ある寝られなかった夜、私は怪談を書いた――60代になって始まった、もう一つの創作――
夜中に目が覚めることがある。
若い頃なら酒を飲めば眠れたし、多少の疲れも気にならなかった。だが六十代になると、理由もなく目が覚め、そのまま眠れなくなる夜がある。
そんな時、私はふと思った。
もし今、このままゴミを出しに行ったら――。
深夜二時。
人気のないマンション。
静まり返ったゴミ置き場。
そこに誰かがいたら。
そんな何気ない想像から、一つの怪談が生まれた。
若い頃の私は、怪談を読む側だった。
怖い話は好きだったが、自分で書こうと思ったことはない。
ところが最近は違う。
AIで音楽を作る。
小説を書く。
怪談を書く。
自分でも少し不思議である。
人生の後半になると、新しいことは減っていくと思っていた。
だが実際には逆だった。
子供の頃に好きだったものが、別の形で戻ってくるのである。
この『ゴミを捨てる女』もその一つだ。
深夜のゴミ置き場で、ゴミ袋を一つずつ開けて中を確認する女。
そして翌朝見つかる、一枚の古い写真。
私自身、書き終わったあともしばらくあの女のことを考えていた。
彼女は何を探していたのか。
本当に探し物をしていたのか。
それとも、別の何かを確かめていたのか。
答えは書かなかった。
怪談は説明した瞬間に弱くなるからだ。
最近、私は音楽も作る。
小説も書く。
noteも書く。
どれも共通しているのは、「正解を出すこと」が目的ではないということだ。
誰かに少しだけ想像してもらう。
少しだけ景色を見てもらう。
創作とは案外そんなものなのかもしれない。
六十代になって怪談を書くとは思わなかった。
だが人生というものは、時々こちらの予想を裏切る。
だから面白い。
今回は、そんな夜から生まれた短い怪談を公開してみたいと思う。
『ゴミ集積場にて』
その夜、私はなかなか眠ることができなかった。
酒を飲み過ぎたわけでもないし、翌日に大事な仕事を控えているわけでもない。ただ一度目が覚めてしまってから、どうにも眠気が戻ってこなかったのである。寝返りを打つたびに布団がかすかに鳴り、その音が消える頃には今度は別の音が耳につく。遠くの幹線道路を走るトラックの低い唸り声や、どこかの部屋で水を流す音が、夜の静けさの中では妙にはっきり聞こえてきた。
枕元のスマートフォンを見ると、時刻は二時を少し回っていた。液晶の白い光が暗い寝室を照らし、私はすぐに画面を伏せる。眠らなければならないと思うほど意識は冴え、閉じた瞼の裏にさえ時刻の数字が残っているような気がした。
私は諦めて布団を出た。
キッチンで麦茶を一杯飲み、流し台にもたれながら暗い部屋を眺めていると、玄関脇に置いてあったゴミ袋が目に入った。明日は燃えるゴミの日だったことを思い出し、どうせ眠れないのなら今のうちに出してしまおうと考える。朝の数分が楽になる。それだけのことで、人は夜中に動き出す理由を見つけられるものらしかった。
ゴミ袋を提げて玄関を出ると、共用廊下は昼間とはまるで違う場所に見えた。等間隔に並んだ照明は白く冷たく、床や壁を無機質に照らしている。昼間なら子供の声や住人の出入りで賑やかな場所なのに、今は私の足音だけが静かに伸びていった。
エレベーターを待つ間、私は何となく廊下の先を眺めていた。どの部屋の扉も閉じられ、郵便受けの列も、自転車置き場へ続く通路も、すべてが静まり返っている。誰もいないことを確認して少し安心しながら、その安心がどこか心細さと似ていることにも気付いていた。
一階へ降りてエントランスを抜けると、生暖かい夜風が頬を撫でた。駐車場には車が並んでいるが人影はなく、窓の灯りもほとんど消えている。建物全体が深い眠りの中へ沈み、その中を私だけが歩いているような気分だった。
ゴミ置き場は駐車場の隅にある。
