僅かな満足が滲む。サイモンは視線を真っ直ぐにマーカスへと向け、穏やかながらも確固たる口調で語り始めた。

「君が言ったように、M社は単なる企業ではない。我々は"LUX AETERNA"──知を求める者たちの結社の一端を担っている。M社はその"器"に過ぎない。そして私は、その導き手……つまり、教主だ」

マーカスは表情を崩さず、その言葉を静かに咀嚼する。

「本性を現したな。何が50点だ?ズバリ正解だろうが」

彼は腕を組み、サイモンの顔をじっと見つめる。微かな緊張が空気の中に滲む。
サイモンは、その反応を愉しむかのように、わずかに微笑んだ。

「カルト……という表現が誤りなのだよ。そもそも我々は宗教団体ではない。どちらかと言えばその対極に位置する存在だ」

「対極だと?グノーシス主義の秘密結社といえば蛇を崇めるサタニスト集団てのが相場だろうが」

サイモンはマーカスの言葉を受けて、楽しそうに微笑む。

「蛇を崇める……ね。確かに我々にとって"蛇"はシンボリックな存在だ。だが、それは"蛇"そのものではなく、"知"の象徴としての意味に過ぎない。蛇が知をもたらしたから、この世界では"悪"とされる。だが、もし“知”をもたらしたのが“ネズミ”だったら……」

サイモンはわずかに唇を歪める。

「そうだな、"夢の国"の支配者になっていたかもしれないな」

「ふん、知を求めるのもいいけどな、ジョークのセンスも磨くべきだな」

世界に名だたる大企業が、得体の知れない秘密結社のフロント企業であるという衝撃の事実を、サイモンはジョークを交えながら淡々と語る。
マーカスは、その軽妙さとは裏腹に、この会話の奥にある"何か"に警戒を強めていた。

サイモンは相変わらず余裕の笑みを浮かべ、ゆったりと背もたれに身を預け直す。まるで、ただの談笑を楽しんでいるかのように

「どうだ? ジョン・マーカス……君も我々と共に、"知の探求"を進める気はないか?」

マーカスは皮肉げに笑い、椅子に深くもたれた。

「知の探求……ね」

サイモンを見据えるその瞳には、嘲りとも興味ともつかない色が宿っていた。

──こういう時、"イエス"と答えたほうが生存率は上がる。だが、"あえて"ノーを突きつけなければならない局面もある。

慎重に言葉を選びながら、マーカスは静かに口を開いた。

「悪いな、俺は"知"より"利"の方が好みでね。願わくばそんな俺が、あんたらのお仲間になる“理”をご教示いただけると有り難い。今のままじゃ、ただの胡散臭いオカルトだ」

サイモンはわずかに口の端を歪め、愉快そうに首を傾げる。

「──何が知りたい?」

マーカスは表情を消し、冷ややかな視線でサイモンを射抜いた。

「お利口さんたちが集まって何を企んでる? 悪の秘密結社の様式美、世界征服でも狙ってるのか?」

マーカスの言葉には、あからさまな皮肉が滲んでいた。だが、サイモンはまるで余裕そのものといった表情で、薄く微笑みを浮かべたままだった。

「世界征服……ね。ずいぶん古典的な発想だ」

組んでいた指が解かれ、サイモンはゆっくりと身を乗り出した。

「だが、それが“完全な誤り”だとは限らない。"それ"は我々の目的における第一段階に過ぎない。そして──それは、もう八割方達成されている」

その言葉に、マーカスの眉がわずかに動く。

「ほう……王手ってわけか。で、支配したその先は?神の真似事でもするのか?」

「“真似事”ではなく──“神の創造”だよ」

サイモンは静かに語り始めた。

「この不完全な宇宙という牢獄を破壊し、全人類を“約束の知”へと誘う。我々が目指すのは、“全人類の意志”を束ね、その結晶として──完全無欠なる神、“オメガ・デミウルゴス”を創造することだ」

