髙橋秀実著『ことばの番人』(集英社インターナショナル)を読んで【読書感想文】
更新日:2025/01/05
私〆野が、髙橋秀実さんの書いた『ことばの番人』(集英社インターナショナル)の読書感想文を、ここにまとめました。
(〆野の紹介についてはこちら)
髙橋秀実著『ことばの番人』(集英社インターナショナル)を読んで
それはいらない自己主張だった
「校正してください、と言いたくなりますね」
実は境田さんは日本校正者クラブの運営スタッフ。日本エディタースクールで講師もつとめている。
――校正になっていない、ということでしょうか。
私がたずねると、彼が即答した。
「これでは文章のリライトです」
著者の髙橋氏が校正の境地を味わおうと校正の1日教室を体験したときのことである。ここを読んだとき、私の胸はぎゅっと痛んだ。思い当たることがあったからだ。あの日のことが、急に今日のことのように思い出されてきた。
20数年前、私が出版社に勤めていたときのことである。その会社に入って数か月経ったある日、私と同期のもう一人は、編集長からとあるエッセイの原稿を校正するように言われた。私と共に採用された、同期である女性。その女性は大学を出たあと海外留学をしておりほとんど社会人経験がなかった。その女性と私に、同じエッセイの原稿を編集長は渡してきた。これは私たち二人を比べるつもりなのだなと即座に察した。私には、前職の学習塾で国語科・小論文科講師として指導してきた経験と知識、入社前に通信教育で学んだ校正の技術がある。「全くの素人」同然の彼女に負けるわけにはいかない。いや、負けるわけがないと思った。はやる気持ちを押さえ早速校正にとりかかると、私は彼女より早く校正作業を終えた。
私が校正した原稿を見ると、編集長はいくつかの誤字や誤表現の見逃しを指摘してきた。指摘以上の言葉はなかったが、「早ければいいってものじゃない」とその目は語っているようだった。自分の仕事の荒さを私は恥じた。「もう一回やり直します」、そう言ってデスクにもどった。しかし、今度は「付箋でつけた表現に対する校正についての根拠」について問われた。「なぜその表現にしなければならないのか」、「なぜその表現にした方がよいのか」、うまく答えることができなかった。そこで、編集長は「それを直す必然性は見当たらない」と言った。さらに、こう続けた。
「これだとこの人の文章じゃなくて、〆野君の文章になっちゃうよね。」
加えて、こう続けた。
「結局、〆野君は『書きたい人』なんだと思う。」
編集長はそう言うと軽く苦笑した。
「お前はこの仕事に向いていない」と言われたも同然だった。死刑宣告を受けたくらいの衝撃を覚えた。そして、自分の思い上がりを身に染みて思い知った。編集者としてひよっこにもなっていない私でもすぐにわかる。人の文章を無遠慮に書き換えていくのは校正でもなんでもない。それは校正の名を借りた乗っ取り行為であり暴力だ。そのエッセイの著者に申し訳なく思う気持ちが一気に頭をもたげてくると共に、私がこの仕事をしている未来が急に見えなくなってしまった。
やがて、私のではなく、時間をかけてゆっくり丁寧にやった彼女の校正の方が採用された。私は程なくしてこの出版社を辞め、元いた教育業界へともどった。
――おかしい、と思った部分を直したつもりなんですけど……。
私の校正は文章の見た目がおかしいという指摘でもある。
「それを赤字で入れてはいけません」
――そうなんですか?
「必ず鉛筆で書いてください。そして直すというより、『このようにされたら、いかがでしょうか』と提案するんです」
――なぜ鉛筆なんでしょうか?
