男性アイドルの元祖フランツ・リスト
今回はフランツ・リストの話。
彼の曲を貼ってから書きはじめる。『The Consolations No.3』。
『リストマニア』という映画があるらしい。


大丈夫そ?と思われるようなビジュアル・イメージなのだが。これで “いい” のだ。若き日のリストは、約9年の演奏ツアーで、前代未聞のセックス・アピールを誇った。

1811年、ハンガリー生まれ。ヨーロッパ各地で活躍したピアニスト 兼 作曲家。
当時、ヨーロッパ中が彼に熱狂した。彼を「世界初のロック・スター」と呼ぶ人もいる。
30才までに、ロマン派音楽時代のアイコンとなっただけでなく。パリ・ベルリン・ウィーン……彼がおとずれた先の女性たちは皆、彼に夢中になった。
リスト・ファンの女性たちは、狂気じみたことをしがちだった。
ブローチやカメオに肖像を貼りつけるなど(いつだってリストと一緒よ!)、序の口で。彼のハンカチをめぐって激しく争ったり、彼が弾いたピアノの(壊れた)弦でブレスレットをこしらえたり、落ちた髪の毛・飲んだコーヒーの残りかす・葉巻の吸い殻をとりあったり、したそうだ。
いくら常軌を逸して見えても、人の誰かを好きという気持ちを嘲笑っちゃいけないよなと考える、そんな私から一言。
メルカリなくてよかったね。
【リスト様!御髪!本物!!】【リスト!〇月△日リサイタル髪の毛 本物】【リスト使用済 紙ナプキン 質問OK】
プロフィールをご覧いただき、ありがとうございます。ハンガリー在住の学生、ツェツィーリアと申します。リスト様の実家のすぐ近くに住んでいます。[…] メルカリでの出品はまだまだ初心者ですが、毎回丁寧に対応しております。大学生ですので平日の日中は対応できないことがありますが……
何を売るつもりなんだよ笑?ツェツィーリアに聞いて。

公演会場が混乱におちいることも、少なくなかったという。

(これ、VIP席と通常席と立ち見があるように見える)

(ピアノが横向きになった。後で解説する)
ハインリヒ・ハイネがこういった現象を見て、「リスト・マニア」と呼んだのだ。
「もはや病気」こうも言っていたため、おはようとつぶやくだけでバズるインフルエンサーに嫉妬する系の文言(笑)なのかなと。
当時の新聞内容。「リスト熱はあらゆる都市で発生し、年齢や知恵をもってしても防ぐことのできない伝染病である」
おもしろいのは、この続きに、我がパリではそんな事態は起こらんーー的なことが書かれていたことで。おパリ様でも、思いきりリスト・マニアは発生した。
クラシック音楽の世界は、フランツ・リスト以前と以後にわかれると。そう主張する人は大勢いる。
リストは公演に楽譜を持参しなかった。当時として、どれほどの異常行動だったのかはよくわからないが。とりあえず、たとえば、まじめなショパンはそれにドン引きしていた。
自分の顔が客からよく見えるようにと、ピアノの向きを調節(横向きに)した。演奏中に頭をふりまわすと、汗が客席に飛び散った。会場のそでから現れてピアノの前に座るというのも、はじめて行われた。
このように。現代のピアノ・リサイタルについて私たちが認識しているものの多くは、リストからきていたのだ。リサイタル(ソロ・コンサート)そのものもだ。
リストのセルフ・プロデュースの才能とパフォーマンス能力の高さが、伝わっただろうか。

裕福なパトロンに頼る時代ではなくなり。芸術で食べていくには、ファンを増やさなければならなくなっていた。
現代で言うところの、セレブリティー。音楽界のこのスターターは、リストだったということだ。
リストとショパンの関係性について。


音楽的表現方法のみならず、性格も対極的だったリストとショパンは、19世紀のパリで人気を二分していた。
「女子会」では、どっち推しかの話で盛り上がっていたことだろう。
リストが公開演奏を千単位の回数行ったのに対し、ショパンは十数回しか行わなかった。ショパンは、緊張しないで稼げるピアノ教師の方がいいと思っていたようだ。大舞台で稼いでいたリストのレッスンは、無料だった。
「ハンガリー人の方が悪魔なら、このポーランドの人は天使だ」と言った評論家(?)がいた。リストの技術が悪魔的に高いというのを使った冗談だが。イメージがあっていて、おもしろすぎる。

