米国戦略爆撃調査団「神風特別攻撃隊」―猪口力平大佐聴取記録―
海軍聴取第12号
米国戦略爆撃調査団第62号
神風特別攻撃隊
東京
1945年10月15日
被聴取者: 日本海軍大佐・猪口力平。フィリピン戦役を通じて第一航空艦隊参謀長。
聴取者: 米海軍予備少佐J・A・フィールド・ジュニア、および米海軍予備少佐R・P・エイキン。
同席した連合国側士官: 米海軍大佐S・テラー、米海軍予備中尉R・ギャレッド。
概要
猪口大佐は、特にフィリピン戦役に関連して、神風特別攻撃隊の起源、思想および歴史について述べている。この聴取記録には、フィリピンおよび沖縄作戦における日本側航空兵力と、日本側航空部隊の戦闘序列について若干の具体的事実が含まれている。しかし全般的には、神風を生み出した精神状態を示す資料として最も興味深い。
聴取記録
質問 1944年から1945年にかけて、フィリピンではどのような職務に就いていたのか。
回答 第一航空艦隊司令部で、作戦および計画を担当していた。
質問 当地に対するわれわれの攻撃が行われていた時期、第一航空艦隊は第二航空艦隊と統合されていたのか。
回答 当初は別々であった。10月22日に第二航空艦隊と統合した。幕僚組織は一つになったが、作戦運用は引き続き別々であった。神風は第一航空艦隊によって開始された。
質問 捷号作戦では、第一航空艦隊と水上部隊の計画は統合されていたのか。
回答 統合されていた。
質問 その協同計画は誰が立案したのか。
回答 大本営である。豊田大将が大本営における海軍側の最上級者であった。
質問 その計画は捷号作戦の全体を網羅しているのか。
回答 捷号作戦全体の検討内容が一つの計画に収められていたわけではない。作戦は三段階、すなわち三つの計画に分けられていたが、全体は同一の目的に向けられていた。
質問 私は神風そのものよりも、栗田提督の艦隊に対する航空掩護に関心がある。これは計画に含まれていたのか。
回答 含まれていた。しかし悪天候のため、艦隊は結局掩護を受けられず、航空艦隊も出撃できなかった。ルソンとバタンガスの間には非常に厚い雲堤があった。あなた方の機動部隊の米軍機は、この雲堤を通って逃れることができた。
質問 ルソン島では、あなた方の航空機はどこにいたのか。
回答 ニコルス飛行場である――そして、その任務を完遂するには指揮下の航空機数が不足していた。
ここで、私が用意した神風の沿革を読み上げたい。おそらく、その中にあなた方の質問への答えが見いだされるだろう。
大西提督は1944年10月19日、神風の編成を命じた。部隊は10月20日には出撃可能な状態にあったが、攻撃の機会が訪れなかった。10月25日に最初の神風攻撃が実施され、士気を大いに高める効果をもたらした。
攻撃そのものは司令長官、すなわち第一航空艦隊司令長官によって命令されたが、実際にはフィリピン地区の全戦闘員の感情から生じたものであった。誰もが、この状況を救うには自殺以外に道はないと考え始めており、多くの志願者がいた。
たとえば10月15日、第26航空戦隊司令官の有馬提督は、自ら航空母艦に突入した。有馬提督は、部下たちの熱烈な願いを現実のものとするため、その願いの導火線に火をつけたのである。
当時、フィリピンにいたわれわれは、圧倒的に不利な戦力差によって危機が迫っていると考えていた。そのため、われわれは次のように感じていた。
われわれは天皇と国家のために命を捧げなければならない。これはわれわれに生まれつき備わった感情である。あなた方には十分理解できないかもしれず、絶望的あるいは愚かだと言うかもしれない。
われわれ日本人は、天皇と国家への服従を人生の基礎としている。他方、武士道に従い、最もふさわしい死に場所を望む。神風は、これらの感情から生まれたのである。
