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「住まない場所」が、人を支えてきた―縁側という距離の発明

落水荘を考え続けていると、
どうしても思い出してしまう場所がある。

日本家屋の、縁側だ。

縁側は、
部屋ではない。
外でもない。

Photo: Wikimedia Commons
(CC BY / CC BY-SA)

そこは、
住むための場所ではない場所だった。



縁側は、
何かをするために用意された空間ではない。

寝るわけでもなく、
食べるわけでもなく、
働くわけでもない。

ただ、
座ることができる。
外を見ることができる。

それだけだ。

だが、その「それだけ」の場所が、
人と風景の関係を、
長いあいだ支えてきた。



縁側にいるとき、
人は世界に入り込まない。

雨は近いが、濡れない。
風は届くが、吹きさらしではない。
光は差すが、眩しすぎない。

Photo: Wikimedia Commons
(CC BY / CC BY-SA)

完全に内側でも、
完全に外側でもない。

その宙ぶらりんな距離が、
人の感覚を休ませる。



落水荘が、
自然との距離を決めなかった建築だとするなら、
縁側は、
距離を固定しなかった生活の装置だった。

近づきすぎない。
離れすぎない。

その中間に、
人が「居てもいい場所」をつくる。



現代の建築は、
この「居てもいいだけの場所」を
どんどん失ってきた。

Photo: Wikimedia Commons
(CC BY / CC BY-SA)

空間はすべて、
役割を求められる。

効率。
機能。
快適さ。

だが、
距離を考えるための場所は、
効率では測れない。



縁側は、
世界を理解するための場所ではない。

世界と折り合いをつけるための場所だ。

見る距離でもなく、
住む距離でもない。

ただ、
世界と並んで座る距離。



落水荘が問いかけていた
「距離を引き受けること」は、
実は、
ずっと身近な場所にも存在していた。

住まない場所。
使い道のない場所。

その余白こそが、
人と風景の関係を、
静かに保ってきたのだと思う。



※この「住まない場所」という考え方は、
現代建築や光の扱いにも、
確かにつながっている。
(水曜・土曜を目安に、続きを書く予定です)

画像出典:Wikimedia Commons
(Engawa / Japanese Residential Architecture、CC BY / CC BY-SA)

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