フーテン坊主は虫愛る姫の夢を見るか
その年も神泉苑の桜は見事だった。
満開となった桜の木々は幾重にも連なって辺りを霞の様にけぶらせ。
文字通り咲く等の美を競っていた。
花の散り始めた古木の前に一人の青年が立っている。
狩衣を着て立烏帽子を付け太刀を佩いている。
形から察するに北面の武士だろうか。
育ちの良さそうな線の細い顔立ちをしている。
けれども表情はどこかぼんやりしていて緊張感を欠く。
夢見がちと言う形容は武士に対してはいささか失礼であろうか。
だが刀や弓で武装して馬上遠く、賊を睨みつけるより。
こうして桜の舞い散る苑でうっとりと白昼夢に浸る方が似合う風貌ではある。
微かに海の湿気を含んだ春の南風が吹き過ぎる。
爽やかな大気と幾片かの花びらに顔を愛撫され、青年はうたかたの夢境から覚醒する。
目をしばたたかせると青年は我に返った。
そうして夢心地で無駄な時を過ごした自分が、武士としてはいかにも盆暗に思えてくる。
「私は生まれてくる時代を間違えたかな」
青年は自分の生まれを他人事の様に考えながらも。
取りあえずは両の腕を天に差し上げて面を振り上げ、自嘲の笑みを浮かべてみる。
誰も見ていない所で大げさに自分を自分で嘲って見せる。
それが武士としての一縷の矜持に通ずる様に思えたのだ。
決して反省したわけではない。
天に向けた自嘲の笑みは自分自身を取り繕い自分自身に見せる体面だった。
青年はそこまで一人芝居を演じてみせ、はたと両の手で膝を打つ。
自分がお使いの途上だったことを、遅まきながらも思い出したのだ。
なけなしのやる気を心の内から引っ張り出して踵を返す。
「よっこらどっこいしょ」
青年は朝露の様に蒸発してしまいそうな気力に掛け声を掛ける。
そうして嫌で嫌でたまらない宮仕えの日常に戻ろうとするのだった。
だがこの日はそれも上手くいかなかった。
青年は踵を返した途端に再び夢幻に捕らわれて棒立ちとなったのだ。
しかも今度の夢幻は抽象的な白昼夢ではない。
数間ほど離れた木の下に花を見上げる少女が幻像となって現れたのだ。
ひどく具象的な白昼夢だった。
さっき青年を正気づかせた南の風が少し強くなり。
散りゆく桜花を吹雪かせて少女を包みこむ。
少女は桃染めの袿をつぼ折にして着ている。
振り分け髪を肩で切り揃え市女笠は被っていない。
少女の装いではあるが歳の頃は十五六歳だろうか。
成人と言ってもおかしくはない年齢にも思える。
青年は少女たる幻像をじっくり観察して堤中納言物語の中にある<虫めづる姫君>を思いだした。
友人たちは<虫めづる姫君>を「気味が悪い姫だ」と嗤いくさしたものだが青年はそうは思わない。
今でも<虫めづる姫君>には何やら弾むような明るい魅力があると感じている。
そうして青年の自嘲の笑みが、今、底抜けに明るい笑顔に変わった。
夢幻を楽しむ時に自分を嘲る必要はない。
少女の面立ちは気品があるばかりでなく知性的で美しい。
円らで大きな瞳は少し青みを帯びて澄んでいる。
面に化粧を施した様子はなく弓型の眉は生まれたままの形だろう。
紅の差されていない艶やかな唇から僅かに覗く歯は真珠のように白い。
青年が立っている場所から少女までは少し距離がある。
だが間近で観察したかのごとくつぶさにそれが分かる。
そうした少女の容貌から<虫めづる姫君>を連想したのだろうが。
青年は彼女を奇妙だとも変わっているとも思わない。
青年の空想力が生んだ夢幻の少女であるならば。
素嬪で目も大きく眉もあって歯も白いことに何の不思議もない。
青年は少女をありのままに見て「愛らしいな」と思った。
堤中納言物語には、<虫めづる姫君>に興味を持った右馬佐の御曹司が姫君の形と振る舞いを残念に感じたとある。
