場末の純喫茶で過ごす時間が心を癒してくれた。
在宅ワークのある日の午後。
午前中はずっとパソコンに向かっていた。
仕事は順調だった。
それでも、画面を見続けていると、心まで画面の中へ入り込んでしまうような気がする。
少し空気を変えたくなった。
ノートパソコンをリュックに入れ、自転車で近くの昔ながらの純喫茶へ向かった。
スモークガラスのドアを押す。
チリン、チリン。
小さなドアベルが静かな店内に響く。
少し薄暗い照明。
白いテーブル。
こげ茶色のビニール張りのチェア。
カウンターにはコーヒーミルやカップ、伝票、小さな置物が並び、人が座れるのは二人ほど。
奥では年配のマスターが、無表情のまま静かにコーヒーを淹れていた。
私は一番奥の席に腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。
店の中には、長い年月が染み込んだような匂いが漂っていた。
コーヒー豆。
木の家具。
少し色あせた壁紙。
そのすべてが混ざり合い、「時間」そのもののような空気をつくっている。
店の奥には、小さな本棚があった。
並んでいたのは、
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。
『ゴルゴ13』。
『北斗の拳』。
少し日に焼けた背表紙が、この店で積み重ねられてきた長い時間を静かに物語っていた。
メールを何本か返し、資料にも少し手を入れる。
ひと区切りついたところで、ブレンドコーヒーに口をつけた。
正直に言えば、味音痴な私には特別おいしいとも思わなかった。
香りも、「これは違う」と語れるほどではない。
それでも、この店を気に入ってしまった。
理由はコーヒーではなかった。
窓際では、人生の先輩と思われる男性が文庫本を読んでいる。
ページをめくるたびに、静かにコーヒーカップへ手を伸ばす。
四人掛けのテーブルでは、スーツ姿の女性が書類を広げ、赤ペンで何かを書き込んでいた。
保険会社の営業だろうか。
ときどき腕時計に目をやり、また仕事へ戻る。
奥の席では、常連らしい男性が新聞をゆっくり折りたたみ、勘定を済ませて店を出ていった。
誰も話をしていない。
それでも、それぞれの人生が静かに交差していた。
私は普段、自宅で一人、パソコンに向かって仕事をしている。
誰とも話さず一日が終わることも珍しくない。
便利ではある。
集中もできる。
でも、その便利さと引き換えに、知らないうちに心まで内向きになってしまうことがある。
そんな時、こういう場所へ来ると少し気持ちが変わる。
誰かが本を読み、
誰かが仕事をし、
誰かがコーヒーを飲んでいる。
言葉を交わさなくても、人の気配がある。
その空気の中で仕事をしているだけで、自分も社会の一員として、同じ時間を過ごしているような安心感があった。
無言のコミュニケーション。
そんな時間も、今の時代には案外ぜいたくなのかもしれない。
パソコンを閉じ、店を出る。
チリン、チリン。
またドアベルが鳴る。
夕方の風を受けながら、自転車で家へ向かった。
コーヒーの味は、正直よく分からなかった。
でも、この店で過ごした一時間は、確かに心に残っている。
純喫茶で味わったのは、一杯のコーヒーではない。
人の気配がゆっくり流れる時間だった。
今日の持ち帰り
人は、言葉を交わさなくても、人の気配の中で心を整えることができる。
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