【企画参加・#noteでBL】 歳月
本作は、毎度恒例、なみさんによる以下の素敵な企画に参加するために書いたものです。別記事であとがきも投稿しますので、よろしければ、本編とあわせてそちらもお読み頂けると嬉しいです。
あらすじ:大学卒業とともに、別々の人生を歩むことになったタイラーとランス。タイラーは、ランスに対し友情以上の感情を抱いていたが、打ち明けられぬまま、歳月は流れる。やがて、偶然の再会を果たした二人の人生は、再び交わり始めるものの、すでにランスには人生を共にするパートナーの存在があった。タイラーは、孤独を抱えながらも、募る想いを心に秘めたまま、「親友」としてランスと付き合い続けていく。そして月日は無情に流れ…
ジャンル:海外もの/ヒューマンドラマ
ふと、振り返るとそこには荷物をまとめた彼の姿があった。
革のトランクケースを脇に置き、ドアの側からこちらを見つめている。僕は窓辺に手をついたまま、顔だけを彼の方へ向けて、微かに笑ってみせた。
夏の匂いを含んだ風が、カーテンを膨らませる。
「準備が早いね」
ランスは、トランクをその場に残し、僕の方へと歩み寄ってきた。
「何を見てた?」
「別に何も。ここからの眺めも見納めだなと思ってただけ」
「散々ひどい寮だって言ってたくせに。今更センチメンタルか?」
「そんなんじゃないよ…いや、まあ確かに感傷的にはなってる、かな?」
隣に並ぶランスの髪が、夏風になびく。ギリシャ系の血を引いている彼の髪の毛は、東洋人のそれのように艶のある黒だ。横顔は、彫刻刀で削ったかのように鋭い。
窓の向こうには、今まさに盛りを迎えようとしている中庭が見晴らせた。もう少ししたら、きっと生垣の薔薇の蕾も開き始めるに違いない。
別れを告げる代わりに、僕は目を閉じて、花々の香りを思い切り吸い込む。
「いつまでここにいるつもりだ?」
ランスが、呟くように言った。
「うん、あと少し。もう出るの?」
「ああ、夜の便に間に合うように空港に行かないと」
「そうか、じゃあ…」
僕は彼に片手を差し出した。
「Godspeed」
ランスは、きょとんとした顔でしばらくこちらを見つめ、やがて呆れたような笑顔を見せた。僕は、中庭を見下ろしていたときのように、彼の目尻にできた皺を眺める。
”これで、見納め”
「お前って、やっぱおかしな奴だな。タイラー」
「そうか?」
首を傾げると、ランスがサッと片手を差し出して、僕の手を力強く握った。暖かい温もりが、手の平から心臓に伝わる。
僕の胸が、とくん、と音を立てる。
一瞬、心の声が聞こえてしまうんじゃないかと思い、焦った。
「Godspeed」
彼特有の、太い低音が、耳に心地良い。
「向こうに着いて、落ち着いたら手紙を書くよ。実家宛てで出せば良いんだろ?」
「ああ、ロンドンであまりはしゃぎすぎるなよ」
「田舎者扱いするなよ」
「田舎者じゃないか」
思わず顔を見合わせると、お互いに笑顔になった。その瞬間、一際強い風が窓から吹き込み、机の上に置かれていた日記のページがめくられた。
最後のページに書かれた言葉を、僕が口にすることはなかった——
***
ふと、振り返るとそこには黒いコートを身につけた懐かしい顔があった。
ロンドンの雑踏の中に、紛れるようにひっそりと建っているパブである。面積は小さいが、客の入りはまずまずで、冬だというのに人いきれで暑いくらいだ。
ビールを注文する声で分かった。驚いて何も言えずに見つめていると、視線を感じたのか、彼もこちらを振り返った。その瞬間、時間が一気に巻き戻される。
「タイラーか?」
「ランスだよな」
互いに確認し合うと、ランスはカウンターでグラスを受け取り、僕のテーブルへと歩いて来た。その迷いのない動きに、学生時代の面影が滲む。
「いつロンドンへ来た?」
「…今日だよ」
「マジかよ、こんな偶然あるのか?初めて入った店だぜ」
「僕もびっくりしたよ」
目の前の席に、ランスが腰掛ける。コートの隙間から覗くネクタイとスーツから、過ぎ去った歳月の香りが漂ってきた。大学を卒業して、もう五年が経つのだ。
