「ここは生き地獄である」ことに納得してしまう
この世は生き地獄である。毎日しにたいと思わずに生きている私からすれば理解しがたいことだった。何がそんなに苦しいのか。
これは理解しようと他者の気持ちに寄り添えないことからくるただの疑問であった。しかし実際に話を聞いてみると、彼らの話に私でも納得してしまうのだ。
話を端切れをたくさん聞いて、ようやく少しは彼らの生活が想像できるようになってきた。私のような人間が語るのも愚かであるが、救われない人というのはたくさんいるものだから、誰かの支えになれればと思う。私にとっては、彼らの世界を当事者でない私は到底完全に理解することはできないが、彼らがいなければ私がその世界を知ることもなかっただろう。私には私のこれまでの人生があるように、彼らにもまた一人一人違った人生を持っている。私は彼らが生きてきたその時間と生命を価値のないものだとは思わない。むしろ、私がもっていないものをもっている当人それぞれの価値だと考える。
私が考えうるに、彼らの生活は本当にその名の通り地獄なのである。地獄と言えばだれもが避けたいと思うだろう。あるかもわからない地獄に落ちることにおびえ、絵本では悪人などが罪の罰を受けるための場所のような表現がされる。彼らは罪を犯したと思うだろうか。いや、違う。彼らのだいたいは他者の言動や行動によって傷をつけられた者ばかりである。
具体的に何が地獄に思えるかと言うと、その傷つけた他者によって彼らの中に縛りが生まれているのである。否定され続けてきた者は、こうであらなくちゃならない、自分の価値は無価値であるなどと思い込みを植え付けられるのである。これが生きていく活動に与える影響力はすさまじい。
現代を生きていくには、まずは金が必要になる。つまり働くか、どうにかして金を生み出す必要があるのである。なにをするにも自分が生活に使うものに金がかかる。日本に生まれてしまったならば、そこは管理されている場所であり、ルールがあり、その中でしか許されないことがあり、そこにいる人間の文化に従うことが生きていく上で必要となる。
人間も所詮は動物という生をつかさどる生き物であり、生存競争も行うし、種の存続のために生きていくための能力を身に着けたり手段を選んだりする。現代社会では何をするにも他者とのコミュニケーションが必須となるのだ。
この時点で生きることに多少のハードルを感じる人も多々いるだろう。日が落ちればまた日はやってくる(日本)というように、日常は毎日やってきてしなない限りそれは続いていく。彼らはしにたいと言うが、いきていたくないや消えたいともいう。この地獄から解放されたい。自分の存在がなかったことにしたい。そうとしか考えられなくなっている人もいるだろう。
そう、彼らにとっての地獄は毎日続いてしまうのだ。彼らにとって地獄と思えるこの世界は一体どのように見えているのだろう。
生活に必要となるのが、金と、コミュニケーションだとして、まず一般的には学校に通うことになる。学校では無理にでも誰かと顔見知りになる。一つのコミュニティの中に強制的に入れられる。確実にコミュニケーションを必要とされる。ここでは人のコミュニケーションのねじれとして「いじめ」などが発生する。学校に限らず、この人間の感情によって引き起こされるいじめというものは、質の悪い人間が集まるほど起きやすく、どの人生の瞬間でも起こりうる問題である。このいじめというのは、明確に他者を攻撃をする人間とその攻撃を受ける人間が存在する。心を病む構図ができている。いじめは被害を受けた人間の心を深くむしばむことが想像できる。
問題はここからである。他者から攻撃を受け、傷を負った人間は、縛りを感じて生きることになる。その縛りをもったまま生活するのだ。
私たち人類が文明を発展させてきたうえで確立されてきた日本の生活文化として、朝起きて、用意をして、外へ出て、学校や職場に行き、学生なら勉学を、大人ならば労働を行い、家に帰り、食をいただき、風呂に入り、就寝する。だいたいがこの流れにある。これらすべてにおいて縛りを抱えるのだ。どの生活の流れでも苦痛や葛藤と闘いながら生きている。彼らには毎日毎秒自身の傷、つまり縛りと闘って生きているのである。途中で力つきて食を食べれない、風呂に入れない、用意ができずに外にでれない、などよく聞くキャンセルが起こるのである。彼らにとってはそんな精神を張り詰めて毎日頑張って生きているのに、SNSなどではキラキラした承認欲求の塊のような恵まれた生活風景を見せつけられるのだ。それは一種の否定であり、彼らの心をさらにむしばんでいく。また、身近な人間からも理解されず、だらけているなどと罵倒されてしまう。
傷をつけたのは誰だよ。なんでお前がそんなに幸せそうにしてるんだ。許せない。こうやって憎悪の感情も増大し、他人に対する嫌悪感も生まれてくるのだ。
これが「生きていたくない」と思う彼らの世界である。
ここまで私の想像であり、本当の彼らの世界ではないのだろうが、なんとなくでもいいから彼らの世界を理解しようとした結果である。
彼らが毎日を生きていることは、私たちが思うよりずっと凄いことで、怠惰などではないではないか。自分が現状運よく深く傷をつけられていないで、自分がもし同じ立場であったら正気で生活を続けていけるだろうか。私は彼らには私たち以上の価値があり、彼らにしか見えない世界を私たちは見ることができない。また、彼らの気持ちに本当の意味で寄り添えるのも、同じような経験をしている彼ら同士なのだ。
こうやって私たちと彼らというように区別するのも、生と死という思考回路に大きく違いを感じるからにままならない。私にはできないことがあると自分自身の無力さを認識した上での区別である。
ただ、私たちにできることも数多く存在する。私は彼らが少しでも生きていてもいいと思えるような世界を創るために奮闘するし、それが今の私にとっての今後の人生の価値であり、生きる意味である。
人をできるだけ傷つけないように立ち回ることは多くの人間が意識すれば可能なことである。故意に人を傷つける言葉を使わなければいいし、自分の発言が自分に直接返ってくるように感じれば、言葉遣いにも気をつかうだろう。人間の生活にはコミュニケーションが必須である。人生は人間関係であるともよく聞く。ただの1人の人間と良いコミュニケーションが取れて、関係が築けるだけで、人の人生は何倍にも明るくなるだろう。
私たちは彼らのことを諦めてはならない。生きることを強制するようで申し訳ないが、私は彼らに価値があることを確信しているし、傷ついた彼らにこそ幸せになってほしいと思う。
どうか彼らを認める優しい言葉を。否定せずに温かく受け止めてくれる人間を。私は彼らの地獄の話を聞き、傍にいるのだ。
