古代アラブ人はアメリカ人だった
古代アラブ人はアメリカ人だった
歴史の教科書を開くと、そこには私たちの常識を揺さぶるミッシングリンクがいくつも転がっている。その最たるものが、七世紀に突如として砂漠から湧き出し、当時の二大超大国であったビザンツ帝国とササン朝ペルシアを瞬く間に粉砕した「アラブの大征服」だ。それまで文明の辺境にすぎなかった遊牧民(バドゥ)や商人たちが、なぜそれほどの爆発的なエネルギーと、未知の高等文明をまるごと飲み込んで再構築するような流動的な知性、そして柔軟な適応力を持つことができたのか。現代の閉鎖的で伝統主義的な中東のイメージから逆算する限り、この謎は永遠に解けない。しかし、フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドが提唱した「家族類型」という補助線を引き、さらに大胆な仮説を立てるならば、すべてのパズルは一瞬でカチリと音を立てて噛み合うことになる。その仮説とはすなわち、
「古代のアラブ人は、現代のアングロ・サクソン、つまりイングランド人やアメリカ人のような性質を持っていた」
という驚くべき推理である。
トッドの家族類型において、現代の中東・北アフリカ社会は「内婚型共同体家族」の典型とされる。これは、父方のいとこ同士の結婚を極端に好み、兄弟は平等であり、親の権威のもとで大家族が同居する、非常に内向的でカチカチに固まった構造を指す。トッド自身、この強固な共同体構造こそがアラブ社会の不変の地層であるかのように語ることが多い。だが、ここで歴史のタイムラインをイスラーム誕生前後の「古代」へと一気に巻き戻してみよう。すると、そこには現代の共同体家族の姿とは真逆の、驚くほど流動的で、剥き出しの個人主義と能力主義が支配する「絶対核家族」的な社会のポートレートが浮かび上がってくるのだ。
絶対核家族とは、親子の絆が比較的緩やかで、子供は成人すると親の家を出て完全に独立し、遺産は個人の遺言によって自由に配分される(あるいは不均等に配分される)システムである。この類型から生まれる精神性は、徹底した「個人の自由」「自己責任」「高い移動性」、そして結果としての「極端な格差・不平等」だ。まさにアメリカ型資本主義の遺伝子そのものであるが、これと全く同じ特徴が、イスラーム前夜(ジャヒーリーヤ時代)の通商都市メッカや広大な砂漠地帯にそっくりそのまま現れている。まず、当時のメッカを支配していたのは、血縁のセーフティネットが麻痺するほどの苛烈な資本主義的・実力主義的な「不平等」だった。少数の富豪が巨万の富を独占し、弱者は容赦なく切り捨てられる社会。その中で、後に預言者ムハンマドの最初の妻となるハディージャのような、女性でありながら自らの巨大な商隊を率いて国際貿易を仕切る「自立した凄腕の起業家」が存在した。家父長的な血縁ネットワークが個人の自由を締め付けている社会では、このような女性の台頭は構造的にあり得ない。個人の才覚が何よりも評価される流動性があったからこそ、彼女は表舞台の覇者となり得たのだ。
さらに、彼らの生活の基盤にあったのは、ラクダや馬、あるいは舟を駆ってどこまでも移動する「圧倒的なフットワークの軽さ」である。過酷な砂漠という環境において、定住農耕民のように「家」の土地や古いルールに縛られることは死を意味する。水場を求め、交易路を拓くために、彼らは常に移動し続けなければならなかった。この環境が育んだのは、周囲にお伺いを立てる共同体主義ではなく、その場その場で一個人が直感と知性をフル回転させて決断を下す「自己責任のマインド」である。この砂漠の自己判断の痕跡こそが、後にイスラーム法学において、既成の権威に頼らず知性を尽くして独立的推論を行う精神――「イデュディハード」の土壌となった。砂漠の真ん中で神と一対一で対峙し、己の道を決める古代アラブ人の姿は、西部開拓時代に馬を駆り、己の銃と判断力だけでフロンティアを切り拓いていったアメリカ人のそれと完全に重なるのである。
だとするならば、なぜ彼らは現代のような「共同体家族」へと姿を変えてしまったのだろうか。ここに、中東史における最もエキサイティングな構造転換のドラマがある。結論から言えば、
「征服はアラブ民族をアメリカ人からイラン人に変えた」
のである。初期のアラブ人は、アメリカ人のようなフロンティア・スピリットに満ちた絶対核家族的エネルギーによって世界を席巻した。しかし、大征服を成し遂げた直後、彼らは広大な帝国の頂点に立つ、わずか数パーセントにすぎない「圧倒的少数派の支配者」という立場に直面することになる。ここに致命的な矛盾が生じた。もし彼らがアメリカ人のように「子供は勝せて自立し、現地の異民族と自由に結婚し、財産も自由処分する」という流動性を維持し続けたならば、アラブ人が手にした莫大な征服利権や特権、そして純血性は、わずか数世代のうちにシリア、ペルシア、エジプトといった圧倒的多数の現地社会に溶けて霧散してしまったはずだ。
そこで彼らは、生存戦略として強烈な防衛本能を発動させた。それが「いとこ結婚(パラレル・カズン婚)」の定着である。父方の兄弟の子供同士を結婚させることで、「征服利権や財産を一族の外に絶対に逃がさない」という強固な富の囲い込みシステムを構築したのだ。これによって、かつての流動的な核家族は終わりを告げ、血縁を内側へ内側へとカチカチに閉鎖していく「内婚型共同体家族」の強固なシェルターが完成した。さらにこの変容を決定づけたのが、ウマイヤ朝を打倒して成立したアッバース朝(七五〇年〜)における「ペルシア・ギリシャ風習の逆輸入」である。首都が砂漠の縁から洗練された大都市バグダードへと移ると、アラブの支配階級は、かつて滅ぼしたササン朝ペルシアやビザンツ帝国の高度で官僚的な宮廷文化を熱狂的に模倣し始めた。その過程で、それまで砂漠で自由を謳歌し、商売や政治の表舞台に立っていたアラブの女性たちは、「洗練された文明人のステータス」として、邸宅の奥の間(ハレム)に閉じ込められ、ベールの下にその姿を不可視化されていくことになる。砂漠の自由な個人主義は圧殺され、ペルシア風の緻密な階層社会、国家官僚制、そして厳格な家父長制秩序へと上書きされていったのだ。
知性のあり方もまた変容した。未知の砂漠で個人が神と向き合い、自ら判断していた「イデュディハード」の時代は終わり、ギリシャ哲学の流入によって高度にシステム化されたイスラーム法学(ウラマーによる管理)が社会の隅々までを規定するようになった。フロンティアが消滅し、システムが完成したとき、開拓者は組織人へと去勢される。古代アラブ人が辿った軌跡は、まさにこの歴史の必然そのものであった。
こうして歴史の全体像を眺めると、すべての辻褄が見事なまでに合う。「古代アラブ人はアメリカ人だった」。この仮説を採用して初めて、アラブジャヒーリーヤ時代(無明時代)の詩に躍るまばゆいばかりの個人の誇りや自由、そしてハディージャに代表される女性たちの高い地位を、大征服を成し遂げた爆発的なフロンティア・スピリットの正体として正しく理解することができる。そして、その大成功という果実を守るための代償として、彼らは自ら「アメリカ人」であることを捨て、完成された超大国のシステムと血縁の防壁をインストールし、「イラン人(共同体家族)」へと変貌していったのだ。歴史とは、環境の変化に応じて家族のあり方さえも劇的に反転させていく、ダイナミックな地殻変動の連続なのである。