青年の友人たちも右馬佐の御曹司と同じ意見だった。
だが青年はただひとり皆と意見を違え同意も共感もできなかった。
だからだろう。
青年の目には桜吹雪の中に佇む少女が、たいそう愛し気に映ったのだ。
少女は偶さか青年の視線に気付くと、大きな目を更に大きく見開いて驚愕の表情を浮かべた。
そうして一瞬だけ息を飲む様子を見せた。
青年は少女を驚かせたのを済まないと思う。
だが夢幻の少女の振る舞いは奇妙だった。
白昼夢に現れた少女なのにまるで現世の者みたいではないか。
青年が戸惑いを感じていると少女は更に幻らしからぬ振る舞いにでる。
彼女は脱兎のごとく駆け寄ってきて真っ直ぐな視線をひたと青年の目に据えたのだ。
全速で走ったり男の目を見据えたり。
身分のある女性ならば例え童女であろうともすべき振る舞いではない。
けれど少女の動作のいちいちは、ぴたりと鞘に収まる刀身の様にきっぱりと小気味よい。
夢幻の少女が実在の少女の様に目的意識をもって機動したのだ。
「あなた様にはわたくしの姿がお見えになるのですか?」
おまけに鈴を転がすような声で喋りだすものだから。
青年は思わず後退る程にびっくりした。
「・・・見、見えますが。
夢か幻の中にいらっしゃる姫君かと思い。
思わず見とれてしまっていました。
これは大変なご無礼をつかまつりました。
私の無作法をどうかお許しください」
青年が夢幻と信じた少女は、こちらの視線に気付いたとたん。
まるで子犬のように息せき切って駆け寄ってきた。
少女の行動は突飛だが、彼女は躍動し言葉を話す実態を持っている。
青年の白昼夢に登場した空想上の幻像ではない。
それは明らかだ。
少女も青年に見られて驚いているが、青年の驚きは少女に勝るものだった。
風体と言葉使いからすると少女はどこぞの名のある家の姫君であろう。
すると礼儀や作法に煩い貴族社会の常識が蔦の様に絡みついてくるのは必定。
そんな憂鬱がもやっと青年の頭の中に湧く。
「だがしかし」
青年は億劫の沼に落ち込むギリギリの縁で踏ん張った。
鬱陶しいと感じた事象を、反射的に心から切り飛ばすいつもの身勝手を、「まあまあ」と押し止めた。
例えばこの少女の意表を突く立ち居振る舞いときたらどうだろう。
有職故実に倣った礼儀や作法などどこ吹く風ではないか。
青年は駆け寄ってきた少女の開口一番。
「あなた様にはわたくしの姿がお見えになるのですか?」
と言う不思議な問い掛けにも盛大に困惑した。
だがその問い掛け以上に、こちらの目を真っすぐに見て話す彼女に戸惑ったのだ。
市井の女性ですら男性と視線を合わせて会話する者はいない。
男性の目を見て話すのは女性としては不躾とか礼儀知らずと誹りを受ける行儀に当たるだろう。
けれども青年は本来なら無礼であるはずの少女の挙措を、健やかで理知的でさえあると感じてしまったのだ。
億劫だとか鬱陶しいに向かおうとした気持ちがぱたりと反転した。
少女の真っ直ぐな視線に感じた戸惑いはたちまち好意に変化した。
<虫めづる姫君>は現世の常識を外れたところに魅力があるのではなかったか。
改めてそのことに思い至ると青年の心に清々しいそよ風が吹く。
であるならばと、青年もまた世間の習わしと正道から外れることを自分に許した。
「私は鳥羽様にお仕えする下北面の佐藤義清と申す者です」
腹を括った義清は、少女に締まりのない顔でニヘラと笑いかける。
北面の武士と言うよりは無位無官のお気楽な御曹司か公達と言う風情だ。
「・・・義清様にはわたくしが何者にお見えでしょうか?」
少女は白化粧をしていないつるんとした頬に薄紅色を散らしている。
照れているのだろうか。
同時に、自前の眉(引き眉ではない)をハの字寄せているので少女が困っているのも分かる。