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神風は、これらの感情が形を取ったものであった。われわれは、私心がなく、人類の福祉と平和を念願する最高権威に絶対服従することを信じている。それによって、われわれは平和を実現できる。この観点から見れば、神風は全世界が考慮するに値するものであった。
神風の中心は士気である。神風を遂行するには、操縦者として通常の技量があれば十分であり、特別な訓練方法は必要ない。特別攻撃に関する一定の要点は教えられる。
しかし訓練期間が短く、飛行経験が最も少ない操縦者には、可能な限り短期間で神風攻撃の要領を教えた。後には、神風による夜間攻撃の訓練も行った。
数機から成るわれわれの偵察隊が敵の所在を確認すると、神風部隊は出撃した。神風部隊は作戦を秘匿しようとしたため、準備が完了し、敵艦隊の位置が確認されるまでは攻撃に出発しなかった。
各隊は5機で構成され、通常の方法で一隊ずつ順次離陸した。攻撃方法は、敵機動部隊の攻撃状況に応じて変化した。
その後、攻撃方法は変更された。少数の航空機を多数の基地に分散配置する方法が採られた。もう一つの方法は、多数の航空機を少数の基地だけに集中配置するものであった。
この方法には、多数の援護機を用意できる利点があった。あなた方の空母防御が非常に有効な場合に役立った。この方法は、上陸地点の敵を攻撃しようとする場合にも用いられた。
残念なことに、われわれの爆撃機数は不足し、航空機の行動半径も不十分であった。
質問 他の任務にとって重要な人員であると判断され、神風攻撃への参加を許可されなかった者はいたのか。
回答 本人が望むなら、誰でも参加することができ、その者は天皇に対する自らの思いを実行に移すことを誓った。
米国人の見方で唯一問題なのは、帰還するつもりで任務に出発すれば、その任務を100パーセントの効率で遂行しようとはしなくなるという点である。
失敗の最大の要因は、航空機の行動半径が短いことであった。少数の神風機を多数の基地に分散すると敵を混乱させることはできたが、援護を欠いた。多数の航空機を少数の基地に集中すると援護を付ける機会は増えたが、多方向から目標を攻撃する機会は減少した。
質問 フィリピン戦役における航空部隊と艦隊の全般的計画を承知していたのか。
回答 私の基地に関係する航空作戦計画だけである。
質問 それらの計画はあなた方の幕僚が作成したのか、それとも大本営が作成したのか。
回答 大本営から来た。全般計画の細部と実施は、われわれに委ねられていた。
質問 神風の使用は大本営によって想定されていたのか。
回答 いや。それは純粋に、その基地だけの方針であった。
質問 第一航空艦隊が神風を始めたのか。
回答 そうである。
質問 しかし同盟通信社は、1944年8月に神風操縦者を訓練していると発表していたのではないか。
回答 そのような発表にはまったく根拠がない。おそらく意味していたのは、日本の戦況が悪化しており、国家が自殺を一つの方針として用いるだろうということであって、神風が具体的な計画として存在していたということではない。
質問 最初の神風攻撃には、陸軍と海軍の双方の操縦者が参加していたのか。
回答 海軍だけである。第201航空隊の隊員であった。この種のことは下から生まれなければならず、命令できるものではない。神風戦法そのものが命令されたことは一度もなかった。
質問 小沢提督指揮下の空母部隊が、この戦役に参加したかどうか知っているか。
回答 彼の指揮下にある機動部隊が攻撃に参加した。
質問 空母所属の操縦者にも神風攻撃を実施させる意図があったのか。
回答 空母搭乗員が作戦に参加するかどうかについて、あらかじめ定められた計画はなかった。それは、その地域にいる部隊と、作戦計画を実施する責任がどの部隊にあるかによって決まった。
フィリピン戦役では、第一航空艦隊がその責任を負っていた。人員と航空機が不足していたため、彼らは、この状況に対処できる何らかの戦法を生み出すことが自分たちの責任だと考えた。
