思考とは何か─その起源と科学技術との関係をめぐる探求:後編
プロ雑用です!
今回は昨日のnoteの後編です!
それは進化か、退化か。
便利さと引き換えに失われたもの
道具は私たちの能力を拡張してくれるものです。でも、その一方で、「もう使わなくても済む力」は、静かに衰えていくものでもあります。足腰、記憶力、集中力、そして“じっくり考える力”…それらは「必要なくなった」と言われればそれまでかもしれませんが、いまの人類は、果たして過去の人類に比べて、より良く思考できているのでしょうか?
江戸時代、人は月に500km歩いていた
たとえば、江戸時代の「お伊勢参り」。
江戸から伊勢神宮まで、徒歩で約500km。往復だと優に1,000kmを超えます。これを江戸の人々は1〜2ヶ月かけて歩き、旅の中で見知らぬ人と出会い、食べ、寝て、語りながら進みました。
これを現代人が再現しようとしたらどうなるか?体力面での厳しさはもちろん、なにより「そんなに時間をかけて移動する」という発想そのものが、もはや社会的に許されない感覚ですよね。たまに日本一周自転車旅とかしてる人いますが、あれだって誰もやらないから目立つわけで。珍しい人枠ですよね。
移動は車や電車や飛行機に委ねられて、現代人は歩かなくなりました。でもこれは、単なる「身体能力の退化」と言ってよいのでしょうか?それを考えるために、歩く=軽い運動と思考の関係について考えてみます。
身体が思考を支えていた時代
僕は一日一万歩散歩するようにしているので、よく分かるのですが、歩くというのは単なる移動時間ではないのですね。徒歩は、それほど身体を緊張させない、適度な運動です。歩く間の景色は緩やかに変わりつづけ、考えがまとまっていく、ある意味では瞑想効果もあります。
これはある人ではマラソンであったりサイクリングであったりハイキングだったり、あるいは料理や掃除洗濯でも、とにかく過度な負担のかからない運動は人の思考を深める効果があるようです。
思考は、身体に支えられている、と考えてもよいでしょう。しかし、デスクワーク、さもなくばハードなフィジカルワークにまみれた仕事生活を送るようになった現代人は、いつの間にか身体を使うことばかりか、思考すら手放してしまったと捉えることもできなくはない。
以前、技術の発達は時間と空間の圧縮である、というnoteを書きましたが、時間と空間が圧縮されたからこそ、僕らは自分の身体を使うことを、サボるようになったのは間違いありません。そういったことによる危機感は、かつてあったようです。
1970年代、電卓が一般家庭に普及しはじめた頃に、教育現場ではまさしく「暗算力が退化するのではないか」といった懸念が巻き起こったそう。同じことが、ワープロ、カーナビ、スマホ、そして現在のAIにいたるまで、ずっと繰り返されています。おそらく、蒸気機関や電気、それぞれのフェーズでも合ったでしょう。流石に石器の登場時にそれがあったかどうかは予測もdけいませんがw
暗算力 → 電卓に委ねた
漢字の書き取り → ワープロに任せた
道順の判断 → GPSに頼るように
資料の要点把握 → AIができる
どれも、正直、便利ですよね。僕自身も、もはやAI無しでは仕事が成り立たなくなってきつつあります(まぁもちろんなければ無いなりにやるのでしょうが)でも、どこかでふと「このまま進んで大丈夫なのかしらん?」という違和感は無いわけではありません。しかし、これはおそらく、“思考”という行為そのものの重心がズレてきているということなのではないだろうか、と僕は考えています。
すべてが「即応」を求めてくる社会で
今、私たちは「深く考える」ことより、「すぐ答える」ことを求められていますよね。SNSではリアクションが速い人が目立ち、会議ではアイデアが早く出せる人が重宝され、検索では最初に出てきた答えを信じることが日常になりました。ビジネスチャットの登場は、むしろ生活時間の中に仕事が無遠慮に入り込むようになっています。
これは、求められる「思考の質」が変化している、と捉えられるのではないでしょうか。思考とは本来、「うーん」とうなったり、「ちょっと寝かせよう」と時間を置いたり、「もう一回ゼロから考えてみようか」と戻ったりするプロセス、というイメージですが、でも今の社会は、その「揺れ」や「逡巡」に時間を与えてくれないほど、様々な情報が奔流のように襲いかかってきますよね。思考は、すばやく、切れ味鋭く、無駄なくあることを求められている時代です。
じっくりコトコト煮込むような思考は、もう求められていないのか?そんなことはありませんが、好まれるのはやはり素早い、インスタントなものになってきているとは思いませんか?