「……」

マーカスは短く鼻を鳴らし、肩をすくめた。

「……なるほど、狂人の妄想だな」

サイモンは静かに視線を合わせる

「そうかもしれない……だが、狂っているのは私か──それともこの“宇宙”か」

マーカスの眼がわずかに揺れる。その“宇宙”という言葉の中に、自分の過去の痛みまでも含まれている気がしたのだ。

サイモンの唇が僅かにつり上がる。

「ジョン・マーカス──君は、この“理不尽な宇宙”をどう思う?」

その問いは、単なる興味ではなく──マーカスの過去に踏み込むものだった。
彼が背負ってきた傷、信じていたものへの裏切り、そして、決して癒えることのない記憶。
それら全てを暴き出すような、鋭く、それでいて優しく囁くような言葉だった。
サイモンはマーカスの表情を見つめながら、ゆっくりと静かに……まるで独り言のように語り出した。

「……どの親のもとへ生まれるかの選択の余地はなく、それ故、生まれついての不平等は避けられない。君とて理想の母に愛される人生が送りたかったのではないのかな?」

マーカスの瞳が一瞬揺れた。
施設育ちであることは、経歴を見れば誰にでも分かる。だが、サイモンの口調は、ただのデータに基づいたものとは思えなかった。
そこには、まるで"すべてを知っている"かのような、確信めいた響きがあった。

「……何が言いたい?」

マーカスは低く問い返す。しかし、サイモンはまるで当然のことのように肩をすくめた。

「この宇宙の理不尽さは、君もよく知っているはずだよ、ジョン」

彼の声は、落ち着いていた。それが余計に、マーカスの中に不安を呼び起こす。

「君の意志とは無関係に決まってしまった君の母は、君を愛さず、捨てたのではないのかね?」

マーカスの拳がわずかに震えた。

「それが……何だってんだ?」

サイモンは穏やかに微笑みながら、手元のタブレットを指で弾いた。薄暗い画面が光を帯び、そこにはマーカスの詳細な経歴が映し出されているようだった。

「それでも君は、原初の記憶の温もりに縋り、自分を捨てた母親を愛していた。しかし、無惨にもその愛は裏切られ、君は──」

サイモンはそこで意味深に言葉を切る。

「その後君は心を閉ざし生きてきた。それでいて、なお、心のどこかで“もし違う人生を歩んでいたら”と考えたことはないか?」

マーカスの目がわずかに細められる。

──どうして、それを知っている?

これは、アンジェラにしか話していないことだ。いや、アンジェラにすら、"すべて"を話したわけではない。
過去に語ったのは、母との関係の“ほんの一部”に過ぎない。それを、この男がどうして、ここまで確信を持って語れる?

「黙れ……」

歯を食いしばる。声がかすれるほど、奥歯を噛み締めていた。サイモンは動じることなく、むしろ満足そうに微笑みを深めた。

「この宇宙は欠陥品だ、ジョン。君だけではない。誰もが、何かしらの不満を抱えて生きている。そして、その原因の多くは"選べないこと"にある」

マーカスの指先が、無意識に拳を握りしめる。

「君は生まれる前に、どんな親のもとに生まれるかを選べたか? どんな人生を歩むかを、誰かに問われたことはあるか?」

サイモンは、静かにタブレットの画面をマーカスに向ける。そこには、未だスクロールされぬままの情報が映し出されていた。

「だからこそ、私たちは"選べる世界"を作る。理不尽を排除し、"新たな神"が秩序をもたらす世界をね」

マーカスの視線が、タブレットの画面に釘付けになる。そこに映し出された一つの名前が、彼の呼吸を凍りつかせた。

【アンジェラ・カタギリ】

「──さっきからチラチラと何を見てやがる?」

マーカスの声は低く、だが鋭く響いた。
彼の指がタブレットに伸びかけたその瞬間──突如として背後から強烈な力が加わる。

Marcus subdued by a man
who suddenly emerged from optical camouflage.

「……っ!?」

反射的に振り返ろうとするが、すでに遅かった。
彼の腕は容赦なくねじ上げられ、身体ごと押さえつけられる。
拘束された瞬間、周囲の空気が揺らぎ、まるで虚空から生まれたかのように黒い影が浮かび上がった。
さながら幽霊が実体化したかのような異質な存在──全身をコンバットスーツに包んだ男が、無音のままそこに“いた”