手紙のやり取りは、はじめの一年だけ。後は、どちらからともなく無沙汰になった。やがて音信不通になり、僕らの関係は途絶えていた。
「しばらくいるのか?」
「ああ、というかこっちで暮らすことになった。転職するんだ」
「そうか、じゃあまた会えるな」
グラス越しに覗く無邪気な笑顔が、僕の胸を甘く締め付ける。五年の月日が流れても、まだこんな気持ちが残っていたなんて。
話題を探すふりをして、彼から目をそらす。すると、その瞬間ランスがテーブルの上に片手を差し出した。
「Godspeed」
「え?」
「忘れたのか、お前が言ったんだぜ?」
窓の向こうには雪が降っているのに、その瞬間だけ、夏風が吹き抜けていった気がした。
僕は、わずかに躊躇った後、ランスの手を握り返した。
頭の中で、日記のページがパラパラとめくれる音がする。薔薇の匂いが、鼻腔をくすぐる。
そう、あのとき言えなかった言葉を、僕は未だに、胸の中に抱えている。しかし、それを口にするチャンスは、きっとこれからもないだろうと思えた。
握り締めたランスの手の薬指には、指輪がはめられていた——
***
ふと、振り返るとそこにはこちらを見上げる少年の姿があった。
一瞬、自分がどこにいるのかが分からなくなり、混乱する。少年は、窓辺に立つ僕を不思議そうに見つめたまま、おずおずと口を開いた。
「夕飯の支度ができたって」
その声は、父親とは異なり、ハスキーなハイトーンだ。顔も、どちらかと言えば母親の方に似ている。僕は、彼を安心させるために、その言葉にゆっくり頷いてみせた。
「ありがとう、じゃあ一緒に行こうか」
腰を屈め、彼の目線に顔を持っていくと、少年が首を傾げて言った。
「おじさん、何見てたの?」
ふっとデジャブのような感覚に襲われる。何だっけ?これと同じ状況を、昔にも経験したことがあるような…
「何も…ええと、夜の庭を見てたんだ」
「ふーん、何かいた?リスとか?」
「…いや、何もいないよ。ただ、良い庭だなと思っていただけさ」
少年は僕の言葉を聞き、よく分からないというような表情で肩をすくめると、くるりと踵を返し、歩き始めた。僕も、彼の後を追い階段を降りてゆく。
リビングルームへ向かうと、温かな食事の匂いが、鼻腔に満ちるのを感じた。いや、食事の匂いじゃない。これは、家庭の匂いだ。
「タイラー、早く席につけ。スープを冷ますのは子供のすることだぞ」
笑いながら、椅子に腰掛けたランスがこちらに向かって言葉を投げてくる。その隣では、テレサが同じように微笑み、僕の方を見つめている。
「ああ、悪い。すごいな、こんなご馳走久しぶりだ」
「テレサの料理は、控えめに言っても最高だな」
「彼の親友がロンドンから遥々やって来るっていうから、腕によりをかけて作ったのよ。さあどうぞ、好きなだけ食べてね。ああ、ワインも開けるわ」
結婚して五年後、ランスは都会を離れ、郊外へ移り住んだ。やはり田舎の方が落ち着くと見え、彼の顔はすっかりくつろいだものになっている。
時間を経て、少しだけ体にも肉がついた。
まあ、それはお互い様ではあるが。
妻と、子供と、小さいけれども自分の好きにできる庭。ランスは、今や平凡で得難い幸福を、すっかり手に入れていた。
僕は、変わらず窓の外の庭を眺めているままだ。
ランスとテレサの会話に相槌を打ちながら、僕はふっと、夏の匂いのする風が吹き抜けていくのを感じた。
視線を感じて顔を向けると、じっとこちらを見つめる少年と目が合った——
***
ふと、振り返るとそこにはベッドの上で上半身を起こしたランスの姿があった。
いつの間に目を覚ましたのだろう。僕は、窓辺を離れて、彼のベッドに近づいてゆく。清潔な真っ白いシーツから、ほんのりと薬品の香りが漂ってきた。
パジャマの下のランスの体は、少しだけ薄くなったように見えた。
「起きて大丈夫か?」
僕が尋ねると、ランスは「ああ」と低い声を出して頷いた。
「今日は少し調子が良い。…悪い、少し肩を貸してくれるか?」