「退化」か? それとも「再編成」か?
ここまで見てきた変化は「退化」なのでしょうか。少し冷静に考えてみると、必ずしもそうではない、と言えます。
記憶力が落ちた代わりに、検索力は高まり、素早く目的にたどり着けるようになった。
漢字も忘れてるし、あまり上手な文章も書けなくなったが、即時の情報伝達力は飛躍的に上がった。
道に迷うことは減ったけど、より多様なルートで目的地に到達できるようになった。
私たちは「かつての力」を手放す代わりに、「新しい能力」を獲得してきたとも捉え直すこともできます。つまり、退化ではなく「能力の再編成」と呼ぶべきかもしれません。使わなくなった筋肉は落ちるけれど、その分別の筋肉を鍛えているような。「どこを使って考えるか」が変わってきたとも言えるかも知れません。かつて自分の中に溜め込んだ知識が多い人ほど重宝されました。しかし、今、知識をどれだけ詰め込んでも、GoogleやAIには勝てません。
では、“考える力”の本質とは何なのですかね?
AIとともに「考える」ということ
「考える」とは、どこで起きているのか?
「考える力」とは、何を指しているのか?
もしそれが「記憶力」「計算力」「移動の判断」だけのことだとしたら、AIを凌駕する人類はもはや存在しません。でも、「考える」という営みの本質が、「意味を見出すこと」「問いを持ち続けること」だとすれば?まだAIに置き換えられていない領域はまだ残っていると思うのです。
そもそも「AIは考えている」のでしょうか?
ChatGPTに代表される生成AIの登場以降、よくこんな問いが投げかけられる。「AIは感情を持たない」「文脈を理解していない」「予測してるだけだ」
確かにそれはそうですが、これらの言葉は実は人類自身が安心するための言葉なのかもしれなくて。実際に使ってみた人はもう知ってますよね、AIとの対話は、もはや単なるツール利用ではなく…まぎれもなく「共に考える」体験だ、ということに。
思考が“外に出る”という進化の続き
これまで記してきた通り、人類は思考をずっと以前から外に出してきました。文字の発明、紙のメモ、計算機、地図、検索エンジン……これらはすべて、「思考の一部を道具に委ねる」試みでした。文字と紙があるから、むかしの人々の生活とその思いに気づくことができるわけですから、あれは原初のデータベースと言ってもいいでしょう。
そして今はAIという新たな存在によって、思考のパートナーとしての“他者”が登場した、と捉えることができます。AIを単なる道具としてではなく、
会話が成立する相手として、少なくとも僕はそう捉えています。ある問いを投げれば、それなりに筋道だった答えを返してくるし、たまにトンチンカンなことを言うけれど、そこにヒントがあったりすることも少なくありません。つまり、そこには人との会話が成立しているんですよね。
「考えること」は、孤独な営みではなくなった
これまで、思考とは「沈黙の中で一人でうんうん唸るもの」でした。自分の中に深く潜って、答えを探すプロセス。もちろん、人との対話によって一部思考の共有や新しい発見があるのも事実ですが、しかし、それは、AIと一緒に考えるときには、人との対話とは少し違うかたちになると僕は実感しています。なにせ、おおよその人類よりを遥かに凌ぐ情報量を有しているわけでして、だからその対話は、人と行うよりもさらに「知的生産性」が高いんですよね。AIと対話しながら自分の思考を深めているとき、自分の中の“問い”が拡張される体験を良くします。もともと探究的問を考えることが好きな僕ですから、その問の拡張はAIよって更に広がりを見せています。
拡張か、委任か─思考を「渡す」ことへの葛藤
とはいえ、この変化には不安もつきまとうと思うのです。自分で調べなくても「要約が得られる」「論点が提示される」「上手な文章が作れる」「それっぽい絵が描ける」などなど。こうした便利さは、ある意味「思考の委任」と捉えてもいいのではないでしょうか。
たとえば、会議の議事録を自動生成するAI。読んだ本の感想を要約してくれるAI。メールの返信案を提案してくれるAI……確かに効率的だけど、そこに「自分が考える余地」つまり「自分がいる意味」は残されているのか?ということは、もしかして人類には「思考しなくて良い時代」が到来しているのではないだろうか?とも考えてしまいます。
では、AIがあらゆる情報処理や文章生成を行う時代において、人間の「考える力」は残されているのか?残されているとすれば、どこにあるのか?そのヒントはまさにこのような「問い」にあると思うのです。
何を問うか?