光学迷彩──可視光を完全に遮断し、背景に溶け込むことで人の目には一切映らない。通常のカモフラージュ技術とは異なり、この迷彩はナノスケールの屈折制御を用いることで、対象の周囲に存在する光そのものを再構築し、完全な透明状態を作り出す。
従来の技術では、静止時や低速移動時に限りほぼ完璧な隠蔽が可能だったが、動作中の不完全な光の乱反射がわずかに発生し、わずかな歪みが生じてしまうのが弱点だった。だが──この男の装備は違う。

超高密度のメタマテリアルと量子ドット技術を組み合わせた、新世代の迷彩システム。動いても背景との同化を維持し続ける"完全なる透明"を実現した、次世代のステルス技術。

マーカスはこの場に伏兵が潜んでいたことに、まるで気づけなかった。否、気づくことが"不可能"だったのだ。

「まだ世に出ていない技術……」

拘束されたマーカスの肩越しに、サイモン・エヴァンスの穏やかな声が響く。

「これが我々LUXの力……その一端に過ぎないがね」

サイモンは微笑みながらそう言い放った。
マーカスは歯を食いしばる。未知の領域に踏み込んでしまったかのような感覚。腕に力を込めるが、背後の男の拘束は揺るがない。
じりじりと広がる苛立ちと警戒心を抑え込みながら、マーカスはサイモンを鋭く睨みつけた。

「俺を脅すつもりか……?」

サイモンはわずかに首を傾げ、優雅な仕草でタブレットを閉じる。そして、静かに立ち上がりながら、目を細めた。

「脅す?とんでもない。私はただ"スカウト"をしているだけだよ」

サイモンはゆっくりとした動作で、スマートフォンを取り出し操作する。するとマーカスの懐で彼のスマートフォンが一瞬だけ振動した。

「ただ……私は無理強いはしない主義でね。我々の教義に賛同いただけないのなら、帰ってもらって結構だ。ただし……ここで見聞きしたことについては、口外しないほうがいい──長生きしたければね」

スマートフォンをしまいながら淡々とした口調で告げる。だが、その言葉の裏には鋼のような確信と、絶対的な支配力があった。
マーカスは無言でその言葉を聞いていた。
サイモンは、再び穏やかな声で続ける。

「もし、気が変わったならコールバックを。いつでも歓迎しよう」

それを合図にするかのように、コンバットスーツの男が無言で手を離した。

マーカスは鋭い眼差しでサイモンを睨みつけながら、ゆっくりと立ち上がった。一瞬、全身の筋肉が強張る──殴りかかりたい衝動が、脳裏をかすめる。しかし、相手はただの男ではない。ここで動けば、今度こそ命はない。

無言で踵を返し、扉へと向かう。

その背中を見送りながら、サイモンは静かに微笑み、手を軽く振った。

「Have a nice day, John」

Simon Evans & John Murcus

「……クソが」

低く呟き、マーカスは社長室を後にした。

去りゆくマーカスを見送りながら、サイモンはゆっくりとカップを傾け、紅茶を口に運んだ。そして、背後に控えていたコンバットスーツの男に静かに声をかける。

「エドガー、君の"人を操る才能(タレント)"を疑うわけではないのだが……本当にこれで彼が同志になるのかい?出来ることなら彼を“昇天”させたくはないのだがね」

プシュッ──密閉された接合部から微かに気圧が抜ける音。
男は無言のまま、ゆっくりとヘルメットを脱いだ。
そこに現れたのは、サイモンとはまるで対極の美を持つ男。
サイモンの顔立ちは、どこか中性的で、優雅で洗練された"知的な美"を湛えている。まるで、時を超えて存在する聖堂の彫刻のように、静かで神秘的な雰囲気を持つ。

一方、エドガーの容姿は"精密にデザインされた理想の男"を思わせた。金髪に碧眼、シャープに整った輪郭。完璧に計算された黄金比を思わせる端正な顔立ちには、野心と冷徹な知性が同居していた。
だが、その目には感情の揺らぎ一つなく、冷ややかな光が宿っていた。

