ニーチェと利休(でも本当は川上不白)
前回記事の後半で、東洋思想である「守・破・離」の精神を語りました。
守破離の概要は以下になります。
1.守:まずは師の型をそのまま守り
2.破:充分な習熟の後に、他流や例外事例を取り込みながら型を破り
3.離:最終的には固有の形式へと離れていく
実はこの東洋思想と、非常によく似た西洋思想が存在します。
それがニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』で示された、「精神の三つの変化」(三段階の変身)です。
以下、順を追って説明します。
「精神の三つの変化」概要
ニーチェは、「人間の精神は次の三段階を経て変化する」と述べています。
ラクダ(従順):
「重荷を背負う者」
伝統・道徳・義務・他者の期待などを「はい」と言って背負う段階。
⇒ 従順で道徳的な「善人」であり、既存の価値体系に従う。獅子(反抗):
「否定する者」
ラクダが背負っていた価値を打ち壊し、命令に「いいえ」と叫ぶ者。
⇒ 破壊の精神、権威や神への反抗の象徴。
ただし、獅子は「自由」にはなったが、まだ「創造」には至っていない。子供(創造):
「遊戯する者」
破壊を終え、純粋な創造の場で、価値を「遊びのように」創り直す存在。
⇒ ここで初めて「新しい始まり」が可能になる。
表層的な対比構造は驚くほど似ています。
守=ラクダ、破=獅子、離=子供
東洋思想と西洋思想は、意図せず邂逅してたんですね!
わあすごい!
で終わると何も面白くないので、今回は両者の違いを考えていきます。
似て非なるもの
まず、なぜ形式上で両者はこれほど似ているのか?
これは偶然ではなく、人間が精神的成熟を達成する際の普遍的プロセスを、東西それぞれが異なる文化的文脈で記述したものだと考えられます。
しかし「思考の方向性」に、決定的な違いが存在します。
思考の方向性
東洋の「守破離」は、道(タオ、ミチ)そのものの円環の内にとどまる。
つまり「型を超える」ことは「型を忘れる」ことではなく、「型と一体化する」こと。
思考の方向性は内向き、すなわち「型の身体化」を通じた、調和の境地となります。
ニーチェの「精神の三つの変化」は、世界の再創造を目的とする。
「道に従う」のではなく、「道そのものを新しく生み出す」。
思考の方向性は外向きであり、「宇宙的創造の意志(Wille zur Macht)」へと拡張します。
「無」への態度の違い
禅や芸道における「離」は、無心・無為自然の境地。
→ 世界と一体化する「無我」の完成。
ニーチェの「子供」は、虚無を肯定する存在。
→ 世界が意味を失っても、「遊戯」として自ら意味を与え続ける。
同じ「無」に向かっているように見えて、東洋は「無に帰る」方向、ニーチェは「無から創る」方向に進みます。
すなわち、解脱と創造のベクトル差が違います。
「仏を殺せ」「神は死んだ」の対比
東西の代表的な格言でも、比較してみましょう。
臨済義玄(りんざいぎげん)「逢仏殺仏(仏に逢うては仏を殺せ)」
臨済が殺そうとしているのは、実在の仏陀や宗教組織ではなく、修行者の心の中に巣食う「仏(聖なるものへの執着)」になります。
「悟り」や「ありがたい教え」を対象化し、それに縋ろうとする「依存心」を断ち切ることを意味します。
目的:仏を殺し玉座を空にする。そして玉座に誰も座らせない。つまり、無や空に徹すること。
ニーチェ「神は死んだ」
ニーチェが獅子として戦うのは、キリスト教道徳やプラトン主義といった「外部から”絶対的”だと言われて押し付けられた価値体系」です。
これは「ルサンチマン(弱者の恨み)」に基づいた道徳を破壊し、人間本来の存在力を取り戻すための戦いと言えます。
目的:神を殺し玉座を空にする。そして玉座に超人(自分自身)を座らせる。つまり、究極の主観を獲得すること。
東西の価値観
この対比から、東西における価値観の違いが見てとれます。
東洋的価値観の理想は「主観を0%にする」
「私という不純物を取り除き、世界をクリアに透過させる」試み。
禅において心は「鏡」に例えられます。
鏡自体に色はない。
だからこそ赤い花は赤を、青い花は青をそのまま映すことができます。
ここに「私(主観)」はありません。
「私」がいなければ、傷つき迷う主体も存在しなくなります。
風が吹けばなびき、止まれば静まる。
人間もまた、天然自然の物理現象として機能する状態です。
西洋的価値観の理想は「主観を100%にする」
「世界から外部要因を排除し、全てを我が意志として塗り替える」試み。
ニーチェが説く「運命愛(Amor Fati)」は、単なる受容ではありません。「過去に起きた全てのこと」に対し「私がそう欲したから、そうなったのだ」と、絶対的主観をもって承認する行為です。
主観が100%になるということは、世界に「神のせい」や「環境のせい」という不純物が0%になることを意味する。
全責任を自分一人で背負う、極めて過酷で孤独な「創造主(神)」の立場に自らを置く状態です。
極限における「逆説的一致」
ここからが、今回の記事の核心になります。
数学において「極大」と「極小」が特定の位相で接するように、「主観100%」と「主観0%」は、その極限点において区別がなくなります。
(Coincidentia Oppositorum:反対の一致)
整理すると以下になります。
極大=主観100%の世界(西洋)
「世界=私」となる。私の意志と世界の動きが完全に同期している状態。外部(他者)が存在しない。
極小=主観0%の世界(東洋)
「私」が消滅し、残るのは「世界」だけ。私は世界そのものになっている。
結果
どちらの道を選んでも「私と世界の境界線が消滅した状態」に到達する。
ニーチェの超人は、世界を飲み込んで一つになる。
禅の達人は、世界に溶け込んで一つになる。
やっぱり東洋思想と西洋思想は、意図せず邂逅してたんですね!わあすごい!
余談
守破離は「かの千利休が提唱した」とよく言われますが、さにあらずです。
調べると江戸期の茶人『川上不白』に辿り着きますが、そこから先は不明みたいですね。
検索時に出会ったこの方の記事が、めちゃめちゃ頑張ってて感動しました。