なぜその問いを立てたのか?
その問いの先に、どこへ向かうのか?
AIは、与えられた問いへ素早く回答することは得意ですが、その人自身が持つ“本当に問うべきこと”を見つける力は持っていません。少なくとも現時点では、ですが。だからこそ、人類は、問いを育て、問いを深め、問いを繋いでいくという”探求”が重要になるんじゃないでしょうか?
逆に言えば、探求できない人類は、もはや必要とされないのかも知れない。まさに正しく「AIに仕事を奪われる人々」になると思います。
思考は、孤立した個人の中ではなく、関係性の中で育つ
「考える」とは、何か。ヴィゴツキーが言ったように、それは言葉の内面化によって生まれる行為であり、メルロ=ポンティが指摘したように、それは身体と環境の相互作用から生まれるプロセスであり、レイコフとジョンソンが言うように抽象的な思考は、身体的経験に根ざした比喩を通してしか理解できないもの。そうやって考えたことを他人との対話や議論によって、さらに気づきを得て深める行為。思考とはまさに個人の内面と、他者との関係性の中で育つものです。
そしてその「他者」は、もはや人間だけではない。AIやデジタルエージェントとの対話もまた、私たちの思考を触発する存在になっています。そういたた人間以外との思考的対話は、人類の思考をさらに進化させる可能性も、また一方で思考能力を退化させる可能性も、両方ありますが、だからこそ、AIを忌避するのではなく、積極的に対話していくことがより必要になっていくようにも思えます。
AIを拒絶しなかった将棋界が、藤井聡太氏をはじめとした若い才能を開花させていったように、AIとの対話による知恵の拡張、いわばそれは流動性知能、結晶性知能に続く第三の知能<相互拡張性知能>と名付けても良いかも知れません。
それでも、人類は“考える存在”である
「考える」ということを、これほど深く考えたことは、僕にとってもいまだかつて無いことでした。赤ん坊の頃から少しずつ獲得され、身体を通して形づくられ、道具とともに外に拡張し、AIとの対話によってさらに進化した人類の思考。このnoteでは、まさに“思考そのものを考える旅”でした。
私たちは、何を失い、何を得てきたのか?
思考は、進化したのか?退化したのか?この問いに、現時点で白黒はっきりとした答えを出すことはできません。でも、確かなことはひとつある。それあは「思考は道具ともに形を変えてきた」ということ。
道具によって手放したものもあります。時間をかけて得ていたかつての発見や、身体で感じ取っていた感覚、「わからなさ」と向き合う根気強さなどは、現代では一部手放してしまっているものも多い。
一方で、新たに手に入れたものもある。膨大な知識へのアクセス(まるでフィリップの地球の本棚)、多様な他者の視点(気にしすぎると不幸になりますが)、そして人間同士だけでは到達できない新しい問いの探求。
人類は、選び続けてきたとも言えるし、適応し続けてきた、とも言えます。これから、どんなものを手放し、どんな力を育てるか。どんな道具とともに生きるか。そして、どんなふうに「考える葦」であり続けるか。
思考とは”問い続ける力”
このnoteを書き進めながら、ぼく自身があらためて強く感じたことがあります。それは、思考の本質とは「答えを出すこと」ではなく、問いを持ち続ける力である、ということ。疑問を感じる感性、探求する好奇心。自分に、他者に、社会に、世界に、そしてその問いそのものに。思考とは、この繰り返しではないでしょうか。
しかし逆に言えば、思考をしないほうが楽ではある。何も考えずただ日々を漫然と過ごすことができるのも、今の日本です。その方が楽だという人も大勢います。
思考は分散し、拡張され、共有された先には、もしかしたら無思考があるかもしれない。どんな悩みも、ひとりで抱え込む必要は、もはやないのかもしれませんが、でも“誰かと一緒に考える”ときこそ、思考の本質はむしろ強く立ち上がってくるようにも、今回のnoteを書いていて思いました。
私たちが今すべきなのは「考えること」をやめないこと。思考を放棄するほうがラクですが、そのラクの先には何もありません。考えなくても済む時代だからこそ考える時間をつくること、答えがすぐに出る時代だからこそ問いを丁寧に育てること、他人の思考に乗っかれる時代だからこそ、自分の頭で考えること・視点を持つこと。
思考は、変わり続けるからこそ、生きている。
思考が続く探求をするからこそ、人類は「考える葦」たりうる。
さて、あなたはこのあと「何を問いますか?」
そして「問い続けますか?」
よい思考の旅を。
それじゃ、また👋