EDGAR.D.WILLIAMS

「ご安心を、ルミナリ・カイン。後は仕上げを待つのみです」

エドガーはわずかに微笑み静かに告げる。その表情には、言い知れぬ余裕が漂っている。

「彼のように疑り深い人間は、決して与えられた情報をそのまま信じることはありません。むしろ、与えられた情報を"見抜いた"と考え、それを覆そうとする」

サイモンは興味深げにエドガーを見つめた。エドガーはさらに続ける。

「ですが、人は自らが"掴み取った"と錯覚した情報には、絶対的な信頼を置くものです。私の役目は、ただ情報を伝えることではありません」

エドガーは指先でテーブルを軽く叩きながら、冷静に言った。

「重要なのは、自らの選択だと"思わせる"こと。そして、自らが導き出したと"思わせる"情報を与えること。それができれば、人は疑うことなく、己の意思で最も適した“物語(ナラティブ)”を紡いでゆく」

サイモンはエドガーの言葉に静かに耳を傾けていた。窓の外では、建設中の新本社ビルが夜の闇にそびえ立っている。その光景を一瞥しながら、彼は淡々と問いかける。

「しかし、彼はアマノ博士やカタギリ博士に心を開き、随分と人間らしさを取り戻していたように思えるがね。友人としての信頼関係が、ある程度は構築されているのでは? そんなに容易く君の術中にはまるものかね?」

エドガーは微かに微笑み、ゆっくりとサイモンの方へ視線を向けた。

「鋭いご指摘です。しかし──彼はカタギリ博士に対して"友情"を超えた感情を抱いてしまいました」

彼は静かに続ける。

「親愛、崇拝、あるいはそれ以上のもの。それは即ち──アマノ博士に対する嫉妬、そして憎しみへと変容する。彼自身は、まだその感情に自覚がないでしょうがね」

サイモンは興味深そうにエドガーを見つめながら、椅子の背もたれに身を預ける。

「愛と憎しみの大波の前では、信頼関係など水面に浮かぶ儚い波紋に過ぎません。彼にとって、アマノ博士は愛しい人を奪い去った略奪者、カタギリ博士は"より良い種"を求めて彼を捨てた裏切り者。その構図が成立した以上、彼の内なる感情は否応なく揺さぶられるのです」

エドガーは、一度ゆっくりと息を吐き、続ける。

「もちろん、アマノ、カタギリ両博士への連絡は繋がらないようにしてあります。彼にとって唯一の拠り所であった二人との接触が断たれた今、その精神状態は極めて不安定です。そこへ──」

エドガーはふと手を上げ、拳を握る。

「トラウマを刺激し、プライドを砕く"一押し"を加えると……」

彼は拳をゆっくりと開く、そして無言のまま、楽しげに口の形だけを動かす。

And then… boom.”

"BOOM"