「消せるからです。編集者が不要と判断したら消せますから」
校正の仕事は消される。たとえ直しても校正の痕跡は消されるし、OKのハンコも見えないわけで、消されることが校正の宿命なのだ。私のような「俺が直した」「直した俺」という自意識こそ真っ先に消すべきなのだろう。
髙橋氏の本業はノンフィクション作家だ。であるからして、いつもの仕事のようにそこに自意識が出てしまった。言うまでもなく、校正は裏方の仕事だ。あくまで主役として舞台に立つのはその本の著者。観客である読者からその姿は見えてはならない。だから、そこに「俺が直したんだ」という自己主張はいらない。あの当時の私もそれがわかっていなかった。いや、学んでいたので知識としてはあったのだが、その役割に徹することができなかった。体が覚えていなかった。黒子が主役の前にしゃしゃり出てくるような真似をしてしまった。プロの校正者として失格である。
編集長は、過去に私が「表現者」を目指していたことを知っていた。学習塾の仕事と並行して美術評論を書いてそれを公募文学賞に出し最終選考に引っかかったということを、自身に文章力が備わっていることのアピールとして面接試験の際に話していたからだ。このこともあって、「こいつまだ『書き手』の気分でいるのかな」と編集長は思ったに違いない。それで、編集長は「〆野君は『書きたい人』」と言ったのだ。
「書き手」としても芽が出ない、裏方の仕事も務まらないとあっては出版業界の中に私の身を置くスペースはない、と当時20代後半の私は思った。それで、この出版社を辞めたわけである。
挫折したあの頃の自分と向き合って見えたもの
とにかく本にかかわる仕事に就きたい、と考えていたのが20代の頃の私だった。
私は子どもの頃から本が大好きだった。大人になったら本にかかわる仕事がしたいとずっと思っていた。高校生になり文芸部に入って、詩や小説を書いた。まず目指したのは「表現者」だった。大学生になっていくつかの公募文学賞にも出してみた。だが、箸にも棒にも掛からない。では、出版社に入って編集者になれはしないかと考えた。しかし、就活を始めたものの就職氷河期で募集自体がない。どうしようと迷っているうちに、ただでさえ少ない就職口はどんどんなくなっていく。たまらず、私は学習塾運営会社にエントリーした。学生時代の家庭教師や塾講師のバイト経験が評価されたのか、私はその会社に就職することができた。
「これも修行だ」と思った。本にかかわる仕事に就くための「修行」。私はその会社の専任講師として高校生に国語や小論文の指導にあたった。当時の生徒には大変申し訳ないが、生徒に指導するためというよりも自分の読書経験をより重厚なものにするために、長い時間教材研究に当たった。こうした「インプット」と共に「アウトプット」も欠かさなかった。仕事と並行して美術評論を書くとそれを公募文学賞に出してみた。最終選考にからくも引っかかった。しかし「やった」と思ったのは束の間、結局落選した。それでというわけではないが、そのときの私にはそこが自分の「表現者としての限界」のように思われた。今にして思えば「何を若僧が知った風な口を生意気に……」と自分でも思うのだが、そのときはそう思ってしまったのだ。
私には何ができるのかと、改めて自問自答してみた。そうだ、校正者はどうだろうかとひらめいた。その頃、高校生の書いた小論文を添削していた。この経験や今まで培った国語の知識などを活かせないだろうか。そう思いはじめて、気が付いたら私は上司に退職願を出していた。そして次の日に、通信教育の校正の講座に申込をした。届いたテキストに取り組みながら、来る日も来る日も校正者として働ける先を求人情報誌で探した。しかし、校正者の募集は見当たらない。「どうも出版社にまず入って、それから校正や校閲の係を目指した方がよいらしい」と知人が教えてくれた。そこで編集者の募集を探していくつかの大手出版社に履歴書を送ったが、一次選考すら通らない。そんな日々を過ごして三か月目が過ぎたとき、私は小さな出版社に拾われた。それが前述の出版社である。
こうしてようやく入れた出版社だったが、私はそれから1年後また教育業界にもどり、気が付けば大学受験予備校で教鞭を執っていた。「出版業界に私の居場所がない」現実をやむなく受け入れた。私は挫折した。
そんな私だからこそ、この『ことばの番人』を読む資格があると思った。ことばの番人になれなかった私だから、この本を読むべきではないかと思われたのだ。
この本を通じて、私は過去の私の半生と今の私の生きざまを引き合わせて照合し校正するつもりでいた。いや、校正なんてものではない。何なら過去は「消し込み(注1)」たい。そして必要とあらば、今までの人生を反省して更生したい。私ももういい歳だ。そろそろ「人生の答え合わせ」をしてみたいと常々思っていた。それには一番の人生のターニングポイントであったあの頃の、つまり校正を失敗して出版社を去ったあの頃の自分と向かい合うのがいいと考えていた。それにはまさにこの本がうってつけだと思い、購入したのである。
しかし思わぬ発見をした。編集者や校正者になれなかった私だったが、その私の中に校正者マインドが意外にも息づいているのを発見することができたのだ。
「(前略)著者のお考えもあると思うので、校正者としての指摘をして、なおかつ、根拠となる資料をお付けしてお渡しするんです。著者をイカクしないように」
――イカク?
