【企画参加・#noteでBL】 夜の犬
本作は、毎度恒例、なみさんによる以下の素敵な企画に参加するために書いたものです。別記事であとがきも投稿しますので、よろしければ、本編とあわせてそちらもお読み頂けると嬉しいです。
あらすじ:ホストを送迎するドライバーの久世は、ある日担当キャストの時枝から、思いもかけない「副業」の依頼を持ちかけられる。「モニター」と呼ばれるその仕事は、時枝の「ある行為」を盗聴する怪しげなものだった。危険と知りつつも、その依頼を承諾する久世。しかし、徐々にその仕事に慣れるにつれ、久世の胸の内に、自分でも説明のつかない感情が生まれていき…
ジャンル:現代
桜が、夜の雨に散っている。
いつの間に降り出したのか、久世には覚えがない。
ワイパーがひっきりなしに動いているが、フロントガラスは波のような雨垂れで覆われている。だから、かなりの大雨なのだ。四月の天気は、ひどく変わりやすい。
午前三時——雨が降っていても、新宿の夜は明るい。道路の両脇に並木のように連なるネオンライトが、滲んで光っている。この街が本当に眠るのは、一体いつなのだろう。久世は、少なくとも今の仕事に就いてから、そんなところを見たことがない。
雨の中を、黒い人影が近づいてくる。
「お疲れー」
「お疲れ様です」
ドアを開けて、時枝が入ってきた。後部座席から、強いアルコールの香りが漂う。それでも、彼が一向に酔っ払って見えないことを、久世はいつも不思議に思う。シートベルトを閉めたのを確認してから、アクセルを踏む。車が、雨の中を走り出す。
「キャスト」と呼ばれる男たちを、閉店後の店から、自宅へと送り届けるのが久世の仕事だ。店、とはつまりそういう店である。
酒と金を介して、女性に一時的な夢を与える。時々は男性にも。時枝の固定客には、同性も多い。
「今日は、どうでした?」
「ん?まあまあかな。誕生日のお客さんがいて、いっぱいシャンパン入れてくれた」
「普通、逆じゃないですか?」
「そうだね、てかそこ真面目なの受けるな」
時枝は、そう言うとシャツのボタンを上から二つ、外した。バックミラー越しに、少しだけ露わになった肌が見える。雨の影が、滑らかな皮膚を洗う。
店で働く男たちの中でも、時枝の容姿の良さは際立っている。一見したところ、水商売の人間に見えないところが、彼の売りなのだろうと久世は考えている。上着を地味なジャケットに変えて、ネクタイを締めれば、会社員と言っても通用しそうだ。
「あ、久世ちゃんごめん。俺今日直帰じゃないんだわ」
「どちらですか?」
「目黒、いつものとこ」
「承知しました」
雨が、一段と激しさを増した。しんと静まり返った車内で、ポツリと時枝が呟く。
「また、『モニター』お願いしてもいい?」
久世は、フロントガラスに映り込んだ自分の姿を見つめながら、小さく頷いた。
***
罪の意識というのが、一体どこから湧いてくるのか、久世には分からない。
善悪の基準がないから、きっとその判別がつかないのだろうというのが、現時点の彼の見解である。正義も不正も、浮世という水面に浮かぶうたかたのようなもので、うたかたはいつか消える。
だから、他人の命を奪うとか、ものを盗むとか、そういうことでもしない限り、全ては白でも黒でもなく、グレーのままだ。
そして雨が降れば、あらゆるものが色を失う——
”久しぶり”
”そうだっけ?先週も来たじゃん”
”一週間は長いよ”
”ごめん、なかなかスケジュール取れなくて”
”何か飲む?てもう飲んでるか”
”うん、とりあえず…”
”寂しかった”
”俺も”
スマホ越しに、女の声と、時枝の声が交互に聴こえる。女の、少し鼻にかかった独特の声質を、久世はもう完全に覚えてしまった。例えば人混みですれ違ったとして、彼女が何か話していたら、久世は女のことを特定できるだろう。
そのことに、特別な意味はないが。
