続・女叩きをする男の中に愛されなかった女を見てしまう──貢物にもなれなかった女として
続・女叩きをする男の中に愛されなかった女を見てしまう
──貢物にもなれなかった女として
かつて女は、家族や部族の手で「贈与される存在」だった。
それは痛ましくも、ある種の社会的機能であり、意味づけられた存在であった。
レヴィ=ストロースが語ったように、女とは「交換の回路の中で、関係を媒介する存在」だった。
父から他者へ、部族から部族へ。
女は貢物だった。
そして、その貢物としての女は、贈られることで価値を獲得したのだ。
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だが今。
男たちは怒っている。
女にではない。
いや、正確には、「贈られるはずだったはずの誰か」に向かって怒っているのだ。
そしてその怒りは、皮肉にも、貢物にすらなれなかった魂を炙り出す。
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女叩きをする男を見たとき、私には彼がただの男には見えない。
彼の中に見えるのは、
交換もされず、
選ばれることもなく、
贈られるどころか、存在を封印された
**「貢物にもなれなかった女」**である。
その女は、女として扱われなかった。
いや、それ以前に、誰の手によっても媒介されなかった。
家族からも、部族からも。
彼女は贈与の場に呼ばれることすらなく、
無音の箱に封印されたまま、記憶からも消された。
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その封印が、男という形を借りて開かれたとき、
その怒りは暴力となって吹き出す。
だが、それはあまりにも哀しい暴力だ。
なぜならそれは、「交換の回路に呼ばれなかった者の怒り」──
愛される権利をも、贈与される機会をも持たなかった者の、声なき声だからである。
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ここで逆説が生まれる。
贈与の倫理が否定された社会において、
人はもはや「貢物」になることすらできない。
それは自由なのか?
あるいはただの、構造の喪失か?
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女を媒介としていたかつての社会は、ある意味で残酷だった。
だが今は、媒介そのものが消えた社会である。
誰も贈らず、誰も贈られず、誰も受け取らない。
人は、関係の祭祀から見捨てられ、ただ「独立した自我」として彷徨う。
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だからこそ、女叩きをする男が痛々しいのだ。
彼は怒っているが、それは交換されるはずだった存在への祈りの裏返しだ。
彼の言葉の裏には、常にこう書かれている。
なぜ私は誰にも贈られなかったのか。
なぜ私は誰にも媒介されなかったのか。
なぜ私は、誰の貢物にもなれなかったのか。
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この問いに、今の社会は答えを持っていない。
なぜなら、社会そのものが媒介する力を失ったからだ。
私たちは、贈与されることのない者たちを、
「自由」と呼んで見捨てたのかもしれない。
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だからこそ、彼らの怒りをただ「差別」や「女嫌い」として切り捨てるのではなく、
その背後にある「貢物にもなれなかった存在の嘆き」として聞き取らなければならない。
それは、もはや性を越えた、祭祀なき社会における魂の飢えなのだ。