念のため漢字で「威嚇」と書いて山崎さんに見せると、彼女はうなずいた。
「以前、上司に私の指摘は『威嚇的だ』と注意されたんです」
――どこが、ですか?
「字が大きかったんです。大きな字は威嚇的ですから。なるべく小さい字で『トカ』『ナド』『?』を付ける。そっと聞く感じで指摘するんです」
たとえば、ここに書かれていることは、今でも自分の仕事の中で大事にしていることである。そう、「人の文章に手を入れる」ということは、ことほどさように暴力的なことなのだ。
私は、出版社を辞めて以来、教育の現場で中高生に作文や小論文の指導をしている。教壇に立つことは40代頭で「引退」したが、今も年間3000枚ほどの中高生の書いた作文・小論文に添削指導をしている。その私が一番大事にしていること、それは「『威嚇的』にならないこと」であった。
たしかに出版社に勤める以前も、学習塾で小論文の授業をし授業後は添削指導をしていた。ただし、そのときは自分がやっていたことがそんなに攻撃的なものだとは思いもよらなかった。だから、おそらくその頃は、私の添削の赤字によって傷ついた受講生も多かったに違いない。
しかし、短い期間だったが出版社で校正の仕事をさせてもらい、「赤入れがどれだけ『威嚇的』なのか」は十分にわかっていた。だから、今では赤入れには最大限の注意を払っている。まず、その箇所に直接赤で消すことはしない。その箇所に線を引いたり、その箇所をかっこでくくったりする。そして横(横書きのときは上)にその箇所を直した表現を小さい字で書くのである。該当箇所を上からビッと赤線で一気に消したら、その文章を書いた中高生は「自分の表現や考えを全面的に否定された」とショックを受けるかもしれない。ただでさえこちらは大人である。だから、大人が大人の文章を校正する以上に、大人が子どもの文章に行う添削は「威嚇的」になりがちなのだ。
何より「人様の文章」なのだ。最終的にその文章の表記や表現をどうするかの裁量権は、基本著者にある。赤入れする私にはそれはない。これは相手が大人だろうと子どもだろうと同じだと、私は思う。だから「こっちが正しい」ではない。「こうした方がいいですよ」、「こっちの方が適切ですよ」というスタンスで赤入れやコメント入れはするべきだ。この前での引用した箇所で境田氏も言っていたように「提案」のスタンスである。それがたとえ明らかな表記上のミスだ(と考えられる)としても、である。だから、基本はですます調で「こっちの表現の方が適切ではないですか」と提案として示す。示すだけでいい。それで生徒が自分の表現に「違和感」を覚えてくれればいい。それで私の指導は成功だ。その結果、私の提案が採用されずに、その生徒自らでより適切な表現を考えてそれで書き直してくれても全くかまわない。ここでは、「私の言った通りに直すこと」が大切なのではない。
もちろん、私の添削の仕事は校正ではない。これは受験対策の教育的指導である。そのため、校正よりもやや強制力が強まらざるを得ない。しかし、だからと言って、その文章を書いた生徒の気持ちや考えをないがしろにしていいわけではない。いや、ないがしろにすることで、その生徒はそれ以上小論文の勉強や志望理由書の作成に向かわなくなるかもしれない。だとしたら、教育的指導の面からもこちらの添削が「威嚇的」になってはならないと言えるだろう。
次に「こちらが赤入れした根拠を示す」ことである。上記の引用文章内で山崎氏も述べている通り、根拠となるものを必ず挙げるように私もしている。赤入れされた方は当然「なんで?」となる。このときにその根拠が示せなかったら、その赤入れは著者にとって単なる意地悪にしかならない。そこに赤入れしたのには理由がある。それはこう考えたからである。そのように書き手に説明する義務がある。人の文章に口出しをするのだから、どうしてそうやって横から口を出したのかをこちらは説明しなければ書き手に対して失礼になる。これについても、大人か子どもかは関係ない。中高生であっても、自分の考えを、自分の頭と手で文章としてまとめている以上立派な書き手だ。自分の文章に茶々を入れられたら、気分も悪いし学習意欲も削がれるはずだ。だから、この本に出てくる校正者のようにいくつもの辞書に当たるまではしないが、私も必要とあらば辞書を引くなど調べて確認する。その上で「この文脈から読みとれるこの意味の場合は、こちらの表記が一般的には適切ではないですか。」などとコメントとして書く。