布の擦れあう音が、耳に響く。やがてそれは、粘膜が触れ合う音に変わり、息遣いがそこに追いついてくる。その後の展開は、いつも同じだ。久世は、フロントガラスを流れる雨に目をやりながら、じっと耳を澄ます。
ここでもしも、自分が何か喋ったら——と久世は想像する。
たった一言、いや、咳払いの一つでもするだけで、久世は時枝の人生を狂わせることができる。
そのことを、時枝は一体どれくらい深く理解しているだろう。
”激しいね”
”そうかな?久しぶりだから”
やがて、女の喘ぎ声が久世の鼓膜を満たす。彼はその奥にある、時枝の呼吸に意識を集中させる。時枝は、最後に果てるときも、ほとんど声を発しない。しかし、わずかに上擦った音が彼の喉から漏れるのを、久世は承知している。
期待通りの音。
やがて、静寂——
***
「でっかいね、身長何センチ?」
初めて会ったとき、時枝は久世に向かってそう言った。一年ほど前のことだ。場所は、店内のバーカウンターだった。
自分が大きいのではなく、そっちが小さいのだ、という言葉を、久世は飲み込んだ。時枝は、一般的な男性と比べて、わずかに背が低かった。体つきも華奢で、線が細い。並んで立つと、相対的に彼の方が幼く見えた。
年齢を聞けば、自分よりも二つ年上である。久世は何故か、そのことに安堵した。従う相手が自分よりも小さく、さらに年下では、気を遣うことも多い。安堵の理由を、久世は何となくそのように紐付けた。
「体が大きいのはいいね、頼りになりそう。採用でいいんじゃない?」
同席した店長に向かってそう言うと、時枝はこちらに視線をやって無邪気に笑った。久世は、自然と彼に好感を持った。
時枝は、店の主要な「キャスト」の一人だった。
久世は、彼専属のドライバーとなり、送迎を担当した。
仕事は、簡単だった。元々運転が好きな上に、待っている時間を潰すことにも苦痛を感じない。加えて、時枝の人柄も、第一印象通り良好だった。
「久世ちゃんってさ、なんか大型犬みたいだね」
「犬、ですか」
「うん、ほら、ゴールデンレトリバーとか、シェパードとか」
「それは初めて言われました」
「そう?なんか一緒にいると安心するよ」
「ありがとうございます」
時枝の会話は、どこまでも屈託がない。職業で人を差別することを久世はしないが、他の「キャスト」と比べても、彼は世に擦れた感じが皆無だった。
逆説的に言えば、そこが危うい。
彼に惚れる客の気持ちを、久世は分かるような気がした。
「ワン、って言ってみて」
「わん」
「…やっぱ真面目。久世ちゃん面白い」
***
初めて「モニター」を依頼されたときのことを、久世は確かに記憶している。
時枝を後部座席に乗せるようになって、半年ほどが経過した頃のことだ。
最初、彼の提案を、久世は上手く飲み込むことができなかった。内容が理解できなかったのではない。意図が読めなかったのだ。しかし、彼の仕事は頷くことだった。「承知しました」と久世は言い、時枝はそれに対して満足げな笑みを浮かべた。
「なんかさ、最近上手くできないんだよね」
「そう、なんですか」
「だから、ちょっとしたスパイスみたいな感じ?バレたらやばいけど」
「どうやって聴けば良いんですか?」
「簡単だよ。スマホ繋いだままにしとくから、車の中で聴いてくれればいい」
「万が一見られたら?」
「間違えて通話中になってたって言えばいいんじゃない?」
「…なるほど」
躊躇は、特になかった。しかし、他人の情事を盗聴するという行為が、異常なものであることは、久世にも理解できた。さらに言えば、それを当人が依頼するということも当然正常ではない。だが、時枝の口調はあくまでも自然なものだった。
お互いに、何らかのネジが外れていたのだろう。
「でも、何で俺なんです?」
運転席で、ハンドルを握ったまま久世がそう尋ねると、時枝はいつもの調子であっけらかんと言った。
「なんかさ、久世ちゃんみたいな人に聞かれてると思うと、興奮するじゃん」
「……」
