国府津駅へ (小説)
年の瀬だというのに、国府津駅のホームから見る曽我丘陵の木々はまだ色付いていた。子どもの声に振り返ると、相模湾の水平線がきらきらと輝き、父親に肩車をされた子どもが歓声をあげているところだった。
母の一周忌のその日は快晴だった。父に伝えた時間より少しはやく国府津駅に降り立った私は、ロータリーを抜け道路を渡り、海を見にきていた。この一年、私は何度となく、この海にきていた。とくに母との思い出が、などといった心温まる話ではなく、私は単に人気のない、静かな海が好きだった。その日も砂浜には釣りをしている人がひとりいるだけで、冬の気候も手伝い、左手に江ノ島、正面に大島、右手には真鶴と湯河原、そして少し白くなった富士山を、波の音とともにゆっくりと眺めることができた。
三年前の十二月二十五日に母が死んだ。七十八歳だった。それまで大きな怪我や病気はなく、健康だけが取り柄なの、と言っていた母は、その半年ほど前から病院に通いはじめ、入退院を繰り返し、十二月に入り脳梗塞で再び入院すると、それから十日あまりで帰らぬ人となった。
母が亡くなってから私が実家に帰る頻度は約十倍になった。といっても、それまで年に一、二回だったのが月に一度に変わったということなのだが。
実家は東海道線の鴨宮駅から自転車で十五分ほどのところにあり、もともと帰省の際は、タクシーを使ったり、天気がよければ、学生時代に通った水道道を歩いて帰ったりもした。母が亡くなってからは、今度は隣の国府津駅まで、父が車で送り迎えをしてくれるようになった。家から国府津駅までは道路が広く、車で運転しやすい、ということらしかったが、昔、母から聞いた、父には国府津に別のひとがいるの、との話を思い出し、そのひとと今も仲がよいのであれば、父もひとりの寂しさがまぎれてよいかも知れない、なんてそのとき思った。
昼前に家に着くと、母にお線香をあげ、古くなった花を片付け、新しい花を手向けた。はじめのうち、父は自ら花屋へ行き、母の写真の隣へ飾っていた。「あいつの好きなひまわりを見つけた」そんなメッセージとともに、どこで見つけたのか、一月のみぞれが降る寒い朝、笑顔の母とひまわりの写真が送られてきたこともあった。ただ、元来、父はまめな人ではない。ましてや母に対して、私の知る範囲でだが、優しくするところなど、あまり見たことがなかった。母が亡くなってひと月後に帰省した際には、すでに萎れた花がもの憂げに飾ってあった。その日以降、帰省のたびに、国府津駅から家へ向かう途中にある、大型スーパーに父の運転する車で寄り、その日の夕飯の買い出しとともに、私が花屋で見繕うのが常となっていた。
「お昼、どうしようか?」
「あ、うん、なんでもいいぞ」
その日、私は夕方には仕事で横浜へ戻らなければならなかった。親類と物理的な距離が離れていたこともあり、親戚付き合いをほぼしてこなかった私は、こういったときにどうするのが正解なのか、よく分からなかった。とりあえず、落ち着いていつもより少しよいものでも食べようと思った私は、あらかじめ付近の飲食店を検索し、国府津駅近くの鰻料理屋「うな和」を見つけていた。
「鰻は?」
「鰻?」
「国府津駅の近くにあるでしょう」
「ああ、あるな、いいよ、行こうか」
鰻屋でうな重の上を二つ注文し、私は瓶ビールを、父はノンアルコールのビールを飲んだ。出来上がるまでの間、私たちはほとんど話さなかった。仲が悪いわけではないが、この一年で、私と父の間には共通する話題があまりないことが分かった。おそらく、母がいることで成り立っていた関係性だったのだろう。私は食べながら、そんなことを考えていた。
「いくつになった?」ふと父が言った。
「いくつって?」
「年だよ、お前の」
「あぁ、来月で四十八だね」
「お前が生まれる前に母さんと来たんだよ、この店」
そう言うと、父はまた黙々とうな重を食べはじめた。
鰻屋へ行った一年後、今度は父が亡くなった。胃を悪くして入院し、そのまま帰らぬ人となったのだ。
以来、実家を処分し、横浜で暮らしている私は、たまにひとりで国府津駅に降りる。人のまばらな砂浜で静かな海をただ眺め、うな重を食べながらビールを飲む。父と母はここで何を話していたのだろう、そんなことをたまに思いながら。