昼間は何ということもない場所なのに、深夜に来ると妙に印象が違った。外灯の光が届くところだけがぼんやりと明るく、その先は黒く沈んでいる。私は引き戸の前で立ち止まり、無意識に周囲を見回した。
誰もいるはずがない。
そう思う。
だが同時に、もし誰かいたら嫌だな、という考えも浮かぶ。
人の気配が無いと分かっているからこそ、想像だけが勝手に膨らんでいくのだった。
取っ手に手を掛けると、金属は夜気を吸って冷たかった。
引き戸を開けた瞬間、湿った空気が流れ出してくる。生ゴミの臭いと濡れた段ボールの臭いが混じり合い、閉め切られた場所特有の重さが鼻の奥へまとわりついた。
そして、その臭いの向こうに人影があった。
女だった。
積み上げられたゴミ袋の前にしゃがみ込み、袋の口を一つずつ開いている。
私はその場で足を止めた。
女はこちらを見ない。引き戸の音が聞こえなかったかのように、袋の口をほどいては中へ顔を近付け、しばらく何かを確かめるように覗き込んでいる。やがて小さく首を振ると袋を閉じ、ためらうことなく隣の袋へ手を伸ばした。
その動作は奇妙なほど丁寧だった。
袋の表面に付いた汚れも、生ゴミの汁が滲んだ箇所も気にしていない。ただ中だけを見ている。まるで探し物をしている人間ではなく、そこに探しているものが無いことを確認して回っている人間のように見えた。
色褪せたカーディガンに黒いスカート。肩まで伸びた髪は乱れているわけではないが艶がなく、外灯の光を受けてもほとんど反射しない。その背中を見ているうちに、私は自分がゴミ袋を持ったまま立ち尽くしていることに気付いた。
帰ろうかとも思った。
だがそれも妙だった。
ここは自分の住むマンションなのだし、相手も住人かもしれない。
そう考えながらも喉は妙に乾いていた。
「あの……」
声を掛けると、女の手が止まった。
ゆっくりと顔がこちらへ向く。
表情は見えない。ただ顔だけが暗く沈み、目がどこにあるのかさえ分からなかった。それでも見られていることだけは分かる。
「何か探してるんですか」
私の声は湿った空気の中へ吸い込まれていった。
女は何も答えない。
ゴミ置き場の奥ではビニール袋がかすかに鳴り、生ゴミの臭いの中に湿ったコンクリートの匂いが混じっている。女はこちらを向いたまま動かず、その沈黙だけが妙に長く感じられた。
やがて女は立ち上がった。
そして何も言わないまま歩き出す。
私は反射的に脇へ身を寄せた。
すれ違う瞬間、生ゴミの臭いとは別の匂いが鼻をかすめた。長い間閉め切られた押し入れを開けた時のような、乾いた埃と古い布団の匂いだった。
思わず振り返った時には、女はもう暗がりの向こうへ歩いている。
足音は聞こえなかった。
私は急いでゴミ袋を置き、引き戸を閉めた。金属の擦れる音が響くと、それまで張り詰めていた何かがようやくほどけた気がした。
翌朝。
眠気の残る頭でマンションを出た私は、ゴミ置き場の前で足を止めた。
入口の脇に写真が落ちていたのである。
広告か何かだろうと思って拾い上げた私は、そのまましばらく動けなくなった。白い波打ち際を背に、子供の頃の私と姉が並んでいる。その笑顔を見た瞬間、夏の日差しや潮の匂いと一緒に、ずっと忘れていた時間が胸の奥から浮かび上がってくるようだった。
十年ほど前から見つからなくなっていた写真だった。
朝の風が吹き、写真の端がかすかに揺れる。何となく裏返してみたが何も書かれていない。ただ端の方にだけ黒ずんだ指の跡のような汚れが残っていた。
私は写真をポケットへしまい、もう一度だけゴミ置き場へ目を向けた。引き戸は閉まり、昨夜と変わらない姿で朝の光を受けている。通学途中の小学生が遠くを歩き、どこかの部屋ではベランダの窓が開く音がした。
何も変わっていない。
あれから何年も経つ。
写真は今も手元にある。
結局、あの夜に何があったのかは分からない。ただ、夜にゴミを出しに行く時だけは、今でも時々あの女のことを思い出すのである。