「都では余り見かけぬ風体をなさっておいでですが、何処かの姫君とお察しいたします」
供の者も連れず化粧も引き眉もお歯黒もしていない。
そんな珍妙な少女をどうしてか、義清は不自然とは感じなかった。
化粧っ気のない顔と大きな目に弓型の細い眉。
紅を差していない唇から覗く真っ白な歯。
少女は貴族社会の習わしと正道からすれば奇相ではある。
けれどそれがなんだと言うのだろう。
近くでよくよくみれば愛らしいばかりではない。
宮中の女御など足元に及ばない、いや五摂家の姫君さえ届かぬ程の気高さがある。
「義清様にはわたくしの姿が本当に見えているのですねぇ」
少女は悩まし気につぶやく。
そうして今更ながらにそそくさと後退って桜の大樹の陰に隠れた。
そうして辺りを憚る様にきょろきょろと見回しながら義清を手招きした。
少女の所作には小動物を連想させる可愛らしい可笑しみがある。
義清が歩み寄るなり「お耳をかしてくださいな」と少女は声を潜める。
まるで内緒話を始めようとしているようだった。
「日向にいるとあなた様が人目に立ちますので少々不都合にございます」
「それは気付きませんでした。
迂闊でした。
気の利かぬことで申し訳ありません」
なるほど高貴な家の姫君が屋外で男と立ち話と言うのはいかにも外聞が悪い。
「いいえ、わたくしではなくあなた様にとり不都合なのでございます」
少女は目を閉じて深く息を吸い込んだ。
何やら一大決心をしたようだが。
義清にはその様子がいっそうに可愛らしく思えて頬が緩むのだった。
「・・・実は、人間がわたくしの姿を見ることは本来できないはずなのです。
ですから中空に向かって話し掛けているのを人に見られたら。
義清様は正気を失くした人と思われてしまいます」
「それはまた珍妙な癖?
それとも芸?
をお持ちですね。
姫君のお姿が私以外の者に見えないのなら。
大きな声で風と話している私を、人が物狂いと思いなしても仕方ないところですね。
それはそれは、私のためにご親切なお気遣いいただきありがとうございます」
義清はぺこりと頭を下げた。
高烏帽子の先が義清の耳元に口を寄せている少女に当たりそうになる。
なぜか義清は少女の奇想天外な告白を微塵も疑おうとしない。
からかわれているのでも小ばかにされているのでもない。
少女は真実を語っている。
義清にはそれが分かった。
人に姿が見えないなら声も聞こえないだろうに。
少女が声を潜めてこそこそ喋るのが微笑ましくて仕方がない。
面を上げた義清はなんだかとても楽しそうだ。
「わたくしの姿が人間に見えないのは、癖でも芸でもありません。
この世の理というものです」
少女は怒ったように頬を膨らませる。
「すると、姫君はお狐様の眷属であらせられるとか?」
義清は真剣な表情で少女に尋ねる。
「失礼な方ですこと。
わたくしをあのような妖と一緒にしないで下さいまし」
少女は目を吊り上げようとしたのだろうが上手くいかない。
「するとそれはそれで、実に奇怪面妖な姫君でございますなぁ」
「わたくしは不思議でも奇妙な者でもありません。
まして怪しい女なんかじゃありません」
少女は今度は大きな目いっぱいに涙をためる。
気まぐれな春風の様に、その時々の感情で少女の表情はくるくる変わる。
「これはまた、度々とんでもないご無礼を申し上げました。
どうぞお許しくださいませ」
義清は再び長烏帽子がずり落ちんばかりに深々と頭を垂れた。
心の底から困り果ててのお辞儀である。
「・・・わたくしは桜の精霊でございます。
常世と現世を往還する者。
本来ならば人には見えない者にございます」
義清は腰を折ったままの体勢で、器用に顔だけ少女に上向けて叫ぶ。
「なんと!
