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道の分かれ目には、なぜ神様がいるのだろう。――道祖神から考えた、人生の分岐点。――

休日の午後、自転車で家を出た。

行き先は決めていない。

いつもの道を外れて、一本細い道へ入ってみた。

こういう近所の探索が、最近はちょっとした楽しみになっている。

しばらく走ると、道が二つに分かれていた。

その分かれ目に、古びた石が立っている。

自転車を止めた。

近づいてみると、刻まれた文字もかなり薄くなっている。

道祖神だった。

周囲には新しい住宅が建ち、アスファルトの道路を車が走り、電柱から電線が伸びている。

その中で、その石だけが別の時代から取り残されたように見えた。

それにしても、なぜこんなところにいるのだろう。

神様なら、神社にいればいい。

もう少し立派な場所を用意してもらってもよさそうなものだ。

ところが道祖神は、どういうわけか道端にいる。

それも、村の入口や道の分かれ目、辻などで見かけることが多い。

気になって調べてみた。

日本民俗学を切り開いた柳田國男も、この「道端の神様」に強い関心を持っていた。

1910年、柳田は『石神問答』を刊行している。

道祖神をはじめ、石神、荒神など、各地に残るさまざまな民間信仰を比較し、その由来や関係を探った著作である。国立国会図書館には、当時刊行された『石神問答』がデジタル資料として残されている。

さらに興味深い記述を見つけた。

『世界大百科事典』の「道祖神」の解説には、

「境にまつられることが多い」

とある。

道祖神は猿田彦、地蔵、庚申、荒神などとも習合し、塞神、幸神、岐神、石神など、さまざまな名称や信仰と結びついてきた。そして、この複雑な関係について柳田の『石神問答』が詳しく論じている、と紹介されている。

「境」なのだ。

昔の人にとって、村の入口や道の分かれ目は、単なる交通上のポイントではなかったのだろう。

ここまでは、自分たちの暮らす場所。

ここから先は、外の世界。

その境目に神様を置いた。

もちろん、道祖神の信仰や意味は地域によって異なる。

だから「道祖神とはこういう神様だ」と、一つの説明だけで片づけることはできない。

それでも、「境にまつられることが多い」という言葉は、妙に心に残った。

私自身、これから先の人生をどう過ごすか、考えることが増えた。

仕事をどうするか。

創作をどうするか。

まだ新しいことを始めるのか。

それとも、そろそろ落ち着くのか。

どうやら私も、ひとつの「境」に立っているらしい。

残念ながら、そこに道祖神はいない。

Googleマップを開いても、

「こちらへ進めば人生再点火」

などという案内は出てこない。

結局、自分で決めるしかない。

でも、昔の人も、神様に道を決めてもらったわけではないだろう。

境に石を置き、手を合わせ、それから自分の足で先へ進んだ。

そう考えると、道端の小さな石が少し違って見えてくる。

正しい行き先を教えてくれるわけではない。

ただ、分かれ道で一度立ち止まる。

それだけでも、意味はあるのかもしれない。

私は自転車にまたがった。

右と左。

どちらへ行っても、たぶん家には帰れる。

今日は、知らない方へ行ってみることにした。

今日の持ち帰り

分かれ道では、立ち止まってもいい。
そして決めたら、自分の足で先へ進もう。

参考文献・資料

柳田國男『石神問答』聚精堂、1910年。
国立国会図書館『石神問答』

『世界大百科事典』「道祖神」関連項目。
コトバンク「石神問答」

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【60代から始めたもう一つの挑戦】
人生再点火の一環として、小説創作にも取り組んでいます。
現在、TALESにて童話を公開中です。
noteとは少し違う世界ですが、こちらも私の大切な創作活動です。
興味をお持ちいただけたら、ぜひご覧ください。

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