沈黙の中に、意味が充満する。
エドガーはサイモンと視線を交わし、ゆっくりと微笑む。

「どうぞ、彼からの返答をお待ちください」

彼は淡々と告げる。その声音には、一切の迷いも、疑念も感じられない。サイモンは、ふと考えるように顎に手を当て、静かに言葉を発した。

「前から疑問だったんだけどね……」

その声には、探るような興味と、どこか愉快そうな響きが混じっていた。続けて視線を向ける。

「君は、他人の痛みをほとんど感じない」

穏やかな声音だった。
責める響きも、蔑む気配もない。
ただ既知の事実を確認するような口調。

「この言い方が失礼なら謝ろう。だが率直に言えば、君はいわゆる“サイコパス”に分類される人間だろう?」

サイモンはわずかに首を傾けた。

「そんな君が、なぜ他者の感情をこれほど正確に読み取り、本人にすら気づかれぬまま誘導できるのか──以前から興味があった」

エドガーは表情を変えなかった。
わずかな沈黙の後、淡々と答える。

「共感は、理解の必要条件ではありません」

サイモンの目が細められる。

「痛みを共有できなくとも、痛みが生じる条件は分析できる。愛を感じなくとも、人が何を愛と呼び、何を失うことを恐れるかは観測できる」

エドガーは静かに髪をかき上げた。

「むしろ感情を共有しないからこそ、対象に引きずられることなく、その構造を正確に把握できるのです」

そして、ほんのわずかに口元を緩める。

「我々の教義に当てはめるならば、私の“能力”もまた、進化の一つの可能性と言えるのでは?」

彼は静かに髪をかきあげながら続ける。

「多くの獲物を仕留め、空腹を癒したいと望んだものは鋭い牙と爪を手に入れ、空を舞いたいと願ったものは翼を得た」

エドガーは自らの指先を眺める。

「そして──他者を思うままに操りたいと望んだものは、他者の心を感じる能力ではなく、他者の心を解体する能力を得た」

サイモンの微笑が、わずかに深くなった。

「なるほど。君は心を感じているのではない」

カップを持ち上げながら、面白がるように言う。

「心を構造物として見ているのか」

「概ね、その認識で間違いありません」


エドガーは頷いた。
そして少し考える素振りを見せた後、静かに付け加える。

「ただし、教主のように、まるで通用しない相手も存在いたしますので……まだ進化の余地は残されていると感じていますが」

サイモンはカップを口元まで運びながら、エドガーを見つめた。

「それはつまり──いずれは私をも操るつもりだということかい?」

一口だけ紅茶を含み、静かにソーサーへ戻す。

「さすがは“神の子”だね」

エドガーは微笑んだ。
だがそれは、感情から生じた笑みではない。
相手へ与える印象を計算し、表情筋を適切に動かしただけのものだった。

「私はただ、可能性について申し上げただけです」

「そういうことにしておこう」


サイモンは楽しげに応じた。
その返答が、冗談なのか警告なのか、エドガーには判別できなかった。
数秒の沈黙。
やがてエドガーは、わずかに視線を伏せる。

「……ルミナリ・カイン。僭越ながら、一つお尋ねしても?」

サイモンは頷いた。
まるで、次に何を問われるか知っていたかのように。

「ジョン・マーカスに、それほどの価値がありますか?」

エドガーの声からは、侮蔑も敵意も感じられなかった。ただ不要な部品を指摘する技術者のような、冷静な疑問だけがあった。

「観察可能な限り、彼の才能も情熱も平均以下です。忠誠心は低く、猜疑心は強い。それどころか、いずれ我々へ牙を剥く可能性も高い」

サイモンは反論せず、静かにカップを置いた。

「私が彼を欲する理由か」


しばらく余韻を置いてから、語りかけるように続ける。

「それは、君を欲した理由とまったく同じだよ」

エドガーの眉が、わずかに動く。

「……同じ、ですか?」

「そう。私たちは“神を創る”者であると同時に、“神を殺す”者でもある」


サイモンは静かにカップをソーサーへ戻した。

「人間が最初に出会う神は、親という存在だ。世界を与え、名を与え、何が正しく、何が間違っているかを決める」

エドガーはわずかに目を細める。

「ジョン・マーカスは、その最初の神をすでに自らの手で殺している。彼にとって神と呼べるものは、母親ただ一人だった」

「母親の殺害を、資質として評価しているのですか?」

「殺人そのものではないよ」

サイモンは穏やかに微笑んだ。

「彼は、信じ続けた愛を、自分を生かしてきた美しい物語を、その手で破壊してしまった」

一度言葉を切り、カップの縁を指先でなぞる。

「私が見ているのは、その行為ではない。そこまで彼を追い込んだ──“絶望”だよ」

「絶望……?」

「そう、絶望だ」

サイモンの瞳に、静かな熱が宿る。

「神殺しとは、絶望への屈服ではない。絶望に抗い、神から与えられた世界を自らの手で覆そうとする意志の体現──革命なんだよ」

そして、ゆっくりとエドガーへ視線を向ける。

「エドガー、君とて例外ではない。自覚はないかもしれないが、君もまた、君の望む世界を阻む神に絶望し──その神を排除した」

サイモンは陶酔するように目を細めた。
エドガーはその視線を正面から受け止め、静かに疑問を投げかける。

「であれば、なおさら理解できません。そのような者が、いずれ我々の理想に絶望したなら……」

サイモンの唇が、ゆっくりとつり上がった。
エドガーには、その笑みが悪魔のものに見えた。

「牙を剥くなら、それもまた一興」

そして慈愛に満ちた聖人のように、両手を広げる。

「その裏切りすら自らの糧へ変えられぬ者に、神殺しを率いる資格などない」

微笑みを深め、静かに告げる。

「だから君も──遠慮しなくていいんだよ、エドガー」

エドガーは返答しなかった。返せなかったのではない。返答という行為そのものが、サイモンの用意した物語へ参加することだと理解したからだ。

否定すれば、自らの裏切りについて弁明する立場へ置かれる。肯定すれば、“神の子”として与えられた役割を、自ら受け入れることになる。
どちらを選んでも、この男が用意した物語の登場人物にされる。