『The Nocturne No.20 in C♯ Minor, Op. Posth』 ショパンの遺作だ。
ショパンがつくった曲をリストが弾こうとして、弾けなかったことがあった。(この俺様が弾けないだと!?自信満々で挑み、衝撃を受けたリストが目に浮かびそうだ)リスト、しばらく身を隠してコソ練。完璧にしてから、再びショパンの前に現れた。

おもしろすぎる。そんな背景を経て、ショパンがリストにプレゼントした何曲かの内の1つが、これだ。みんな知っている有名曲だ。
冗談を言いあえる人はたくさんいるが、真の友人と呼べる存在はいないーーと嘆いていたという、ショパン。そんなショパンが、「リストが弾いてくれると、私は自分の曲を好きになることができる」と言った。
人前で弾くのが苦手だと明かすショパンに、自分と一緒に弾けば大丈夫なのではないかと、リストはショパンを連弾にさそった。
めっちゃエヴァ。


ショパンの死後、リストは彼の伝記を書いた。これは人に(リストと不倫していた女性なのだが)代筆させたもの、という説があるようだが。
他にも、ショパンとの思い出を語るリストの記述は残っている。「ショパンは天才だった。誰とて彼に比肩しない」
スティーヴン・ハフがインタビューで言っていた。
当時のピアノは今よりももろかった。リストのつくった演奏の難しい曲は、よくピアノを壊していた。彼のテクニックとパワーのおかげで、ピアノという楽器は、より堅牢なものになったのだと。
一般的な解説には、原因と結果がこの逆で書かれている。ハフの言う方が真実なら、Beforeリスト・Afterリストの話として、よりエキサイティングだ。


この方の解説が詳細でわかりやすかった。
そんなリストでも。激戦区というか、上には上がいることを思い知る一番の場所というか、のパリへはじめて出た時。音楽院への入学を断られている。
リストでさえ、人生で大きな挫折を経験したことがあるのだ。
リストはピアノに力を入れて、他の楽器には力を入れなかった。パガニーニがバイオリンだけで有名なように。
「私はピアノを弾くパガニーニになりたい」と言った。リストにも、あこがれの存在はいたのだ。

あまりの演奏技術の高さに、悪魔に魂を売りわたしてそれを手に入れたと噂された、パガニーニ。本気で、彼の前で十字をきったり・彼の足が地に着いているか確かめたりする聴衆がいた。

『ラ・カンパネラ』は、リストの完全オリジナル作品ではない。パガニーニの作品にもとづいていたものだ。
リストは、聴衆の理解がいかに表面的なものであるかも、理解していたという。
36才でコンサート・ピアニストを引退したのは、(そこにはない)もっと意味のあることをしたいと考えたからだと。
ひき続き作曲をしたり、指揮者に挑戦したり、より本格的な教育者になったりした。
教え子は通算で千人を越えたが(諸説ある)、無償で教えることをつらぬいた。故郷の音楽教育の発展を願い、「ハンガリー王立音楽院」を設立した。現在の名前は「リスト・フェレンツ音楽大学」。彼の名はハンガリー語では Liszt Ferenc である。



なんて、美しくて立派な学校なんだろう。設備も教えもすごそう。
「これからどうするかって?実は、聖職者になろうと思ってる」「そんなに破天荒で女遊びもさんざんしてきて、おま、冗談だろ」「笑うなよ。挑戦してみるのは自由だろ」
私の想像だ。あしからず。だが、リストは本当に下級聖職についた。

ロマン派の三大作曲家:シューベルト、ショパン、リスト。
『Ständchen』Schubert/Liszt
ロマン主義運動の思想とは。
真実は必ずしも公理にさかのぼりうるとは限らず、感情や感覚や直感を通じてしか到達し得ない世界には、逃れようもない現実があるーーというもの。
すごくいい。
ロマン主義文学は、より深層に隠れたこれら「真実」を探るために、感情表現を掘り下げようとつとめた。知性よりも情緒を、理性よりも想像力を、形式よりも内容を。

