軍曹
大学時代、私には「軍曹」という友人がいた。
本名はもう思い出せない。
今でも私の電話帳には「軍曹」という名で連絡先が登録されている。
自己紹介で「軍曹と呼んでくれ。」と宣った男は、まさに軍曹だった。
坊主頭に金縁の丸眼鏡。
痩せた野良犬みたいな体つきで、少しくたびれたシャツを着て、いつもリュックを片方の肩に掛けていた。
不思議で、魅力的な男だった。
コワモテな見た目とは裏腹に、感情は安定していた。
声を荒げたり、誰かの悪口を言う姿は一度も見たことがない。
また、大学生というのは、多少なりとも周りの目を気にするものだと思うが、彼にはそういうところが全くなかった。
自分の興味が赴くままに、フラフラと生きているように見えた。
麻雀が好きで、普段は穏やかに笑っていることが多い男が、雀卓に座ると目つきが変わった。
あれは本当の戦場を知っている男の目だった。
いつもボロボロの文庫本を読んでいた。
文庫のカバーを外してしまうので、彼が何を読んでいたのか、ついぞ知ることはなかった。
そして、なぜか邦楽部で箏を弾いていた。
これが全く似合わないのである。
農学部だった軍曹は、2年になると遠く離れた別のキャンパスの近くに引っ越していった。
部活の練習日にはそこから自転車で通ってきていたのだ。
先ほど、改めてふたつのキャンパス間の距離を確認してみたのだが、なんと20kmもあるらしい。
彼はこの距離を週に何度も、自転車で往復していたのだ。
そして、最後まで似合わない箏を弾き続けた。
恐るべき男である。
彼が決して公共交通機関を使おうとしなかったのは、金がなかったからである。
一緒に学食に行った時に
「これが軍曹定食だ!!」
と言って自慢げに見せてきたお盆の上には、ご飯と、味噌汁と、冷奴と、納豆のパックが載っていた。
お盆の上の余白の多さに唖然とした。
総額200円。
だが、私も小腹が空いた時に、何度か軍曹定食を真似して食べてみたことがある。
一度、軍曹の実家から送られてきた馬肉ジャーキーを、私のアパートのコンロで焼いて、一緒に食べたことがある。
あれは夢か、幻か。
私はビールを飲んだが、彼は下戸だった。
軍曹とは、大学を卒業してから、一度も会っていない。
関西の人だから、地元へ帰っているのだと思う。
ところが数年前、私が職場への道を歩いていると、後ろから一台の自転車がものすごい勢いで追い越していった。
ヨレヨレのシャツにリュックサック。
そして異常に高いサドル。
その背中を見た瞬間、私は、
「あっ、軍曹だ。」
と思った。
冷静に考えればあり得ない。
あっという間に走り去ってしまったので確認することはできなかった。
でもあれは、軍曹だったに違いないと、今でも思っている。
なぜか髪型が角刈りになっていたけれど。