エドガーは計算された微笑を崩さぬまま、サイモンを見返した。

背筋を走った冷たい感覚が、恐怖なのか、敗北感なのか──彼自身にも判別できなかった。

ただ一つ、理解したことがある。
目の前の男は、自分の裏切りを警戒しているのではない。

裏切ることまで含めて、自分を選んでいる。

[System Timestamp]
2013-11-13T18:30:00-07:00

M社本社ビルを出たマーカスは、強張った表情のまま夜の街を歩いていた。
路面に映る街灯の光が、彼の影を引き伸ばし、不安定に揺れる。心臓の鼓動がやけにうるさく響く。静かな夜に、不愉快なほど鮮明に感じられた。

サイモン・エヴァンスの言葉が、頭の中で反響し続ける。

「君の意志とは無関係に決まってしまった君の母は、君を愛さず、君を捨てたのではないのかね?」

なぜ知っている。母のことを。
話したことがあるのは、アンジェラだけのはずだ。だが、アンジェラにさえ、本当のこと──母をこの手にかけたことだけは、決して話していない。

それなのに、サイモンは確かに知っていた。
あの余裕ある態度と、タブレットに映し出されたデータ──あれが何を意味するのか、確認しなければならない。

マーカスは無意識に拳を握りしめた。指先にじっとりと汗が滲んでいる。呼吸を深く整えながら、ラボの入り口に足を踏み入れた。

自動ドアが静かに開き、冷たい人工光が彼を迎える。ラボは夜の静寂に包まれ、人気はなかった。

ポケットのスマートフォンを取り出し、アンジェラの番号を押す。応答なし。
ジェイコブの番号を押す。やはり繋がらない。

苛立ちが胸の奥で静かにくすぶる。
二人とも、あのタブレットのデータを知っているのか?それとも──いや、もし知っていたなら、なぜ今まで何も言わなかった?
このまま考えていても答えは出ない。ならば、自分で確かめるしかない。

マーカスは端末に手を伸ばした。"EVE"──従順なAIがそこにいる。それを思い出すと、彼は迷いなく命じた。

「EVE、M社のセキュリティを突破し、サイモンのタブレットにアクセスできるか?」

次世代型AI、EVEは、一瞬だけ沈黙した。

「M社のセキュリティは最上級レベルの防御プロトコルで保護されています。通常の侵入は困難です」

「分かってる。それでもできるか?」

マーカスの声が、わずかに低くなる。
EVEは数秒間、計算を行っているようだった。まるで"ためらう"ような沈黙が、マーカスの神経を逆撫でする。

「従来のサイバー攻撃は困難ですが、"データの影"を追跡することで、アクセス可能な情報断片を再構築できます」

"データの影"──聞き慣れない言葉だった。だが、今は理屈よりも結果が欲しい。

「やれ」

イブの応答は、ほんの少しだけ遅れた。

「解析開始……進行中」

マーカスは画面を睨みながら、無意識に拳を握りしめる。指先が微かに震えていることに気づいたが、それを意識の隅へ追いやる。数秒後、イブが告げた。

「アクセス成功。再構築されたデータの閲覧が可能です」

──速い。異様なまでに速い。

通常、これほど高度な防御システムを破るには、どんな天才ハッカーでも数時間から数日を要するはずだ。だが、イブは数秒でやってのけた。
背筋に冷たいものが走る。
画面に表示されたのは、見慣れぬファイル名。

【心理的適性評価:J.マーカス/採用関連ファイル】

指が躊躇いなくタップし、次の瞬間──マーカスの全身が凍りついた。そこには、"アンジェラ・カタギリ"の名前が記されていた。

マーカスは震える指でタブレットの画面をスクロールした。そこに書かれていたのは、"心理学博士"アンジェラ・カタギリによる詳細なレポート──彼自身についての心理分析だった。

===========================================
対象者:ジョン・マーカス
報告者:アンジェラ・カタギリ
===========================================
- **心理評価**:
  - 極度の女性不信
  - 対人関係において強い攻撃性を示す
  - マザーコンプレックスの傾向が見られる
  - 例外的に私(アンジェラ・カタギリ)に対しては異性としての
    好意を抱いている
  - また、ジェイコブ・アマノに対しては友人・あるいは兄弟のよ
    うな親愛の情を抱いている
  - 上記の特別な感情を利用すれば、ある程度のコントロールは可能
  - **業務中に確認済み**
  