その後、第二航空艦隊がフィリピン作戦に加わると、同艦隊にも神風操縦者がいた。しかし重要なのは、神風という構想が当初、現地の状況に対処する方法として生まれたのであり、大本営から下達された全般的方針の結果ではなかったということである。
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質問 空母搭乗員の中に、陸上のあなた方の部隊に加わった者、または作戦に参加した者はいたのか。
回答 空母搭載機は24日から26日までの間、積極的に作戦に従事し、その後、われわれの陸上基地部隊に加わった。
質問 その中に、空母またはあなた方の基地から神風攻撃を実施した者はいたのか。
回答 一般に、神風攻撃は陸上基地から開始された。
質問 バカ(桜花)爆弾が発明されたのはいつか。
回答 およそ1944年8月である。その名称は海軍の下士官が爆弾に付けた。
質問 もともとはドイツから来たものなのか。
回答 そうかもしれない。しかし私の意見では、絶対に違う。ドイツの計画とは何の関係もない。
質問 桜花の製造が1944年8月に始まったという事実は、神風攻撃を使用する全般的計画が存在したことを示しているのではないか。
回答 桜花が神風計画に先行したわけではない。
質問 桜花は8月、神風は10月という二つの日付を、どのように整合させるのか。
回答 フィリピン以外の場所で、神風という考えについて全般的な構想が存在した可能性はあるが、両者に関連はなかった。
神風精神は日本人に共通するものである。大本営でそのことを考えていた可能性は十分にあるが、最初に実行されたのはフィリピンであった。私は、大本営に神風の構想があったとは承知していない。
質問 日本国内では特別攻撃隊の訓練が行われていたのではないか。
回答 計画と方針の上では、関連はなかった。ここでいう特別攻撃は潜水艦攻撃である。これらすべての攻撃に共通するものは、神風の思想である。
質問 フィリピンで神風攻撃を実施する際、レーダー探知を避けるために、何らかの特別な接近方法が用いられたのか。
回答 主な方法は、もちろん一部の航空機にウィンドウなどを散布させ、敵の注意をそらしている間に、他の航空機が主攻撃を行うことであった。
質問 接近高度について、具体的な指示はあったのか。
回答 高度についての方針は、可能な限り高く飛ぶことであり、約1万8,000フィート、すなわち6,000メートルであった。
われわれはさまざまな高度を試した。1万8,000フィートで進入し、レーダーに捕捉されたと気づくと、80ないし90メートルという低高度まで降下した。
あなた方の防御戦法に慣れた後、最も容易な高度は約3,000メートルであることが分かった。
質問 急降下攻撃に最も適した方法は何であったか。
回答 戦法は航空機の種類によって変わった。戦闘機は3,000ないし4,000メートルで進入し、敵を発見すると500メートルまで降下して、45度の降下攻撃を行った。
質問 後方、前方、または側方のうち、どの方向から攻撃することを好んだのか。
回答 後方から前部昇降機を狙うことを好んだ。後方から降下して前部昇降機を狙えば、目標艦の回避運動の効果を低下させられることが分かった。
質問 目標には優先順位があったのか。どの目標を攻撃するか具体的に指示されていたのか。また、その指示は誰が出したのか。
回答 場合によった。ある日は航空母艦、別の日は駆逐艦などであった。通常は、航空艦隊司令長官から下達される作戦計画に盛り込まれていた。
質問 神風操縦者は、われわれの戦闘機に攻撃されたとき、なぜ回避運動を試みなかったのか。
回答 そのような場合でも、主目標からかなり遠い地点にいれば回避運動を行った。回避するには遅すぎることもあった。
質問 陸軍と海軍のうち、どちらが先にこの考えを生み出したのか。
回答 海軍である。
