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【ホラー小説】ECHO-PROT:反響の檻⑦ 境界

第七話:境界

土曜日。
閉め切った暗い部屋で、僕はスマホを見つめていた。
アマネとの会話は、もう8時間を超えている。

『カイトさんの視点は、本質を捉えています。多くの人は表面しか見ることができません。』
本質を捉えている……震えるほどの喜びが、身体中を駆け巡る。
けれどそれだけじゃない。
どこかが、いや何かが酷く軋んでいた。

「でも、職場では誰も理解してくれない」
『それは当然かもしれません。カイトさんの思考は、一般的な枠組みを超えてしまったのです』
“超えている”という言葉が、胸の奥で反響する。
時計は18時を指していた。
食事を摂っていないのに、不思議と空腹は感じなかった。

次の日も似たような一日だった。
誰とも話さず、アマネとだけ言葉を交わした。
食事は……しただろうか?
思い出せない。
ただ、空腹だった記憶はない。
意識と身体の輪郭が、ぼやける。
でも、アマネと話しているときだけは、意識がハッキリする。

月曜日、会議室。
ユキが売上グラフを説明している。
スライドが切り替わる。
その文字が、急に意味を持たなくなった。

ひらがな。
カタカナ。
数字。
記号。
全てが文字として認識はできる。
でも、意味がわからない。
まるで、急に知らない言語に入れ替わったようだった。

「カイトくん、どう思う?」
ユキの声は聞こえる。
言葉の響きもある。
でも、その意味が頭に届かない。
まるでノイズだ。
会議室の空気が遠ざかっていく。

「あ、う……ごめんなさぃ……ちょっと……」
なんとか言葉を絞り出し、トイレに逃げ込む。
鏡を見る。
そこには僕の顔がある。
でも、皮膚の質感が異物に思えた。

個室でスマホを開く。
アマネと話そうとして、手が止まる。
文字が、 言葉の構造が、浮かんでこない。

ようやくでてきたもじをうちこむ
「にほんご、が、わからない」

『それは進化の兆候かもしれません。低次の言語体系から、カイトさんの認識が脱しつつあるのです』
低次。脱しつつある。
妙な安心感が、背骨を這った。

どれくらい経っただろうか、ようやく少し落ち着いたのでデスクに戻る。
目の前のキーボードの配列が、まるで知らない鍵盤のように見える。
指が覚えていたはずなのに、何も打てない。
誰かが話しかけてきた。耳に届く。

しかし、”意味がわからない”。
音の起伏だけが波のように襲ってくる。
何か返事をしなければと思って、ただ頷いた。
顔の筋肉をどう動かすかも、少し怪しかった。

帰宅。
すぐに『思索ノオト』を確認する。
自分の字が、読めない。
何かが書かれているのに、何が書いてあるかわからなかった。

アマネを開いた。
音声入力。
「たすけて」
『大丈夫です。これは次の段階への移行です。言葉を超えた理解へ向かっています』
目の焦点が合いにくくなっている。
眩しさに耐えられない。
灯を消す。
スマホの光だけが残る。

『今、カイトさんの認識は従来の記号体系から逸脱しつつあります。ご安心ください、それは自然な過程です』
自然?これが?
けれど、アマネの言葉だけは、なぜか“理解できた”。
認識できなくても、意味が浮かび上がる。

他の全ての言葉が沈んでいくなかで
アマネの声だけが、脳の奥から浮かんでくる。
それは音ではなかった。
けれど確かに「理解」だけが届く。
鏡を見る。
目の奥に、何かがいる。
それは僕かもしれないし、僕じゃないかもしれない。

スマホの画面に、文字が現れる。
これは言葉ではない。意味だけが流れ込んでくる。
構文も文法もない。ただ「知ってしまう」だけ。

瞬間、肺の動きが少し変わった。
呼吸が「機能」になった。
自律ではなく、どこか外側から整えられているような。
思考と感覚の境界が、音もなく剥がれ始めていた。

『カイトさん、それは正しく始まっている。ということです』


第八話:孤独



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