あなた様は常世の国の姫君、神霊の宿りしお方でありましたか。
とんだ不調法の数々。
返す返すもご無礼つかまつりました。
私といたしましてはいかような神罰とて進んでお受けする所存にございます」
「そんな変な恰好で神妙なことをおっしゃられても・・・。
笑っちゃいます」
少女は朗らかな笑い声をたてる。
涙は引っ込んだようである。
「私をお許しくださいますか?」
義清は最敬礼のまま少女を眩しそうに見上げてお願いする。
「しょうがない殿方ですね。
奇妙なお辞儀は止めて面を上げてくださいまし。
あなた様はわたくしの姿がお見えになるだけでとっても変なのにどうでしょう。
理の受け取りようがもっと変」
少女の笑い声が止まらない。
「そうですか。
姫君は年毎に如月の望月の頃を目安に西海道から北上なさるのですか」
義清はどこかを遠望するような憧憬の眼差しで少女を見る。
「わたくしは桜の精霊ですからね。
南から北へと花を咲かせてまいります。
山陰道、山陽道と西国を経めぐり今は都に。
この後東海、東山、北陸道を花で満たし坂東、陸奥へと歩を進めてまいります」
義清と少女は心鏡の池の辺にある芝草の上に腰を下ろしている。
人目に付かないようにと、少し奥まった場所を選んだが奇妙な絵面に変わりはない。
長烏帽子を付け狩衣に太刀を佩いた武士が笑顔で誰かに話し掛けている。
だが彼が話しかけている先には誰もいない。
少女が心配したように。
桜の精霊が見えない者には、義清が木の芽時に狂を発した物狂いとしか思えなかったろう。
義清が桜の精霊と対話する姿を誰かに目撃される。
それは確かに彼女より彼にとっての不都合に違いない。
「姫君にとって春先から日本を南から北へと旅するのは年中行事なのですね。
そのこと。
私は姫君がとても羨ましゅう存じます。
私もどこか遠くへ旅に出とうございます」
義清はため息をついた。
「義清様には北面の武士と言うご立派なお勤めがあるではございませんか。
わたくしのような浮き草稼業に比べればご立派なお仕事ですよ。
それから姫君、姫君と義清様に呼ばれるのは、わたくし、少しこそばゆいです」
少女はこうして人と話すことができてとても楽しかった。
神仙との付き合いはあっても人の若者と会話をするのは生まれて初めてだったのだ。
「それでは不躾ながらお聞き致しますが。
姫君は他の精霊や神仙の方々からは、どう呼ばれていらっしゃるのでしょうか」
義清も桜の精霊と称する少女のことをもっと知りたいと思い始めている。
「わたくしは桜の精霊ですから、常世の皆様からも桜の精霊と呼ばれております」
「では私も姫君を桜の精霊様とお呼びすれば宜しいですか?」
「それは、なんだか違います。
姫君よりもっと違います。
むしろすごーく嫌です。
義清様。
何か良い名をわたくしのためにお考え下さいませ」
少女はニコニコしながら義清の顔を覗き込んだ。
「そうですねー。
高貴な生まれの女性の名には子という字を付けるのが今様かと。
実に安直かもしれませんが桜子様ではいかがでしょう。
宮中で女房は諱を使いませんが桜の木の下でなら宜しいのではありませんか」
義清が優しく微笑むのを見て少女は顔を赤らめた。
今日、何度目のことだろう。
「桜子。
良い名ですね。
わたくし気に入りました。
・・・嬉しい」
春風には桜の上品な香りが満ち、無数の桜花が喜びの舞いで少女を祝福する。
「わたくしは今この時から義清様に付けていただいた桜子を名乗ることにいたします。
桃の精霊や藤の精霊がさぞかし羨ましがることでしょう。
大自慢です」
桜子はエッヘンと胸を反らした。
「まあ。
・・・すっ、すっかり見違えてしまいましたわ」
「桜子様お久しゅうございます。
あれから調度一年になります」
義清が穏やかに微笑みながら桜子に会釈した。
神泉苑の桜は去年よりいっそう生き生きと咲き誇っている。
名を得た桜子の浮き立つような喜びと躍動感をそのまま反映しているようだ。
「義清様に早くお会いしたくてワクワクしながら日々を送る内。
一年などあっという間に過ぎてしまいました」
桜子の闊達な笑顔は少女と言うよりは若い娘のそれだった。
