六十代、老子の言葉が少し分かってきた――「道常無為而無不為」――
昼下がりだった。
会社の近くの街路樹が風に揺れ、葉の隙間から初夏の日差しが歩道に落ちている。
軽い昼食を食べ終えた私は、いつものようにスマートフォンを開きかけて手を止めた。
最近、昼休みの過ごし方を少し変えた。
ほんの十分か十五分。
外へ出て歩くだけである。
以前の私は昼食を済ませると、そのまま席に残ることが多かった。
スマートフォンを見る。
ニュースを見る。
SNSを見る。
それはそれで悪くない。
だが気が付くと、
物価高。
将来不安。
政治の話。
景気の話。
そんなものばかり見ている。
もちろん現実は大切だ。
知らないより知っていた方が良い。
だが昼休みの短い時間まで不安ばかり仕入れていると、午後が始まる前から少し疲れてしまう。
そこで外へ出るようにした。
歩くと言っても大した距離ではない。
会社の周りを一周する程度だ。
それでも不思議なことが起こる。
空が見える。
風を感じる。
季節の変化に気付く。
花壇の花が変わっている。
木の葉の色が少し濃くなっている。
そんなことに気付く。
仕事の問題は解決していない。
給料も増えていない。
老後の不安も消えていない。
それでも、気持ちが少しだけ軽くなる。
最近、その理由を考えていた。
そして思い出した言葉がある。
老子の『道徳経』第37章には、
「道常無為而無不為」
という言葉がある。
一般には、
「道は無為でありながら、成し遂げられないことはない」
などと訳される。
私は昼休みに歩きながら、この言葉を思い出した。
若い頃の私は、この言葉の意味がよく分からなかった。
仕事では締切がある。
成果も求められる。
急がなければ置いていかれる。
そう思っていた。
もちろん今でも仕事は大切だ。
効率も必要だろう。
しかし六十代になって感じることがある。
私たちは少し急ぎ過ぎているのではないか。
自然は急がない。
桜は急いで咲かない。
新緑も急がない。
雲も急がない。
それでも季節は確実に進んでいく。
人生も少し似ているのかもしれない。
昼休みの十分で人生が変わるわけではない。
散歩をしたからといって突然前向きになれるわけでもない。
だが、視野は少し広がる。
ネガティブな気持ちは少し薄くなる。
そして、自分を責める気持ちも少し和らぐ。
最近、昼休みに外へ出るたびに思う。
人生は思ったより短い。
若い頃は永遠に続くように感じていた時間も、振り返れば驚くほど速く過ぎていった。
楽しかった日々も。
苦しかった日々も。
嬉しかった出来事も。
つらかった出来事も。
過ぎてしまえば、どれも同じように遠ざかっていく。
だからこそ、あまりこだわり過ぎない方がいいのかもしれない。
あまり、とらわれ過ぎない方がいいのかもしれない。
風は吹き去る。
雲は流れる。
季節は巡る。
どれも立ち止まらない。
人生も同じなのだろう。
うまくいかない日もある。
気持ちが沈む日もある。
だが、それもまた過ぎていく。
嬉しい日もまた過ぎていく。
だから一喜一憂し過ぎず、ただ今を歩けばいい。
老子の言葉は、何もしなくていいと言っているのではない。
力み過ぎなくていい。
自然に逆らわなくていい。
結果ばかり追いかけなくていい。
そう語りかけているように思う。
昼休みの十分は、私にそんなことを思い出させてくれる。
六十代になって思う。
人生を変えるのは大きな決断ばかりではない。
昼休みに少し外へ出ること。
空を見上げること。
風を感じること。
自然のリズムに耳を傾けること。
そんな小さな置き換えが、少しずつ心を軽くしてくれるのかもしれない。
