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【学マス】篠澤広『サンフェーデッド』に感じる残響系と存在しない記憶に苦しむ現象について

 最初に断りを入れておくが、篠澤広に関する考察を期待してこの記事を読んでくださっている方は、ブラウザバックすることをお勧めする。

 篠澤広の話は、全く出てこない、と言ってしまっていい。

 本記事のタイトル以上のものは、出てこない。

 本記事は、『サンフェーデッド』に『エモさ』を感じ、存在しない記憶を見てしまった人、および、Xなどで、残響系という言葉を見かけて、何それ? となった人のためのものだ。

 後、学マスのことを全く知らない人でも、楽しめるものになっている、と思う。

 最後までお付き合いいただけると嬉しい。


・残響系について

 
 昨年からアイドルマスターというコンテンツにドはまりしている。
 
 最近は、今週末にあるシャニマスの愛知公演へ向けて未読のコミュなどを追うのに忙しかったり、普通にプライベートが忙しかったため、学マスの方は、ゲームのログインしかしていなかった。

 けれども、ようやく、落ち着いたので、学マスの方もぼちぼち、追っていこう。

 ということで、早速、篠澤広の新ソロ曲『サンフェーデッド』を聴いてきた。

 結果――。

「え、これ、残響系じゃん」

 これが、感動とともに放心していた僕の口から零れ落ちた感想だ。

 実際にコメント欄などを見ると、僕と同じようなことを言っている人が多数で、とても安心した。

 それと同時に、残響系がまだまだ、愛されていることを実感できて、嬉しくなった。

 と、まあ、僕の口ぶりからわかるように、残響系は、言い方は悪いが、今は、あまり聴かれていないジャンルだ。今の高校生や中学生などの学マスPは、わからない、と思う。

 というわけで、残響系、と言われても、ピン、と来ない人のために、布教の目的も兼ねて、ちょっと紹介させてほしい。

 残響系とは、2010年代初期くらいに流行した残響レコード所属のバンド、及びその影響を受けたバンドを括る総称だ。彼らの曲には、変拍子のドラム、情緒溢れるアルペジオ、激情に訴えかけてくるディストーションや、抽象的な歌詞などが含まれている。よくわからないという人は、もう『サンフェーデッド』のような雰囲気がある、という理解でいいと思う(乱暴)。

 当時は、一世を風靡していたが、今や残っているバンドは少ない。

 現在も活動しているのは、僕が知っている限りになってしまうが、9mm Parabellum Bulletや、ハイスイノナサのギタリストである照井順政さんや、the cabs、およびそのギタリストの高橋國光さん、ベーシストの首藤義勝さんなどが挙げられる。(ちなみに、首藤義勝氏に関しては、学マスに『ENDLESS DANCE』という全体曲を提供している)

 挙げたバンドで言うと、the cabsというバンドの『キェルツェの螺旋』なんかは、『サンフェーデッド』の曲の雰囲気によく似ている。

 それと、『サンフェーデッド』の話からは、逸れてしまうが、篠澤広『コントラスト』の曲調は、どことなく、ハイスイノナサの照井さんの楽曲を想起させてくる。最近だと、ジークアクスの劇伴曲を担当していたため、照井さんのことは、知っている人は多いかもしれない。

 と、まあ、僕なりのこれ、残響系じゃん! の話は、これだけ例を挙げればわかっていただけると、思うし、このくらいにしておきたい。

 もしも、興味を持ったなら是非、これを機に残響系を聴いてほしい。

・存在しない記憶について

 
 さて――。

 これからが本題だ。

 タイトルにある、存在しない記憶について、にも触れなければいけない。

 僕は、「残響系じゃん!」と、思うと、同時に、妙に生々しい存在しない光景――記憶が、脳裏に浮かんで、離せなくなっていた。

 聴いているだけで、気がつけば、感傷に浸ってしまう。

 YouTubeで公開されているMVのコメント欄を見るに、僕と同様の感想を抱いている方々は、少なくないようで、やはり、この『サンフェーデッド』には、僕たちが抱くある種の切なくなる『ノスタルジックな感傷』を引き出す力があるみたいだ。(僕は、残響系の曲を聴いた後も似た感情に至る)

 自分の中で、確かに存在するのに、実際には、存在しない記憶。

 それを見てしまい、心が痛くなる現象。

 僕は、存在しない記憶とは、自分の想像力の範疇で、自分が考えうる「こうあるべきだった」――と思わされてしまう理想である、と考えている。

 XやYouTubeで『サンフェーデッド』に寄せられた存在しない記憶に苦しんでいる人たちの投稿を見ると、だいたいの人が、それぞれの『エモい』シーンを思い浮かべている。存在しない記憶には、必ずと言っていいほど、『エモい』という感情が含まれている。ちなみに、僕は、高校生だった僕が、真っ青な空に入道雲が浮かぶ夏休みの日に、ウォークマンにイヤホンを差し、駅のホームで電車を待ちながら『サンフェーデッド』を聴いている、という明らかに存在しない記憶を見た。