- **行動分析**:
  - 過去に暴力的行動の記録あり
  - 特定の条件下で強い防衛反応を示す
  - **おそらく実母を殺害している**
  
- **推奨措置**:
  - 信頼関係を築きつつ、慎重に観察を続ける
  - 必要に応じて心理的誘導を行う
  - コントロールが困難になった場合、**適切な対処を検討**

【極度の女性不信】
【対人関係に問題あり】
【おそらく実母を殺害している】

マーカスの手が止まった。

──何だ、これは?

目の前の文字が、ぐにゃりと歪むような錯覚を覚えた。視界が揺れる。耳鳴りがする。鼓動がやけに速く、しかし冷たい。体温が一気に下がるのを感じた。

「……っ」

喉が張りつき、息がうまく吸えない。
アンジェラに話したのは、母との関係についてだけだった。だが、彼女に母を殺したことまでは話していない。それなのに、ここには"おそらく実母を殺害している"と明記されている。

──どうしてアンジェラが、それを知っている? そして、それ以上に──なぜ、このレポートが存在している?

過去、アンジェラの言動に感じた僅かな違和感が、全て一本の糸で繋がったような感覚。

ふと、脳裏に浮かぶ。
何気ない笑み、親しげに肩を叩いたあの手の感触、震える拳を優しく包み込み、涙を流したあの表情。
だが──本当に、それは"優しさ"だったのか?

彼女の微笑み。気遣うような言葉。時折見せる妙な距離感。それらすべてが、今この瞬間、恐ろしいほど明確な意味を持ち始める。

アンジェラが自分に優しくしていたのは、研究・職務の一環だったというのか? 彼女は"仲間"として接していたのではない。俺はただの"観察対象"に過ぎなかった。分析され、評価され、"コントロール可能な存在"として扱われていたのだ。

私に対しては異性としての好意】
【ジェイコブ・アマノに対しては友人・兄弟のような親愛の情】
【感情を利用すれば】
【コントロールは可能】
【必要に応じて心理的誘導】
【適切な処置】

レポートに綴られた一文一文が、凍った刃のように心臓を貫いた。

「……っ」

彼女は俺を"研究対象"として見ていた。"患者"として扱っていた。"駒"扱いしていた。"利用"しようとしていた。

──そう、あの"売女"と同じように。

彼女の言葉に救われたと思った瞬間もあった。信頼しようとしたこともあった。それが、すべて計算されたものだったというのか。
胸の奥に鋭いものが突き刺さる。怒り。憎しみ。裏切られた悲しみ。だが、それらはまるで硝子細工のように脆く、あっけなく砕け散った。

──ああ、そうか……俺は最初から、"愛"だの"情"だの、そんな甘ったるい世界には縁がなかったんだ。

気づけば、マーカスは笑っていた。小さく、くぐもった笑いが喉の奥から漏れ出す。肩が震える。やがてそれは大きな笑い声へと変わっていた。

「──ハハ、アハハハハッ!」

笑いが止まらない。笑いながら、マーカスは自らの額に手を当てた。かつて母に手をかけた夜、頭の奥に染みついた血の匂いが蘇る。笑いながら、マーカスの頬を一筋の涙が伝う。

“Now I understand.”

それは悲しみか、それとも憎しみか──自分でも分からなかった。

ジェイコブに対して抱いていた友情──馬鹿らしい。
アンジェラを守りたいと願っていた自分──滑稽だ。
罪を精算し、"正しく"生きようと足掻いていた自分──愚かしい。

俺の生きる世界は腐っている。人間は偽善に満ち、欺瞞に塗れている。どれだけ正しくあろうとしても、結局は弱い者が"奪われる"だけなのだ。

──だったら、俺は"奪う"側に回るまでだ。

指が、ポケットのスマートフォンを探る。震えているわけではない。ただ、軽い愉悦すら感じながら、マーカスは指先で画面を滑らせた。コール音が数回鳴る。受話器の向こうから、落ち着いた男の声が響いた。

