自分には100回目。でも、相手には初めてかもしれない。――駅員さんのアナウンスから考えた仕事の話。――
朝の通勤電車に乗っていた。
また今日も、似たような仕事が待っている。
正直、少しうんざりしていた。
長く仕事をしていると、どうしてもルーティンワークが増えてくる。
同じような会議。
同じような説明。
同じようなメール。
もちろん、毎日まったく同じ仕事をしているわけではない。
それでも、
「これ、何回やったんだろう。」
と思うことがある。
この日は、そんな気分だった。
電車を降りてホームを歩いていると、いつものアナウンスが聞こえてきた。
「黄色い線の内側までお下がりください。」
何度も聞いている言葉だ。
そのとき、ふと思った。
駅員さんは、この言葉を一日に何回言うのだろう。
私は自分の仕事の繰り返しだけで、こんなに嫌気がさしている。
駅員さんは、毎日毎日、同じようなアナウンスを繰り返している。
よく嫌にならないものだ。
……などと、勝手に駅員さんの心配をしている場合ではないのだが。
そして、もう一つ思った。
駅員さんには100回目でも、それを聞いている人には初めてかもしれない。
この考えが、妙に頭に残った。
「仕事の意味」を研究した心理学者がいた
気になって調べてみると、興味深い研究に出会った。
アメリカの組織心理学者、**Adam M. Grant(アダム・M・グラント)**の研究である。
論文は、
Adam M. Grant (2008)
The Significance of Task Significance: Job Performance Effects, Relational Mechanisms, and Boundary Conditions
Journal of Applied Psychology, 93(1), 108–124.
DOI: 10.1037/0021-9010.93.1.108
2008年に発表されたものだ。(PubMed)
ここで、掲載誌についても少し触れておきたい。
Journal of Applied Psychology は、米国心理学会(APA)が刊行する、仕事や組織における心理を扱う学術誌である。
現在APAが示しているImpact Factorは6.1。Web of Scienceの「Psychology – Applied」分野では113誌中3位とされている。つまり、応用心理学の分野では国際的にも評価の高い主要な査読学術誌の一つと考えてよさそうだ。(APA)
ネットでたまたま見つけた「仕事を前向きにする心理学」のような話ではない。
きちんとした学術研究である。
しかも、この論文が面白いのは、単なるアンケート調査ではないことだ。
Grantは、3つのフィールド実験を行っている。(PubMed)
「この仕事は誰の役に立っているのか」
研究の中心にあるのは、**task significance(タスクの重要性・仕事が他者にもたらす重要な影響)**という考え方だ。
第1の実験では、大学の募金活動をする電話スタッフが対象になった。
自分たちが集める寄付によって、どんな人が恩恵を受けているのか。
つまり、自分の仕事の先にいる人を意識できるようにした。
すると、その介入を受けたスタッフは、別の条件のスタッフや自分自身の介入前と比べ、仕事のパフォーマンスを向上させた。
第2の実験では、ライフガードを対象に同様の考え方を検証した。
こちらでも、仕事の重要性を意識することによって、仕事への献身や、人を助ける行動が増えた。
さらに第3の実験では、その効果が誰にでも同じように現れるわけではなく、個人の特性や価値観によって違いがあることまで調べている。(PubMed)
私はここが面白いと思った。
仕事そのものを変えたわけではない。
募金の電話をかけるという仕事は、同じだ。
ライフガードの仕事も、同じだ。
変わったのは、
「この仕事は、誰に届いているのか」
という見方だった。
私は仕事を「自分側」からしか見ていなかった
そこで、朝の駅員さんのアナウンスを思い出した。
「黄色い線の内側までお下がりください。」
言葉は毎回同じだ。
でも、それを聞く人は毎回違う。
初めてその駅を使う人もいる。
考え事をしている人もいる。
足元への注意がおろそかになっている人もいるかもしれない。
私は駅員さんを見ながら、
「同じことを何回も言って大変だな。」
と考えていた。
でも、それは仕事を**「する側」からしか見ていなかった**のではないだろうか。
100回、同じアナウンスをしている。
そう考えれば、確かに単調だ。
しかし、
100回、違う誰かに必要な言葉を届けている。
そう考えると、同じ仕事が少し違って見える。
もちろん、Grantの研究は駅員さんを対象にしたものではない。
駅員さん自身が毎日のアナウンスについて、実際にどう感じているのかも私には分からない。
だから、「駅員さんもこの心理で働いている」と言うつもりはない。
ただ、朝のホームで私が感じたことと、この研究が、自分の中では妙につながった。
自分には100回目。でも、相手には初めてかもしれない
そして、今度は自分の仕事について考えてみた。
私は長く仕事をしてきた。
だから、
「またこの説明か。」
「この話、何回しただろう。」
「この資料、また作るのか。」
と思うこともある。
でも、考えてみれば、
自分には100回目でも、相手には初めてかもしれない。
自分には当たり前の説明でも、初めて聞く人がいる。
自分にはいつもの資料でも、それを必要としている人がいる。
自分には何度も書いたメールでも、相手にとっては大切な一通かもしれない。
Grantの研究を読んで、私は「ルーティンワークを好きになろう」とは思わなかった。
そんなに簡単なら、そもそも嫌気などささない。
明日の朝になれば、
「またこれか。」
と思うかもしれない。
それでも、一つだけ見方を変えることはできる。
自分が何回やったかではなく、その仕事が今、誰に届いているのかを見る。
同じ仕事を繰り返しているのではなく、
違う誰かに、同じ仕事を届けている。
そう考えたら、毎日の仕事がほんの少しだけ違って見えた。
今日の持ち帰り
自分には100回目。でも、相手には初めてかもしれない。
仕事に慣れることは悪いことではない。
むしろ、長く働いてきたからこそ身についたものもたくさんある。
でも、「自分はもう何度もやった」ということと、
「相手も何度も経験している」ということは別の話だ。
ルーティンに嫌気がさしたときは、
「これは誰に届いている仕事だろう?」
と、少しだけ考えてみる。
仕事そのものは変わらなくても、見える景色は少し変わるかもしれない。
それもまた、長く働き続けるための、小さな再点火なのだと思う。
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【60代から始めたもう一つの挑戦】
人生再点火の一環として、小説創作にも取り組んでいます。
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