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絵画のなかの真珠⑦真珠は首を望んだ―モロー《出現》のサロメ

※本シリーズは、絵画に描かれた真珠を手がかりに、その文化的意味を考察するものであり、一部に筆者の解釈を含みます。

真珠は、長いあいだ「純潔」の象徴だった。
海から生まれる白い宝石。

聖母マリア。
王妃。
花嫁。

それは清らかな女性性や、
神聖な美と結びつけられてきた。

しかし19世紀末、
フランスの画家ギュスターヴ・モローは、
まったく別の真珠を描く。

《出現(The Apparition)》に現れるのは、サロメ。

踊りの褒美として、
洗礼者ヨハネの首を望んだ少女である。

画面中央には、
光を放ちながら浮かび上がるヨハネの首。

この絵で本当に異様なのは、流血ではない。

サロメの美しさだ。

彼女の身体は、
真珠、
宝石、
金、
刺繍、
半透明の布で覆われている。

肌よりも装飾の方が強い。

モローは人物を描いているというより、
“宝飾化した幻想”そのものを描いている。

真珠はここで、純潔ではなく、
誘惑と危険の側へ置かれる。

白い真珠は、もはや無垢ではない。
血と欲望のそばで光っている。


しかし、そもそもサロメは、
なぜヨハネの首を望んだのだろうか。

実は聖書の物語では、
サロメ自身が強い憎しみを抱いていたとは、
必ずしも書かれていない。

洗礼者ヨハネは、
王ヘロデが兄弟の妻ヘロディアを奪って結婚したことを批判していた。

それを恨んだのが、サロメの母ヘロディアである。

宴の席でサロメが踊ったあと、
褒美を与えると言ったヘロデに対し、
母は娘へ
「ヨハネの首を望みなさい」と吹き込む。

つまり元々の物語は、
“魔性の少女サロメ”というより、
母の復讐の物語に近かった。


19世紀末になると、このイメージは大きく変化する。

オスカー・ワイルド、
ビアズリー、
そしてモロー。

彼らはサロメを、
男を破滅へ導く“危険な美女”として描き始めた。

そこでは宗教的教訓よりも、
退廃的な美が重要になる。

美は人を救うものではない。

むしろ、
人を狂わせ、
破滅させるほど魅惑的なものになる。


だからモローの真珠は、
フェルメールの真珠とは違う。
ポンペイの真珠とも違う。

静かな光ではない。

それは、
人の視線を奪い、
理性を失わせるための真珠である。

19世紀末、
真珠はついに“退廃の宝石”になる。

そしてサロメは、
その最も美しく、
最も危険な象徴として描かれたのである。

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