『やあ、ジョン。気が変わったかな?』

マーカスは微かに笑みを浮かべながら、静かに答えた。

「ああ、さっきの話……オーケーだ。このクソ溜めみたいな世界を作った“神”とやらを……殺させてくれ」

電話の向こうで、サイモンが楽しげに、深く喉を鳴らした気配がした。 まるで、期待以上の正解を聞いた教師のように。

『──歓迎しよう。同志マーカス』

目の奥が熱い。拭う間もなく、涙が頬を伝っていた──意志では止められない、自壊の証のように。
その瞬間、彼の中に残っていた最後の輝きは──どす黒い炎に飲み込まれ、音もなく消え去った。

そしてこの瞬間、世界にまた1人、"神を殺す者"が生まれた。


[System Status] CHAPTER_2_VERSE_08_COMPLETE
[Next Sequence] CHAPTER_2 / INTERLUDE

[Next Sequence] →CHAPTER_2/INTERLUDE


設定資料集

M-CORP_INTERNAL_ARCHIVE

[00] ■ 人物プロファイル (Personnel Profile)
ID: JMC-009
Name: ジョン・マーカス (John Marcus)

Role:LUX ATERNA信徒
Status:堕天
Note:
かつて母を殺害した罪を償うため、法の裁きを受ける決意を固めていたが、サイモンとエドガーの策謀により「アンジェラに研究対象として見下されていた」という偽情報を植え付けられ、精神が崩壊。
愛と信頼を「欺瞞」と断じ、世界への復讐心からM社入りを決断。「神(理不尽な世界)を殺す」ためなら悪魔に魂を売ることも厭わない、冷酷な執行者へと変貌した。


ID: CEO-000
Name: サイモン・C・エヴァンス (Simon C. Evans)

Role: LUX AETERNA教主

Note:
ITの寵児という表の顔の裏で、グノーシス主義に基づく秘密結社「LUX AETERNA」を率いる教主。
「この宇宙は不完全な創造主による失敗作である」という思想を持ち、科学技術によって新たな神(完全な秩序)を創造することを目論む。マーカスのトラウマを的確に突き、彼を自陣営に引き込む老獪な支配者。


ID: EGR-000
Name: エドガー・D・ウィリアムズ (Edgar D. Williams)

Role:教主の内弟子

Note:
サイモンの忠実な腹心にして、人心掌握の天才。光学迷彩を用いた隠密行動や制圧術もこなす。
「人は自ら掴み取った情報こそを真実と信じ込む」という心理を悪用し、マーカスに自らハッキングを行わせることで、捏造された心理レポートを「真実」として誤認させた張本人。他者の絶望と転落を演出することに愉悦を感じる歪んだ性質を持つ。

[01] ■ 技術仕様書・用語集 (Technical Glossary)

【LUX AETERNA(ルクス・エテルナ)】

解説:
M社の母体となっている秘密結社。「永遠の光」を意味する。
古来より「知(グノーシス)」を探求し、物質界という牢獄からの魂の解放を目指す組織。サイモンを頂点とし、政治・経済・軍事の各分野に信奉者を送り込んでいる。M社はその計画を実行するための巨大な「器」に過ぎない。


【オメガ・デミウルゴス (Omega Demiurge)】

解説:
LUX AETERNAが目指す最終目標。
全人類の意識と意志を統合し、不完全な創造主(デミウルゴス)に代わる「完全な神」を人工的に創造する計画。サイモンはこれを「真の秩序」と呼ぶが、それは個人の自由意志が完全に管理されたディストピアの完成を意味する。


【捏造された心理レポート (Fabricated Psychological Report)】

解説:
エドガーが作成し、M社の深層サーバーに配置した罠。
アンジェラ・カタギリ名義で書かれており、「マーカスをマザーコンプレックスの傾向がある危険人物として分析し、コントロール下置く」という内容が記されている。
マーカスが「自らの技術(EVE)でハッキングして手に入れた」というプロセスを踏ませることで、疑いようのない真実として誤認させ、彼に残っていた最後の良心を粉砕した。


【光学迷彩 (Optical Camouflage)】

解説:
メタマテリアルと量子ドット技術を応用した、M社独自の隠蔽技術。
可視光を湾曲させ、対象を完全に透明化する。静止状態だけでなく、動作中においても背景と同化し続けることが可能。エドガーがマーカスを制圧する際に使用した。


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