ショートショート 「最後のオートフォーカス」最後のシャッターは、二人の時間を写した。
夫が作品として遺した十二万八千四百六十一枚の写真に、妻を被写体にしたものは一枚もなかった。
瀬川隆一は、人物写真で知られた写真家だった。
俳優、作家、政治家、スポーツ選手。名前の知られていない工場労働者や、港で働く老人、戦地から帰った若い兵士も撮った。
隆一の写真に写る人々は、どこか遠くを見ていた。
美和子は、夫が亡くなってから九か月かけて、そのすべてを整理した。
作品番号、撮影日、場所、被写体、使用機材。データを確認し、美術館へ渡すものと、家に残すものを分けていった。
もちろん、家族写真はあった。
結婚式。子供たちの入学式。海水浴や家族旅行。友人や子供が撮った写真の中では、隆一と美和子が並んで笑っていた。
しかし隆一が仕事用のカメラを向け、照明を組み、ひとりの人物として美和子を撮った写真はなかった。
最後に残ったのは、夫が晩年まで使っていた一本のレンズだった。
*
レンズには、撮影者の癖を学習するAIオートフォーカスが内蔵されていた。
シャッターを切った瞬間だけではない。
撮影者がどの顔を最初に見つけたか。左右どちらの目にピントを合わせたか。被写体が動いたとき、どの速さで追ったか。シャッターを切る前にピントを外した対象まで記録する。
使い続けるほど、レンズは撮影者の目に近づいていく。
隆一はそのレンズを二十年以上使っていた。
美和子がカメラに装着してみると、フォーカスリングは小刻みに震えるだけで、ピントが合わなかった。
メーカーの相談窓口へ連絡した。
「学習素子の劣化です」
担当者は、製造番号を確認してから言った。
「修理はできます。ただし、これまでに学習したオートフォーカスのデータは、すべて初期化されます」
「データだけを残せませんか」
「学習データはレンズの駆動素子そのものに蓄積されています。外部への移行はできません」
「このままだと、あとどれくらい使えますか」
「わかりません。次に動かしたとき、停止する可能性もあります」
美和子は、レンズを修理に出さなかった。
*
結婚前、美和子も写真家を目指していた。
隆一のアシスタントを始めたのは、二十四歳のときだった。
撮影用のライトを組み立て、露出を測り、フィルムを管理した。デジタルに変わってからは、撮影データの整理と現像も担当した。
被写体がスタジオへ来る前には、いつも美和子が撮影用の椅子に座った。
膝の上にグレーカードを載せる。
隆一がファインダーを覗く。
「もう少し右」
美和子が椅子を動かす。
「顎を引いて」
「これくらい?」
「そこ。動くな」
隆一は美和子の目にピントを合わせ、照明を調整した。
準備が終わると、美和子は椅子から立つ。
そのあとに俳優や作家が座り、隆一はシャッターを切った。
美和子が被写体として撮られることはなかった。
結婚して二十年目の夜、一度だけ夫に尋ねたことがある。
「あなた、私をちゃんと撮ったことないよね」
「撮影のたびに撮ってるだろ」
「テストばかり。シャッターを切ったことはないじゃない」
隆一はテレビから目を離さずに答えた。
「おまえはカメラを向けると、仕事の顔になるからな」
「じゃあ、どんな顔なら撮るの?」
そのとき隆一は、ようやく美和子を見た。
「教えたら、その顔をするだろ」
美和子は意味がわからず、少しだけ腹を立てた。
*
夫の死後、そのままにしていたスタジオへ入った。
壁際には機材を入れたケースが並び、床にはライトスタンドを置いていた位置に細い傷が残っていた。
美和子はカメラを三脚に載せ、古いAIレンズを取り付けた。
ライトを一灯だけ点けた。
撮影用の椅子を、床に残った印に合わせて置いた。
膝の上にグレーカードを載せ、自分がその椅子に座った。
背筋を伸ばし、顎を引く。口元から表情を消した。
三十年以上かけて身につけた、撮影助手の顔だった。
手の中のリモートスイッチを半押しする。
レンズの中で、小さなモーター音がした。
ピントは美和子の肩を通り過ぎ、背後の壁に合った。
そこからゆっくり戻ってくる。
髪。
頬。
口元。
最後に、右の目で止まった。
ファインダーの合焦表示が緑色に変わった。
美和子は椅子の上で、少し身体を右へ動かした。
レンズも動いた。
今度は、左へ身体を動かす。
レンズは、また美和子の右目を見つけた。
かつて隆一が、人物を撮るときに好んでピントを合わせていた場所だった。
美和子は、夫の指示を思い出した。
もう少し右。
顎を引いて。
そこ。動くな。
十二万八千四百六十一枚の写真を撮る前に、夫は何度、自分にピントを合わせたのだろう。
そのどれも、写真には残っていない。
教えたら、その顔をするだろ。
美和子は膝の上のグレーカードを床へ置いた。
何をすればいいのかわからなくなった。
姿勢を崩し、椅子の背にもたれた。
カメラの向こうに、隆一が立っていた場所を見る。
「最後まで、勝手な人」
そう言うと、少し可笑しくなった。
美和子はセルフタイマーを作動させた。
赤いランプが点滅を始める。
レンズは、笑いかけた美和子の右目を追った。
誰もいないスタジオに、シャッター音が響いた。
その直後、レンズの中で何かが小さく滑る音がした。
合焦表示が消えた。
美和子がもう一度スイッチを半押ししても、レンズは動かなかった。
カメラの画面を開いた。
椅子の背にもたれ、レンズの少し向こうを見ている自分が写っていた。
髪は少し乱れ、口元には笑みとも不満ともつかないものが浮かんでいた。
数日後、美和子はその一枚をプリントした。
作品番号はつけなかった。
結婚式や子供たちの入学式、家族旅行の写真が並ぶ私用のアルバム。その最後のページに差し込んだ。
美和子にとって、それは隆一が最後に撮った自分の写真だった。
ピントは少し甘かった。
それでも彼女は、その写真を撮り直さなかった。
