外出も出費もしない楽しみもある――古雑誌で楽しむ。――
暑い午後だった。
エアコンの効いた部屋で、本棚の整理をしていた。
すると、一冊の『ぴあMAP'89』が出てきた。
懐かしくなってページをめくっているうちに、なぜか巻末の施設一覧で手が止まった。
映画館の一覧である。
しかも、目が向かったのは名画座の項だった。
高田馬場パール座。
日勝地下。
シネマ・セレサ。
横浜映光名画座。
川崎国際。
住所と電話番号が並んでいるだけの、何の変哲もないページである。
それなのに、私はしばらくそのページを眺め続けていた。
高田馬場パール座だけは覚えている。
学生時代、その前を通ったことがあるからだ。
ただ、映画を観た記憶はない。
それでも、「高田馬場パール座」という名前だけは、なぜか頭の片隅に残っていた。
調べてみると、西友の地下にあった二本立ての名画座で、学生や予備校生に人気があったらしい。1989年に閉館している。
一方、日勝地下については、ほとんど情報が見つからなかった。
しかし、それがかえって想像をかき立てる。
地下へ続く階段は、どんな雰囲気だったのだろう。
上映が終わったあと、人々はどこへ向かったのだろう。
シネマ・セレサも気になった。
調べてみると、「セレサ」はスペイン語で「桜」を意味するという。
現在のシネマ・ロサにつながる映画館だったそうだ。
横浜映光名画座。
川崎国際。
名前を眺めているだけで、勝手に物語が始まる。
横浜の映画好きな若者。
川崎で映画を観た帰りに一杯飲んでいる会社員。
待ち合わせをしている恋人たち。
もちろん、全部、私の想像である。
でも、それが妙に楽しい。
考えてみれば、不思議なことだ。
私は映画を探していたわけではない。
映画館の歴史を調べていたわけでもない。
ただ、巻末の一覧を眺めていただけなのだ。
それなのに、頭の中では次々と場面が浮かんでくる。
少し調べてみると、心理学には「ナラティブ・トランスポーテーション」という概念があるらしい。
人は物語に没入すると、あたかもその世界に入り込んだような感覚を覚えるという。映画や小説に夢中になるのも、その一例だ。
ただ、今回の私は映画を観ていたわけではない。
小説を読んでいたわけでもない。
眺めていたのは、映画館の名前と住所だけである。
それなのに、頭の中では勝手に物語が始まっていた。
そして、もう一つ気づいたことがある。
最近の私は、小説を書くことが増えた。
だからなのかもしれない。
以前なら、こんなページは読み飛ばしていただろう。
ところが今は違う。
映画館の一覧が、物語の種に見える。
実際、このページを眺めているうちに、新しい小説のアイデアが一つ浮かんだ。
最近の夏は、本当に暑い。
正直なところ、炎天下を歩き回る元気が出ない日もある。
でも、だからといって、楽しみまで失われるわけではないらしい。
本棚から古い雑誌を取り出す。
コーヒーを飲む。
もう存在しない映画館の名前を眺める。
それだけで、頭の中では自由に旅ができる。
高田馬場にも行ける。
池袋にも行ける。
横浜にも行ける。
そして、まだ書いていない小説の世界にまで行くことができる。
どうやら、想像力には交通費がかからないらしい。
今日の持ち帰り
遠くへ出かけなくても、世界は広げられる。
小さなきっかけから想像を広げることも、お金を使わない贅沢の一つなのかもしれない。
【60代から始めたもう一つの挑戦】
人生再点火の一環として、小説創作にも取り組んでいます。
現在、TALESにて童話を公開中です。
興味をお持ちいただけたら、ぜひご覧ください。
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