日本は、明治中頃に、西欧ロマン主義の影響を受けた。森鴎外の『舞姫』によって浪漫主義文学がはじまった、とされている。
日本の浪漫主義文学の例。小説:国木田独歩『武蔵野』・泉鏡花『高野聖』。詩歌:島崎藤村『若菜集』。評論:高山樗牛『美的生活を論ず』。
島崎藤村は教え子と駆け落ちした。その女性は病死してしまった。

大正浪漫とは言うが。浪漫主義は、大正初期には、自然主義への移行によって衰退していた。
リストのスキャンダラスな恋愛。
既婚の貴族女性との情事が複数あった。
「C調(#C)言葉にだまされ 泣いた女の涙も知れずに」?
これを理由に彼の人気が落ちることはなかった。むしろ、魅力の1つだととらえられた。

結婚生活のうまくいっていなかった、6つ年上の裕福な女性。マリーがリストの子を妊娠。2人はスイスへ逃げた。同棲生活でさらに2人の子が生まれた。その間、マリーは最初の夫と結婚したままだった。結局、リストとマリーは別れた。
マリーは悪口をよく言う人だった。友達(ショパン)の悪口や友達の恋人(ジョルジュ・サンド)の悪口を言われて、うれしい人などいない。何を思ったのか、ショパンとサンドの仲に亀裂が入りかねないような、デマを吹聴したりまでした。

余談だが。
ショパンが失恋をしてふさぎこんでいた時、リストがショパンに紹介したのが、サンドだった。リストに負けず劣らず恋多き、女流作家。
正反対の性質の自分と、結局は一番親しくなったショパンを見てきて、リストはわかっていたのかもしれない。この2人の相性がいいことを。最終的には破局してしまったが、10年間パートナーだった。

リストは、また既婚者と恋愛。
ポーランドの貴族の娘。カトリーネは、幼い頃から多くの書物を読み、確固たる考え方を身につけていた。厳格なカトリックであったことも、それに含まれた。10人以上の家庭教師がつき、伝統的な女性に再教育しようと試みたが、無駄だった。
親の望む相手と結婚したが、1年で別居。そんなカロリーネがリストには恋をした。カトリーネ、恋愛経験は乏しいからな……。
一部の研究者らの見解は、カロリーネがリストに新たな生き方を示したというもので。彼女と知りあってからのリストは、明晰な考え方をするようになったと。ピアニストを引退したのも、思考が変化したからだと。
学者がそう言っているのに私の推測など書いても、意味はないのだが。聞いてほしい。
リストは、前回の不倫同様……下手したらそれ以上に、彼女の高い身分などを「愛した」だけだったのではないか。
2人は10年以上一緒に暮らした。
リストと正式に結婚できるように、カトリーネは教皇に直訴したことまである。利害関係のある周囲から妨害を受けたのもあり、結局、無理だった。
入籍できないとわかったからといって、別れるだろうか。愛しあって長年いたのなら、そのまま事実婚でもよかったはずだ。絶対にカトリーネから別れたのではない。間違いなくリストの要望だ。
独り身になったリストは、また、ちらほらと女性に手を出すようになった。その頃50才くらいか。まだいけるもんね。
スターであることを自覚していたリストにとって、もっていないものと言えば唯一、貴族の称号だった。彼がカトリーネといた理由は、信仰心の高さなどから気があったというのがメインではなく、彼女の地位(と財産)だったのではないだろうか。
事実、カトリーネはリストに、トータルで莫大な額を使った。彼女が選んだ道なのだから、全くもってかまわないのだが。

まだあるんだ。
リストがカトリーネに贈った作品だ。賢く高潔で天使のようだと評されてきた女性に、リストがささげたのは、軽薄な少女についての歌だった。
そこに深読みすべき意味でもあるのか、と思いきや。リストは、ある伝記作家にこう述べた。「この2つの小さな編曲はほとんど知られていない。私自身も完全に忘れていた」
これが本当に、生涯で最も重要な恋人であり・人間としても作曲家としても発展するためのカギとなった女性、に対する態度だろうか。私は甚だ疑問だ。

私なんとなくそう思うの。いいじゃんと思うし。
最後、いろいろ勘ぐったり悪口を言ったりした。
リアルに想像して考えたら、おかしくね?と思うところがあり。それは別に謝らないよ。私は、不可解だなと思うのだから。
そんなことで。素晴らしい曲をたくさん聴かせてくれてありがとう、という気持ちが減ることはない。本当にありがとう、リスト。