 でも、実際、僕が高校生だったころには、『サンフェーデッド』は、おろか、学園アイドルマスターというコンテンツは存在していない。

 それでも、なぜか、昔からあったような気がしてしまう。

 僕は、この『気のせい』について、迫っていきたい、と思う。

 おそらく、同種の現象として、作家の三秋縋さんが提唱した『サマーコンプレックス』が挙げられる。

 こちらに関しては、もう僕が言及するまでもなく、よくまとまった記事があるため、そちらを参照されたい。

 さて、この『サマーコンプレックス』についてまとめている記事で、「正しい夏」という言葉が出てくる。

 おそらく、僕たちが思わず見てしまう存在しない記憶には、この「正しい」という感覚が大切になってくる、と思う。

 あのとき、ああしていたら――。

 だとか。

 あのときは、ああだったのに、今は――。

 など、といった現在の自分との比較を『エモい』ものに触れたときに無意識に行い、苦しくなるのだろう。

誰に教わったわけでもないのに、まるで前世の記憶のようにはっきりと頭の中に存在する、ある種の懐かしさを伴う夏の原風景。そのヴィジョンが明確であればあるほど、またそのヴィジョンに自覚的であればあるほど、そしてそのヴィジョンと自分の経験してきた夏との乖離が大きければ大きいほど、サマー・コンプレックスは深刻なものとなります。

三秋縋、『僕が電話をかけていた場所』、メディアワークス文庫、2015年、266頁。

 僕は、この『サマーコンプレックス』を、『AIR』や三秋縋さんの作品『君の話』や、最近だと、『Summer Pockets』などで感じてきた。

 学マスだと、姫崎莉波の『キミとセミブルー』の特訓前イラストなどがある。(ちなみに僕は、姫崎莉波担当です。古きよきギャルゲーのヒロイン感がめちゃくちゃ出ていて、刺さりまくっている)

 おそらく、『サンフェーデッド』のコメント欄の存在しない記憶に苦しむ人たちは、『サマーコンプレックス』と同じような回路で、苦しんでいる。僕の見た『存在しない記憶』に関しては、この回路で説明がつく。僕が見たようなヴィジョンで聴かれている曲は、別に『サンフェーデッド』でなくてもエモーショナルなものなら何でも構わないのだ。置き換え可能なものである。

 けれども――。

『サンフェーデッド』のコメント欄には、好きなバンドの対バン相手が篠澤広で『サンフェーデッド』を聴いた記憶がある――だとか、そういったコメントが見られた。(残念ながら僕は、残響系が流行った時期と世代が少しずれてしまっているため、そのようなヴィジョンは見れなかった)

 これは、『サマーコンプレックス』と同様の回路で語ることはできない気がする。なぜなら、コメントによっては、「彼女」などとぼかされているが、そこには、「篠澤広」というはっきりとした人物が存在しており、現実の自分が経験しえたものではないからだ。置き換え不可能なものだ。

 それと、当時の残響系バンドを知っているか否かも、重要なポイントになっているように思える。

『サマーコンプレックス』を感じる回路と、今回の『サンフェーデッド』がもたらした『存在しない記憶』を見る回路の間には、似ているようで、差異がある。

僕のヴィジョンは僕自身の目に映る世界によって構成されていると思います。実経験と虚構を混ぜ合わせて自分好みに組み直したものが「正しい夏」だとして、僕の場合、虚構の成分が比較的少ないということです。

三秋縋インタビュー『サマーコンプレックスについて』https://note.com/kansyo_maso/n/ne1f29557c339

 一応、自分が間違えている可能性も踏まえて、三秋さんの回路でも、『サンフェーデッド』のもたらした篠澤広ありきの『存在しない記憶』は成立することは、お伝えしておく。

 しかしだ。

『サンフェーデッド』のコメント欄の『存在しない記憶』は、『サマーコンプレックス』よりも複雑な回路で『感傷』をもたらしているように僕には、思える。

 少なくとも、僕の理解では、『サマーコンプレックス』での『存在しない記憶』は、あくまで自分の想像の及ぶ範疇でありえた可能性のせいで憂鬱になってしまうという点がミソである。後悔の念や、誰かが経験しうることであることが大切なのだ。

 一方で、『サンフェーデッド』が一部の人にもたらした「篠澤広」ありきの置き換え不可能な『存在しない記憶』には、別に後悔もなければ、誰かが経験しえた可能性などない。

『サマーコンプレックス』の回路が機能する上で、大切な要素が明らかに欠落している。

 しかし、なぜか、感傷的な気分に陥ってしまう。

 もはや、篠澤広が架空の人物ではないかのような錯覚すら覚えてしまう。

 現実と同じ重みを持って、のしかかってくる気がしてしまう。

 僕には、別に後悔する必要もなければ、泣きたくなる気分になる必要もないのに、そうなってしまう、この『サンフェーデッド』のもたらした篠澤広ありきの『存在しない記憶』がどういう仕組みで『感傷』をもたらしているかは、現状、説明できない。

 僕は、このような『感傷』について考えることに関しては、新参者であるため、色々と勘違いしているかもしれない。

 けれども、一つ言えるのは――。

『サンフェーデッド』がもたらした『存在しない記憶』には、残響系を知っていてかつ、学マスPだから感じることができる『感傷』があるのではないか。

 と、いうことだ。

 残響系を知らなくても、『サンフェーデッド』のせいで『サマーコンプレックス』の回路が機能し、篠澤広が自分の中の「正しい夏」概念とか何かになってしまったPもいることだろう。

 そんなPの皆様にとって、今年の夏が「忘れられない夏」になることを願う。

 それでは、よき夏を――。

 追記 何か、お気づきの点があれば、コメントの方、お願いします。

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