……とこのように「あー、これは今の自分の仕事でも大事にしていることだな。」と、次第に、「あるある」と読み進めるにつれてうなずくようになっていった。
たとえば、文字を文字として一つひとつ認識しないと誤字や脱字などが見つからないから、最初は文章内容をあえて読みとらないという内容もあったが、あれもまさにそうである。もちろん、対象が印刷物か手書きの文章かによってチェックポイントは違うのだが、文章内容を理解しながらだと誤字や脱字、衍字は絶対にとりこぼす。だから、私も最初は文章の文字面だけをチェックする。このとき内容がどうとかはあえて頭に入れない。ノイズになるからである。そこに書かれている表記や仮名遣いが正しいかだけチェックするのだ。表現や内容のチェックはその次だ。
……こうして「ああ、そうだそうだ。そうなんだよな。」と思いながらこの本を読んでいる自分にふと気づいたとき、私は思った。「何だ。自分、結構昔の経験を今に活かせているじゃないか。」と。あの挫折はたしかに挫折には違いなかったが、今の自分から見るとあの経験は私の人生にとって意味がなかったことではなかったのだ。むしろ、校正者になれていない今にこそあのときの校正の経験で得たことが活かされているのではないかと。
まっすぐに正直に生きてきた自分を褒めたくなった
読み始めた当初、私は、この本を通じて、過去の挫折した自分と向き合って今後の反省につなげようと思っていた。しかし、思い上がりかもしれないが、この本を読み終わった後、自分が結構その挫折から得たことを血肉にしており、またそれが今の自分を活かしているということに気づかされた。この本に出てくる校正にかかわる多くのプロフェッショナルの矜持にふれて、私は校正者ではないしなれなかったが、今仕事としてやっていることのプロフェッショナルの末席に座ることを私も許してもらえるのかなと少し思った。紆余曲折はあったが、なかなかまっすぐに正直に生きているではないか、私。もう少し、そんな自分を認めて褒めてあげてもいいかもしれない。
そういうつもりで著者の髙橋氏はこちらの本を書いたわけではないと思うのだが、髙橋氏にお礼を言いたくなった。この本を通じて「人生の答え合わせ」をしたのだが、私の今までの人生に今の私が赤入れをする必要はないのかもしれない。正す必要もなかったし糺す必要もなかった。そうか、このまま「アリノママ(注2)」でいいのだな。
(注1)
(前略)これらの最終原稿は「消し込み」という方法で校正するらしい。ある関係者によると、
「原稿と印刷のゲラを、一文字一文字照合していくんです。照合できたらその文字をレ点でつぶします」
実際に校正されたゲラを拝見すると、文字の一つひとつがレ点で塗りつぶされており、もはや読めない状態。だから「消し込み」と言うのだろう。
(注2)
当たり前の言葉だが、私も境田さんにならって確認してみたくなり、あらためて辞書を引いてみた。すると「ただしい」とは元来、「ただし」であり、手元にある『新訂 大言海』にはこう語釈されていた。
アリノママナリ。
私は瞠目した。「ただしい」とはありのままということなのか。
(中略)
ちなみに漢字の「正」は「一+止」の会意文字で、ゴールラインに向かって走るように「足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す」らしい。ありのままに猪突猛進ということか。(後略)
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