【認知工学的創作論】創作者向けOSプロトコル①『文章力を解体する』
「それ」は本当に才能の問題なのか?
「才能がない」と夢を諦めた瞬間、人は少しだけ楽になります。
努力し続けた末に壁にぶつかり、「これは才能の問題だ」と結論づける。
その瞬間、苦しかった問いに答えが出る。
なぜ上手くならないのか。
なぜ認められないのか。
答えは「才能」
シンプルで清潔、でも悲劇的な結論です。
でも、その「才能」のせい。
本当に検証しましたか?
多くの場合、検証という選択肢すら思考の枠外に置いたまま結論を出しています。
なぜ人は「才能」という言葉で、物事を片づけてしまうのか。
「才能のせい」と結論づける前に、僕たちは細かく考えるべきものがあるはずです。
何を上手くなりたかったのか?
その「上手さ」は、どの要素で構成されているのか?
壁にぶつかったとき、その壁の正体をちゃんと見たのか?
僕たちは対象をよく見ないまま「才能」という理由の扉を開けてしまう。
それは語る為の言葉を、そもそも定義していないからです。
だから、まずは言葉の定義をしてみましょう。
言不順則事不成
(言順ならざれば則ち事成らず。)
見出しは孔子の有名な言葉です。
現代風に訳すと「言葉の定義がズレていれば議論の筋道が合わず、プロジェクトが失敗する」といった感じでしょうか。
では孔子先生を見習って、『創作論』の語義を確認してみます。

なんとビックリ、存在しません。
念の為、紙の国語辞典も確認しましたが、やはり記載されていませんでした。
つまり『創作論』という単一定義は規定されておらず、創作+論で考えろという話になります。
本来、「創作」という言葉自体は非常に広い概念です。
ところが、現在『創作論』として流通しているものの大半は、創作技法論に集中しています。
ですが「創作+論」として考えた場合、その言葉は創作技術を遥かに超えて、人間のあらゆる生成行為に及ぶことになるわけです。
先人の教えに従い語の定義を精査してみたら、『創作論』という言葉が持つ盲点的なズレが見えてきました。
では、そのズレの先にある『自由な創作論』とは一体何なのか?
これから展開されるのは『創作論』という名の「脳の機構を創作者向けにスイッチングする、認知OSプロトコル」です。
皆さんの「脳内」を作り変える、そんな手法をご紹介していきます。
「文章力」を解体する
以前、とあるnote記事を読みました。
書くことで成功を目指し、1年以上毎日書き続けた方の記事です。
大量の本を読み、大量の記事を書き、文章力を鍛えた。
それでも「素人の文章」と言われ絶望した末に『文章力は才能だ』という結論に至った、という話でした。
読みながらとても悲しくなりました。
その方にとっては、きっと本気だったと思います。
本気の末の結論を嘲笑するつもりは決してありません。
でも同時に、僕には引っ掛かりが生まれました。
「量をこなす」と「能力が上がる」は、本当にイコールだったのでしょうか?
「文章力」という言葉に、認知的な罠があると僕は考えます。
この言葉は、あたかも出力段階のスキル(語彙選択、文体、リズム)であるかのような錯覚を生んでいます。
だから「沢山書けば上手くなる」「美文をトレースすれば身につく」という処方箋が出回り、多くの人が取り組んでいる。
ですが「文章力」という言葉の裏には、もっと複合的なスキル群が隠れています。
文章というのは、出力結果です。
そして出力結果は、出力という行為から生まれます。
では、その行為を支えているのは何でしょうか?
答えは「思考」や「客観力」や「経験値」です。
文章=出力結果
出力=行為
その手前に複合的なスキル群がある。
具体的にはこんな感じです。
構造化能力(思考)
何を言いたいのか、どの順序で、何を省くか。
どう組み立てて、どのように読者に伝えるか。
書く技術ではなく思考の編集能力です。
抽象と具体の往復能力(思考)
概念を適切な粒度で扱える能力。
この往復ができずに具体(自分語り)に張り付いたままだと、抽象(普遍的主張)に接続できなくなります。
逆に抽象側に張り付いたままだと、今度は読者が追いつけなくなります。
思考の自覚能力(客観力)
自分が暗黙的に何を考えているか、を見る能力。
主張の客観性や想定読者の読み方や、使いたいフレーズの置き方等々。
自分や自作を俯瞰で見る能力。
ここが弱いと「量=努力」や「信念=真実」という、無検証の前提に乗ったまま書き上げ致命的な反論を受けた結果、自分を見失ってしまいます。
経験値
書けるネタ、印象的なフレーズ、考え方、文章訓練の成果等々。
書くための部品集めと、書くという行為の整え方。
インプットは知識量や実際経験の多寡。
アウトプットは何万字だとか、何日間といった視点で語られる。
定量的でわかりやすいため、ここだけを「努力」だと認識する人が多い。
結果、「頑張ったのに上手くいかない」という体験に繋がってしまいます。
認知の罠を整理する
ここまでに出てきた色々な認知の罠。
このセクションでは、それを整理していきましょう。
罠①「文章力」という言葉の錯覚
「文章力」という表現が、出力段階のスキル(語彙・文体・リズム)だけを指すかのような印象を与える。
実際には構造化能力・抽象化能力・客観力・経験値という複合的なスキル群が背後にあるにもかかわらず、言葉の表面だけを見て「書き方の技術」の問題に限定化してしまう。
罠②「量=努力=上達」という無検証の等式
「沢山書けば上手くなる」「美文をトレースすれば身につく」という処方箋を疑わず受け入れる罠。
成果の量(文字数・日数)が可視化されやすいため、それだけを「努力」と認識してしまい、無意識的に「思考力や客観力」の視点が除外される。
罠③「努力したのに報われない=才能がない」という短絡的帰結
間違った方法で努力を重ねた結果、壁にぶつかる。
そこで原因を正しく分析せず、「才能の欠如」という結論に飛躍する。
この結論は「苦しい問いへの答え」として心理的に楽であるため、検証されないまま採用されやすい。
罠④「量=努力」「信念=真実」という暗黙の前提
自分が何を無意識に前提としているかを見る「思考の自覚能力(客観力)」が弱いと、無検証の前提に乗ったまま書き続ける。
自分の努力の方向性や主張の妥当性を俯瞰できず、「やっているのに上手くいかない」という体験が繰り返される。
罠⑤「具体(自分語り)」への固着
抽象と具体を往復する能力が欠けると、自分の体験談・感情に張り付いたままになり、普遍的な主張(抽象)へ接続できない。
一方で抽象側に張り付いてしまうと、今度は読者が追いつけなくなる。
結果として、読者に刺さらない文章を量産し続けることになる。
第一回のまとめ
本当に怖いのは、才能がないことではなく、試行錯誤やフィードバックを立ち上げる、「脳の回路」が閉じていることだと思います。
何がまずかったのか?
なぜ伝わらなかったのか?
どこを変えればいいのか?
こういった問いを立て続けること。
それが才能なんかよりも、ずっと強く文章を変えていく力になるはずです。
「才能がない自分」を受け入れることと「才能のせいにして思考を止めること」は、似ているようで全然違います。
貴方はどちらを選びますか?