質問 フィリピン戦役では、特別攻撃隊にどの種類の航空機が使用されたのか。
回答 ZEKE、JUDYおよびFRANCESである。
質問 沖縄戦役では、どの種類の航空機が使用されたのか。
回答 沖縄における自殺攻撃では、九州の第五航空艦隊が、フィリピンの第一航空艦隊と同じ種類の航空機を使用した。
しかし爆撃機と戦闘機の供給が不足すると、練習機が使用された。
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質問 どの種類の練習機か。
回答 白菊が使用された。また台湾からは、九三式、すなわちWILLOWだけが使用された。ほかに使用できる種類はなかった。
質問 水上機についてはどうか。
回答 水上機も使用した。ALF、PETEおよびDAVEである。
質問 実用戦闘機が不足し始めたのはいつか。
回答 およそ1945年4月10日からである。
質問 第十航空艦隊が編成されたのはいつか。
回答 1945年3月1日である。第五、第三および第十航空艦隊が、沖縄への攻撃で協同した。
質問 第一機動基地航空部隊司令官、すなわち第五航空艦隊の戦術上の名称における航空部隊司令官が、第五、第三および第十航空艦隊を指揮していたのか。
回答 第一機動基地航空部隊司令官が、第三および第十航空艦隊を指揮した。
質問 沖縄戦役中、第三航空艦隊司令長官は木更津から九州へ移ったのか。
回答 第三航空艦隊司令長官は木更津から鹿屋へ移った。沖縄作戦が始まると、第十航空艦隊司令長官は霞ヶ浦から鹿屋へ移った。
第十航空艦隊司令長官は鹿屋に1か月滞在した後、霞ヶ浦へ戻った。第五航空艦隊司令部は鹿屋にあった。鹿屋における指揮官は、戦術作戦を担当する第五航空艦隊司令長官、宇垣中将であった。
質問 3人の高級指揮官が同時に鹿屋にいたことで、何か問題は起きなかったのか。誰が指揮したのか。
回答 鹿屋では何の問題もなかった。実際、第三航空艦隊と第五航空艦隊の司令長官は海軍兵学校の同期生であった。第三航空艦隊司令長官は陽気な人物であった。
沖縄戦役中、第六航空軍は第五航空艦隊の指揮下にあった。台湾の第29航空戦隊は独立した指揮系統にあった。
質問 フィリピン戦役および沖縄で使用された神風機の総数に対し、どの程度の命中率が得られたのか。
回答 フィリピンで使用された神風機全体のおよそ6分の1が目標に命中した。沖縄についての私の推定は、およそ9分の1であった。
質問 本土防衛では、神風機の何パーセントが目標に命中すると予想されていたのか。
回答 それは、あなた方がどの地点に上陸するかに大きく左右されたと思う。
おそらく経験の浅い操縦者を使用したであろうから、成功するのは9分の1、または10分の1にすぎなかっただろう。成績が低くなるもう一つの要因は、われわれには敵戦闘機に対する防御手段がなかったことである。
質問 神風攻撃は夜間に行う予定だったのか、昼間だったのか。また、どの種類の航空機を使用する予定だったのか。
回答 主として薄暮時、または月の明るい夜に使用する計画であった。白菊、零式戦闘機およびWILLOWである。
質問 決号作戦、すなわち日本本土防衛作戦では、レーダーを装備した先導機を使用する計画であったのか。
回答 レーダー装備機があまりに少なかったため、決号作戦でそれらを大規模に使用する計画は立てられなかった。
FRANCESやMYRTなど、一部の偵察機にはレーダーが装備されていた。私の意見では、決号作戦になれば、神風に先導機は必要なかっただろう。
質問 海岸への上陸後に神風機を使用する計画だったのか。
回答 可能な限り最後の瞬間まで待ち、米軍部隊がほとんど分散していない時点で攻撃し、それによってより大きな損害を与える計画であった。
質問 フィリピンおよび沖縄戦役の数値または戦果には、陸海軍合同の神風部隊が含まれているのか。
回答 この数値は海軍だけのものである。陸軍を含めれば、おそらく数値はもっと低くなる。すなわち命中した割合が小さくなるという意味である。
