老後資金より先に準備しておきたいもの――「身体は魂の乗り物」である――
朝、靴下を履こうとして片足を上げた瞬間、私はよろけて壁に手をついた。
誰も見ていないのに、なぜか少し恥ずかしい。
六十二歳ともなると、魂より先に足腰が現実を教えてくれる。
若い頃は、身体のことなどほとんど考えたことがなかった。
歩けるのが当たり前。
走れるのが当たり前。
階段を駆け上がれるのも当たり前。
だが最近は違う。
立ち上がる時に「よいしょ」と声が出る。
以前は年配の人を見て、
「なぜ声が出るのだろう」
と思っていた。
今は分かる。
あれは気合いなのである。
人生経験を積むと、人は言葉の力で立ち上がるようになるらしい。
そんなことを考えながら、私は週に何度かプールへ通っている。
泳ぐためというより、動ける身体を維持するためだ。
以前の私なら、
健康のため。
運動不足解消のため。
そんな説明をしていたと思う。
だが最近は少し考え方が変わった。
きっかけになったのは、ある言葉だった。
「身体は魂の乗り物である」
後で調べてみると、この考え方は意外なほど古かった。
古代ギリシャの新プラトン主義では、人間の魂はこの世界を旅するために「オケーマ(okhema)」という乗り物を持つと考えられていた。オケーマとは「乗り物」「運搬するもの」という意味で、魂と肉体をつなぐ媒介である。魂は人生という旅を経験するために、その乗り物に乗ってこの世界へ降りてくるのだという。
また後の神秘思想や宗教思想にも、この発想はさまざまな形で受け継がれていく。身体は魂を閉じ込める檻ではなく、世界を経験するための器であり、家であり、乗り物なのである。
私は哲学者でも神学者でもない。
だが六十代になった今、この古い比喩には妙な説得力があるように思えてならない。
若い頃は少し大げさな表現だと思っていた。
魂だの精神だのと言われても、現実味がなかったのである。
ところが六十代になってみると、この言葉が少し違って見えてきた。
乗り物とは移動するための手段である。
どれほど行きたい場所があっても、乗り物が壊れていたら辿り着けない。
どれほど美しい景色を見たくても、そこへ向かえなければ意味がない。
そう考えると、身体も同じなのかもしれない。
私は昔から、ある考え方が好きだった。
人間の魂はもともと完全な世界に存在している。
そこでは全てが満たされ、全てが理解されている。
だが完全であるがゆえに成長もない。
だから魂は不完全な肉体をまとい、この世界へやって来る。
喜びを知るために。
失敗を知るために。
悲しみを知るために。
そして成長するために。
もちろん、それが本当かどうかは分からない。
証明できる話でもない。
だが私は、この考え方が嫌いではない。
もしそうだとしたら、身体は単なる肉体ではない。
魂が世界を旅するための乗り物になる。
旅へ行く。
本を探しに行く。
誰かに会いに行く。
泳ぐ。
学ぶ。
創作する。
ボランティアをする。
そのどれもが、まず身体が動かなければ始まらない。
若い頃は、お金があれば自由になれると思っていた。
もちろん今でもお金は大切だ。
老後資金も必要だろう。
年金も大事だ。
だが最近、少し違うことを考えるようになった。
どれだけ資金があっても、身体が動かなければ使えない。
旅行もできない。
美術館にも行けない。
趣味も楽しめない。
会いたい人にも会えない。
それでは少し寂しい。
だから私は最近、運動を単なる健康法とは考えなくなった。
動ける身体を維持することは、人生の可能性を維持することなのだと思う。
振り返れば、私がnoteを始めたのもそうだった。
AIを使い始めたのもそうだった。
音楽を作ったのも、小説を書いたのも、水泳を続けているのも同じである。
人生を変えたのは、知識ではなかった。
理屈でもなかった。
動いたことだった。
パソコンの前で考えているだけでは人生は変わらない。
一歩外へ出る。
プールへ向かう。
記事を書いてみる。
誰かに会いに行く。
人生を再点火するとは、結局のところ「動く力」を取り戻すことなのかもしれない。
だから今日も私はプールへ向かう。
相変わらずバタフライは苦しい。
帰り道には膝も少し痛い。
だがまだ乗り物は動いている。
それだけで、なかなか悪くないのである。