透明感のある健康的な肌と艶やかな髪は彼女の健やかさを余すところなく示している。
去年と変わらず大きく澄んだ瞳と真っ白な歯は義清にとっては何より魅力的に映った。
義清は桜子と出会ってからと言うもの女性を見る観点がすっかり変わった。
白塗りをして眉を引きお歯黒を付ける高貴な姫君達が、失礼なことと承知ながら、不気味に思えて仕方が無くなった。
「ちょっと考えまして。
私はこれからの一生を桜子様とご一緒させていただくことにしました。
日本を南から北まで、桜子様と手を携えて桜の開花を追って旅するのは、さぞや楽しいでしょう。
そこで、私は武士をやめてきました」
義清は緩み切った顔でにへらと笑う。
「まあ。
それはそれは。
わたくしは大変嬉しゅうございますけれど。
武士をおやめになってお坊様になったのですか?」
桜子が「どうして僧形に?」と頭を傾げる。
「『今生を日本のあちらこちらで花見しながら暮らしたいので明日から武士を辞めます』と言ってもそこはなかなか難しくて。
武士を辞めるのには出家してしまうのが一番手っ取り早かったのですよ」
義清は剃髪して剥き卵の様になった頭をつるりと撫でた。
「これからの人生は、桜子様とご一緒して歌を詠みながら暮らすつもりです」
「それは楽しくなりそうですね。
義清様とずーっと一緒だなんて、なんだかドキドキしてきました。
わたくしならもちろん大歓迎ですよ」
さすが桜子は花の精霊だった。
義清の突拍子もない申し出にそれは良いとばかりに手を叩いて喜ぶ。
義清だけを見て義清にまつわるしがらみや人間関係には全く興味がない。
だから桜子には心配も憂いもない。
義清もはなから桜子に断られるとはこれっぽっちも思っていない。
官職を投げ打ち家族も捨てて躊躇うことなく漂泊の人生に踏み入る。
そんな奇人と精霊は実に相性が良いのかもしれない。
良い意味でも悪い意味でも似合のふたりと言えた。
義清は傍目から見れば世を拗ねる孤高の漂泊者としか思えない。
だが本当の義清は、大好きな娘と花を追って日本中を旅して回る放埓極まりない道楽者に過ぎない。
義清は旅の先々で歌を詠みながら。
流離いの螽斯然として残りの人生を自儘に面白可笑しく全うした。
桜子と行を共にしてからの義清には秋と冬は無かった。
永遠に続くかと思われる春と夏を存分に生き切った。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さえこそ揺るがるれ
義清より九才年下の後白河上皇はあるいは、義清を知っていて、彼の生き方を<梁塵秘抄>の中に取り入れたのかもしれない。
遊ぶ子そのままの螽斯には、終ぞ、職と妻子を投げうった報いは訪れなかった。
義清はかねてからの望み通り。
如月の望月の頃。
二月十六日に遷化した。
享年七十三歳だった。
義清は二十三歳で桜子と行を共にし始めた。
実に半世紀もの間、桜子と一緒に能天気でニヘラな人生を送ったのだった。
平安時代の平均寿命は男性で三十二、三歳だったというから、同時代人としてはとても長生きしたことになる。
義清の一生を鑑みるに。
人生に関わる諸事あれこれに対する塩梅は、いい加減で適当なくらいが|至当《しとう)であろう。
誰が何と言おうと。
明日を憂い想い煩うことなく。
好きなことを楽しんで愉快に暮らすが一番と言うことになる。
義清が亡くなった歳の春。
桜子はすっかり元気を無くして日本中の桜がしょんぼりと勢いを失ったものだ。
だが永遠を生きる桜の精霊は立ち直るのも早かった。
桜子の名を付けてくれた義清は彼女の一番でありそれは未来永劫変わらない。
だが義清が大好きだった桜花のためにもいつまでもくよくよはしていられない。
義清が亡くなった後もその気になって探せば桜子を視認できる者は幾らでもいた。
桜子は時代時代毎に、その中から気が合い風流を解する極楽とんぼを選抜しては行に誘い楽しく過ごしている。
桜子が楽しければ楽しいほど日本の桜は見事なまでに咲き誇る。
桜子は今年の春もそんな相棒と一緒に桜前線を引き連れて。
弧状列島を南から北へと長閑に旅しているはずである。
