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熊害、自然権、自衛、武装

熊が町に現れたというニュースを見たとき、人々はまずそれを自然の異常と見た。だが、熊とは単なる動物ではない。それは制度の裂け目から立ち上がる黒い影であり、法が及ばぬ場所から歩いてきた「例外」そのものだ。熊は法を恐れない。自治体の境界線を知らず、国家の正当性を理解しない。熊は、国家が「想定していないもの」の形をしてやってくる。

人々が熊に襲われ、食われ、家の中にまで侵入されるとき、はじめて問われる。誰が撃つのか?誰がこの生を守るのか?警察は出動するが、撃たない。むしろ妨害する。
自衛隊は発砲しないと告げた。
法の執行者たちは、「撃つことはできない」と告げる。だがその間にも、生は奪われていく。市街地に現れた熊を前にして、国家は黙して語らず、「制度に従えば動けない」とだけ言う。

それはつまり、主権の不在を意味している。主権とは、例外状態において決断する者のことだ。制度の枠の中に留まっていれば、それは主権ではない。それは手続きだ。ホッブズが言ったように、国家とは命を守ることを条件に人々から暴力を独占した存在だ。しかし今、その契約は反故にされている。暴力は国家にあるが、それは使われない。命は奪われているが、制度は動かない。

このとき、暴力の正当性は別の場所へと滑り落ちる。それは山に入って熊を追う者たち、つまり猟友会の手に。あるいは、命を守るために声をあげる住民たちに。撃つ者こそが、守る者であり、そしてその者こそが主権を帯びる。シュミット的に言えば、国家が決断しないなら、そこに主権は存在しないのだ。主権は空白となり、その空白を埋める者が新たな主権者となる。

制度は形を保っていても、もはやそれは空洞だ。熊害は、それを可視化した出来事である。かつては中央が命を守るという信頼があった。しかし今、中央は沈黙し、制度は住民を守らない。秋田県が自衛隊に出動要請をするという事態──それは「国家が動かないなら、こちらが動く」という構図の明示だ。そして、自衛隊でさえも「発砲はしない」と留まるとき、主権の矛先は、さらに地域へと下りてくる。

こうして、熊はただの野生動物ではなくなった。熊とは国家が見て見ぬふりをしていた「外部」の象徴であり、制度の限界線をにじませる存在だ。国家が守らぬ命、国家が撃たぬ弾丸。では誰が守り、誰が撃つのか?その問いを受け取ったのは、もはや国会ではなく、山のふもとに住む人々だった。

この構造の中で、主権とは国家から「委託されたもの」ではなく、命を守る責任と共に「落ちてくるもの」として現れる。国家が機能しないという事実が、主権を現場に落下させる。それは制度の終わりではなく、制度の地層が逆転することで発生する、新たな秩序の胎動である。熊が現れたことで露わになったのは、制度の破綻ではなく、構造の真実だ。

今、制度に問われているのは、「生を守る能力」ではない。「生を守る意志」があるのかどうか、その一点だ。熊という例外状態は、国家という幻想を一瞬にして剥がす鏡であり、制度の裏にある真の統治主体を浮かび上がらせる。そこで浮上してくるのは、法律でも議会でもなく、山を歩くひとりの猟師かもしれない。
あるいは、今まで銃を取るなど夢にも思わなかった秋田県民の一人かも知れない。
ただ、私は構造の指摘には止まる。
「北海道、東北地方、特に秋田県民は自然権、自衛に基づいた自衛と武装の権力を有すると宣言する。」

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