時枝の女が住むマンションの地下駐車場に車を停めたまま、久世はその夜初めて、彼らの睦言を聴いた。女は、第三者がベッドの外側にいることも知らず、大きな声で喘いだ。しかし久世が聴いていたのは、女の声ではなかった。普段はきくことのできない時枝の激しい呼吸に、彼は耳を澄ませた。
肉体が反応したことよりも、精神が高揚を覚えたことに、久世は驚いた。
眠らない夜の中で、自分が獣になったような気がした。
想像の中で、久世の耳は犬のそれに変化し、尾てい骨からは尻尾が生えた。
「わん」
全てが終わって、通話が途切れたとき、久世は小さく車の中で吠えてみた。
その声は、闇の中に吸い込まれるようにして消えていった。
***
「モニター」は、彼の副業になった。
店から支払われる報酬とは別に、久世の口座には、時枝のポケットマネーが毎月振り込まれた。額面は、決して少なくはないものだ。もちろん、同じ年代のサラリーマンと比べて、時枝の月収は桁違いに多い。しかし、それを考慮しても、金額は一般的な感覚よりもさらに上をいく。
「時枝さん、これはもらいすぎです」
「遠慮しなくていいって、一緒に危ない橋渡ってもらってるんだからさ」
「でも…」
「それにさ」
久世が食い下がると、後部座席から身を乗り出して、時枝は彼の耳元で囁いた。
「おかげで俺も気持ち良くなってるから、そのお返し」
そう言われて、さらに返す言葉は、久世の中に見当たらなかった。
彼が「モニター」を依頼するのは、一人きりではなかった。女は、常に複数人いたのだ。目黒、品川、四谷、上野…夜のドライブは、都心を巡るちょっとした旅のようなものだった。ごく稀にだが、時枝は一晩に二人の相手をすることもあった。久世は、律儀に何度でも、彼の情事に耳を澄ませた。
相手によって、時枝の交わり方は微妙に変わった。
「本命は誰なんですか?」
「本命?」
「みんな遊びですか」
「あー、それはねー」
「久世ちゃん」と言って屈託のない笑みを見せる。時枝の笑顔は、いつでも一点の曇りもなく、そのことで、かえって久世は不安になった。何故かは、自分でもよく分からない。
いずれ飽きるのだろうと、久世は思っていたが、予想に反して時枝の依頼は続いた。もしかしたら、彼は自分という存在なしにはできなくなってしまったのではないか。真夜中の車内で、スマホを耳に当てながら、久世はそんなことを考えるようになった。自分は、彼の欲望を安定させる薬のようなものなのだ。あるいは、精神を麻痺させる毒薬のようなもの。
時枝が達する瞬間の音を耳にするたび、久世の想像力は闇に漏れ出た。
ベッドの下で、主人の睦言にじっと耳を澄ませる犬。
よし、と言われるまで、そこから出てこない犬。
本当は、主人に撫でて欲しいと切望している、犬——
***
「久世ちゃん、今日は目白まで」
その夜、車内に入るなりそう言った時枝の声を聞いて、久世はおや、と思った。いつもとは異なる、微妙に切羽詰まった感じを、その声色から感じ取ったのだ。しかし、そこに言及するのは彼の信条に反する。「承知しました」と頷き、久世はアクセルを踏んだ。
目的地へ向かう車中でも、時枝は珍しく言葉少なだった。普段なら、軽口の一つでも叩くところを、むっつりと押し黙っている。久世が水を向けても、二言、三言口を開くだけで、あとはただ沈黙が続いた。
体調でも悪いのだろうか、と久世は考えた。バックミラーの中を覗き込んだが、俯きがちな時枝の顔色は読めない。
ナビの発する機械的な音声のみが、車内に鳴り響いた。
「到着しました」
「ありがとう、じゃあ今日もよろしく」
「はい」
ドアが閉められ、しばらくしてから、スマホがいつものように彼からの着信を受信した。久世は、画面をスライドさせ、通話状態にしてから、「声」が聞こえるのを待った。
”ごめん、待たせた?”
時枝のセリフ。しかし、その後に続いた「相手」の言葉に、久世は思わず声を発しそうになった。
”いや、大丈夫。俺もまだ仕事してたから”
”こんな時間に?”
”残業、終わらなくて。お前が来るまで暇だったし”
”そっか、もう終わる?”