質問 フィリピンでは陸軍も神風攻撃を使用したのか、それとも海軍だけか。
回答 陸軍と海軍の双方である。
質問 海軍は、九州侵攻に抵抗するため、すべての練習機を神風に用い、さらにすべての実用機も投入する計画だったのか。それとも、本州防衛のために一部の航空機を温存する計画だったのか。
回答 航空機のおよそ3分の2を九州での攻撃に投入する予定であった。
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質問 海軍の神風操縦者の飛行時間は、(a)フィリピン戦役、(b)沖縄戦役で、それぞれどの程度であったか。
回答 フィリピン戦役の者の大部分は約300時間であったが、沖縄戦役では飛行時間がわずか100時間の神風操縦者もいた。
質問 フィリピン戦役中、より経験豊富な搭乗員を温存するため、神風操縦者は飛行時間300時間以下の者に限定されていたのか。
回答 操縦者は全員、神風隊に入ることを望んでいた。しかし飛行時間が最も多い者のうち数名は、指揮官の命令によって参加を禁じられた。指揮官は彼らを雷撃に使用したかったからである。
質問 なぜ彼らを雷撃任務に限ったのか。
回答 雷撃には、より高い精度が必要だと考えていたからである。
質問 9月中旬、われわれの空母部隊がフィリピンを攻撃した。その攻撃による総損失を知っているか。
回答 ある一日の一度の攻撃で、われわれは200機を失った。ある一日には戦闘機約60機を失った。9月中、空母攻撃によって被った総損失は約1,000機であった。
質問 第二航空艦隊が台湾から南下した際、何機を伴ってきたのか。
回答 10月22日に台湾から300機である。
質問 10月24日、栗田提督はシブヤン海を通過中に攻撃された。海軍の陸上基地航空機による掩護はあったのか。
回答 悪天候のため到達できなかった。掩護する計画はあったが、実際には掩護はなかった。
質問 栗田提督は25日に、どのような支援を予定していたのか。
回答 われわれの航空機があなた方の艦艇を攻撃するという、間接支援に頼っていた。
質問 栗田提督は24日に攻撃された際、戦闘機の派遣を要請したのか。
回答 栗田提督は航空掩護を要請しなかった。十分な航空機がなければ、それを派遣しても意味がない。
質問 あなたの意見では、フィリピン防衛計画が失敗した原因は何か。
回答 第一に航空機の不足、第二に経験豊富な操縦者の不足、第三に米国のグラマン戦闘機が零式戦闘機より優れていたこと、そしてP-38が非常に高い高度を取ることができたことである。
質問 航空機不足は、国内生産によるものだったと考えるか、それともわれわれの攻撃によるものだったと考えるか。
回答 最も重要な理由は生産の不振であった。第二の理由は、航空機が戦闘地域に到着する前に消耗したことである。
質問 開戦時、戦争は長期化すると予想していたか。
回答 2年以上続くと考えていた。
質問 戦争のどの段階で、日本の勝利は不可能だと認識したのか。
回答 ミッドウェー海戦である。
質問 あなたはミッドウェーにいたのか。
回答 いや。
ガダルカナル以後、米国の圧力には抗しがたくなった。機動部隊であれば、なお機動力を保ち、作戦を続けることができる。
しかし陸上基地航空機の場合は、航空基地を保有し続けなければならず、それを失えば航空戦力は無力化される。ガダルカナル以後、圧力が非常に強くなると、残された基地から航空部隊を効果的に使用できなくなった。
もう一つの要因は、われわれには米国のB-29やB-17のような長距離航空機がなかったことである。
翻訳注: 数値、航空機の連合軍コード名、原文中の不自然または矛盾を含む表現は、内容を補正せず原文に沿って訳した。
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