神に呼ばれたのか?それとも?――あの日のコインが消えた! ――
それから十日ほど過ぎた。
机の引き出しにしまっていた朱色のコインを何気なく取り出した私は、思わず息をのんだ。
二枚だったはずのコインが、三枚に増えていた。
何度数え直しても三枚。
どれも同じ鮮やかな朱色をしている。
老人が話してくれた神隠しは二件だけだった。
江戸時代に姿を消した子供。
そして戦前、実家へ戻っていた女性。
二人しかいない。
神隠しに関係があるとして、なぜ三枚なのか。
考えれば考えるほど落ち着かなくなり、私はもう一度、雷電社へ向かうことにした。
昼前だというのに空気は重く、生ぬるい風が肌にまとわりつく。
ペダルを踏みながら空を見上げると、遠くには白い積乱雲がゆっくりと湧き上がっていた。
二十分ほどで鳥居が見えてきた。
鳥居の奥には、あの大きな切り株だけが静かに残っている。
境内に人影はない。
私はポケットから三枚のコインを取り出した。
老人は言っていた。
――返すなら、返し方がある。
意味は分からない。
それでも、このまま持っているよりはいい。
私は切り株の上へコインを並べようと手を伸ばした。
その時だった。
「……そろそろ祭礼だな。」
背後から突然、老人の声がした。
驚いて振り返る。
いつの間に現れたのか、あの老人が立っていた。
穏やかな顔のまま、切り株の上のコインを見つめている。
「祭礼……ですか。」
老人は静かに頷いた。
「昔は、この社でも祭りをやっとった。」
「今はありませんよね。」
「ああ。もう誰もやらん。」
それだけ言うと、老人は少し空を見上げた。
「その日だけは、気をつけなさい。」
私は理由を尋ねようとした。
だが老人は、それ以上何も話さなかった。
結局、3枚のコインは持ち帰った。
その週末、私は市立図書館へ足を運んだ。
郷土資料の棚を一冊ずつ調べていく。
半日ががりでようやく古い村誌の片隅に雷電社の記述を見つけた。
そこには、戦前まで毎年祭礼が行われていたことだけが記されていた。
だが、祭りが途絶えた理由はどこにも書かれていなかった。
それから数日後、近所のスーパーへ買い物に出かけた帰り道。
夕方の交差点で信号待ちをしていた。
歩行者用信号が青になった。
そう見えた。
私は何の疑いもなく一歩踏み出そうとした。
その瞬間だった。
右足のサンダルが路面のわずかな段差に引っ掛かった。
「あっ。」
身体が前へ傾く。
次の瞬間、大型トラックが目の前をものすごい勢いで走り抜けた。
風圧が顔を打つ。
私はその場に立ち尽くした。
「危ないでしょう!」
後ろにいた女性が大きな声を上げた。
「赤信号ですよ!」
別の男性も苦い顔で言う。
「ちゃんと信号を見ないと。」
私は何も答えられなかった。
スマートフォンを見ていたわけでもない。
私には、本当に青信号に見えていたのだ。
足元を見る。
サンダルは何事もなかったように履かれたままだった。
あの一歩を踏み出していたら。
そう思うと、背中が冷たくなった。
その夜、不思議な夢を見た。
霧の中を歩いていた。
少し前を、小さな子供が歩いている。
その後ろには和服姿の女性。
二人とも穏やかな表情だった。
何か話をしたような気がする。
いや、話さなかったのかもしれない。
目が覚める頃には、夢の内容はほとんど思い出せなかった。
ただ。
別れの挨拶を交わしたような気だけが残っていた。
誰と別れたのか。
私が言ったのか、相手が言ったのか。
それさえ思い出せなかった。
翌朝、引き出しを開ける。
三枚あった朱色のコインは、一枚も残っていなかった。
私は急いで身支度を整えた。
あの老人に会えば、何か分かるかもしれない。
玄関を開けた、その時だった。
空が真っ白に光った。
腹の底まで響くような雷鳴が轟く。
間を置かず、滝のような雨が降り始めた。
道路はあっという間に白く煙り、向かいの家さえ霞んで見えなくなる。
雷は何度も落ち続けた。
結局、その日、私は雷電社へ行くことができなかった。
あの日、青に見えた信号。
私を止めた、ほんの小さな段差。
そして、夢の中で交わした別れの挨拶。
あれは偶然だったのだろうか。
その後も、何度か雷電社を訪ねてみた。
だが、あの老人に会うことは二度となかった。
夏の雷鳴を聞くたび、私はあの日の朱色のコインを思い出す。
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【60代から始めたもう一つの挑戦】
人生再点火の一環として、小説創作にも取り組んでいます。
現在、TALESにて伝奇ミステリー小説を公開中です。
noteとは少し違う世界ですが、こちらも私の大切な創作活動です。
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