”うん、もう明日でいいや”
じわじわと、自分でもよく分からないものが、胸の中に込み上げた。もちろん、時枝が同性の客の相手をしていることは、知っていた。しかし、プライベートでまでそうした「付き合い」があることを、久世は了解していなかった。さらに言えば、それを音声で「聞く」ことになるとは、考えてもいなかった。
”じゃあ…”
”うん”
衣服の擦れ合う音、そして、粘膜の触れ合う音。それから…
それ以降の展開を想像して、久世は頭が真っ白になるのを感じた。自分で自分が制御できない、そう感じた。
一瞬、目の前が暗転し、彼は自身でも気付かないうちに、声を出していた。
「時枝さん、そろそろ時間です」
その瞬間、二人が息を呑む音がした。
やがて、しばらくした後、笑みを含んだ時枝の声が受話器越しに答えた。
「あ、ごめん。もう行くわ」
***
帰り道、いつにも増して時枝は饒舌だった。
久世は、彼の立てる笑い声を聞きながら、フロントガラスに映る自分に向かって静かに微笑んだ。
トラブルになるかもしれない、と覚悟はしていた。他人の情事を聴こうとしていたのだ。それなりの報いはあるだろう。今まで咎められるタイミングがなかったことが、むしろ不思議なくらいだ。しかし、状況が状況だからだろうか、取り立てて店にクレームが入ることもなく、まるで何事もなかったかのように、時間は過ぎた。
そのうちに、あれはもしかしたら自分の見た夢だったのかもしれないとすら、久世は考えるようになった。それくらい、自分のした行為に現実味がなかった。
時枝はもちろん、そのことを蒸し返したりはしなかった。
お互いに、何を言うべきで、何を言わないべきかを分かっていたのだと思う。
当然ながらそれからも、「モニター」の副業は続いた。
「久世ちゃん、今日は広尾ね」
「承知しました」
スマホ越しの睦言は、すでに久世にとっては日常だった。
一度だけ、異動の話があった。
時枝の勤める店が、二号店を六本木に出す。そこのオープニングキャストの送迎をやらないかと、店長から誘いがあったのだ。久世に、断る理由はなかった。こちらは雇われの身だ。行けと命じられれば、別の場所へ移るしかない。
しかし、そうこうしているうちに、その話は自然と立ち消えになった。
久世が何か言ったわけではない。ただ、煙のように異動命令自体がかき消えてしまったのである。
しばらくして、時枝がそこに絡んでいたことを知った。
曰く、久世が異動するなら自分も店を移ると言ったらしい。
店としては、主要な「キャスト」の移店は経営上の問題になる。
結果として、久世はそのまま、時枝の専属ドライバーを続けることになった。
「ありがとうございます」
久世がそう言うと、時枝はあくまでもシラを切った。
「何が?」
久世も、それ以上の追及を避けた。
時枝が言った。
「久世ちゃん、また『モニター』よろしく」
***
花の散った桜の木を、ヘッドライトが照らしている。
闇に映える若葉が芽吹いたのがいつなのか、久世は覚えていない。
夜に鳴り響くアクセルの音は、犬の唸り声に似ている。獲物を前に、「待て」を命じられて、必死に本能に逆らっている獣の声。よだれを垂らしながら、しかしきちんと自分を抑制している、健気な犬——
「すっかり桜も散ったねー」
後部座席で、時枝が呟く。久世はその言葉に、静かに頷いてみせる。
「いつも散るのはあっという間です」
「今年は花見とかしなかったな」
「自分もです」
「もう咲いてるところないのかな」
「都内にはないと思います。北上すれば、あるかもしれませんが」
「そっかー」
今夜の新宿は、よく晴れている。鏡のような月が、ビルの隙間からちらほらと見える。犬も、狼のように、月を見ると遠吠えするのだろうかと、久世は考えている。そもそも彼らが月に向かって吠えるのは何故なのだろう。ネオンライトを見ても、獣は本能を掻き立てられるのだろうか。
「久世ちゃんさー」
「はい」
「今日、俺直帰しないわ」
「どちらですか?」
「うーん、どうしようかな」
スマホを片手に、時枝が悩ましげな声を出す。久世は、何も言わずに、彼が回答を出すのをじっと待っている。
「花見でもしよっか」
いつも通り、あっけらかんとした調子で、時枝が言った。
「え?今からですか」
「そう、今から。どこまで行けば桜咲いてるかな」
「調べてみましょうか?」
「はは、やっぱ久世ちゃんって真面目。いいよ、俺が調べる」
「すみません」
沈黙が、車内に舞い降りる。久世は、フロントガラスをまっすぐに見つめ、通り過ぎる景色を横目で焼き付ける。眠らない街、ここからどこへでも行ける街。
しばらくして、時枝が言った。
「あー、ダメだ。予定入っちゃった」
久世は、ガラスに映った自分の顔を見つめながら、小さく頷く。
「今日はどこへ?」
時枝が、両手を頭の後ろに当て、足を組みながら答えた。
「目黒。また、『モニター』よろしく」
久世は、首を振る代わりに、心の中で「わん」と吠えてみた。