「了解」
ベッドの真横で、腰を屈める。ランスは僕の両肩に手をついて、体を浮かせた後、ゆっくりと下半身をずらし、縁に腰掛けた。寝ているうちに染みついたのだろう。彼の体からも、シーツと同じ匂いがした。
病院中に漂う匂い。その不吉さを、言葉にするのは躊躇われた。
僕は、何か言おうか迷ったが、結局口を開くことなく、無言で彼の隣に座った。並ぶと、余計にその体の薄さが際立った。
いや、体だけじゃない。存在の希薄さだ。
しばらく何も言わずに窓を見つめる。晩秋の日差しが、庭に植えられたプラタナスの葉を照らしている。
「テレサとマークはどうしてる?」
やがて、僕がそう問いかけると、ランスはゆっくりと頷いた。
「元気にしてるよ、昨日は二人で見舞いに来た」
「もうしばらく会ってないな」
「マークの結婚式のとき以来だから、10年になるか。夏が来るたびに招待してたのに、お前が忙しかったからな」
「そうだな、忙しかった」
嘘だった。ただ、家庭の匂いを、彼の「庭」を感じるのが、辛かっただけだ。悟られないようにランスの横顔を盗み見ると、学生時代と変わらない鋭角的なシルエットに、深い皺が刻み込まれているのが分かった。
彼の顔を見るのは、鏡を覗き込むのと同じだ。
多分、自分の皮膚にも、同じだけの皺が刻まれているに違いない。
「手術は、いつだって?」
「来週だよ。信じられるか?この俺がビビってるんだぜ」
「不安になるのは当然だよ、大きい手術なんて、滅多に経験するものじゃない」
「できれば、経験したくなかったな」
溜め息をつく彼に向かって、僕は迷いながらも片手を差し出した。
「Godspeed」
一瞬、ランスは驚いたような顔をしてこちらを見つめていたが、やがてはにかむような笑顔になり、自分も手を差し出して僕の手の平を握りしめた。
その力は、かつて握手を交わしたときとは比べ物にならないくらいに弱く感じられた——
***
ふと、振り返るとそこには黒いスーツに身を包んだマークの姿があった。
一瞬、ランスが蘇ったのかと思い息を飲んだ。子供の頃にはそれほど似ているとは思えなかったのに、人間の遺伝子とは不思議なものだ。マークは、僕の視線に驚いたような顔をしながら、「あの…」と小さく口を開いた。
その低音も、彼にそっくりだった。
「もうすぐ式が始まります」
「あ、ああ…有難う。すまないね、歳を取るとぼーっとすることが増えて」
「いえ…失礼ですが、タイラーさんですよね?結婚式にいらしてくれた」
ランスの書斎は、彼の潔い性格をそのまま写し取ったかのように殺風景だった。見映えのするものといえば、壁に飾られた家族の写真と、窓から臨むことのできる小さな庭だけだ。
「そうだったね、あのときはまだこんなに老いてはいなかったが」
二十年の月日は、残酷だ。心に変化がなくても、体は確実に変容してゆく。歳月は、どのような人間の足元にも平等に流れる、川のようなものだ。
「父がいつも話していました。学生時代の思い出話とか」
「ろくな話じゃなかっただろう?」
僕が笑うと、マークは少し困ったような顔をして、それでも口元に笑みを浮かべた。その表情に、再びハッとする。
季節は奇しくも、夏だった。
開け放たれたカーテンから、庭に植えられたささやかな花々の香りが漂ってくる。
「それじゃあ、下でお待ちしてます。母も、あなたと話したがっていました」
「ああ、すぐ行くとテレサに伝えてくれ」
マークは微かに会釈し、部屋を出て行った。その背中に向かって、僕は叫びたい気持ちになった。
僕は、再び窓辺に立つと、彼の造った「庭」を見つめた。そして、鞄から一冊のノートブックを取り出して、静かにページを開いた。
そこには、若く血気盛んな文字で、ただひたすらに率直な感情のみが綴られていた。
風が、ページをパラパラとめくる。
やがて、最後のページを開くと、僕はそれを根本からビリビリと破り、シャツのポケットへと入れた。
棺へ手向ける花の代わりに。
ついに言えなかった言葉を、彼に伝えるために——
